千年王国978年目、崩壊の前兆と愛について みりあむ様
ついにラストだーと意気込んで読み始めて今朝です。
自主企画で地元コンが始まったのでみたいなのを見かけました。
え? ってなって日付確認。
もう4月20日やん‼︎(気づかず)
まだ地元コン参加作品1文字たりとも書いてないんですけど。
断片のアイテムだけでプロットすら書いてないんですけど。
果たして間に合うのか。
修羅場はまだまだ終わらない(憔悴)
千年王国978年目、崩壊の前兆と愛について みりあむ様
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884599545
ラストなのにキャラくじを引かないことを申し訳なく思いますが
ちょっとこの物語はふざけて書けないので普通に行きます。
神は世界を創り、天使を創りだした。
そして人間を作り出した。
天使たちは神の意思に従う者ばかりではなくなり、神の意思に背く者も現れた。
神の与えし自由意思に基づいて、信仰を否定する者も少なくはなかった。
彼ら彼女らは悪魔と呼ばれた。
天使や悪魔は時に人間と触れ合い、混じり合い、生活をともにすることもあった。
しかし、ハルマゲドンにより人類の数は激減する。
誰よりも愛に満ちた天使ノームにより、清く正しい人間14万4000人のみが生き返り、生きる権利を得た。
そして世界の千年目。神の愛を受けた者は生き残り、神の存在を認めない者は滅びゆく。そう認識されている。
978年目。
死というものとは無縁であるはずの天使ノームが息絶えた。
これはきっと、愛を探す物語。
無理。あらすじ語るの無理です(初手降参)。
最後の最後にとんでもねえのを引き当てました。運命の神様ってやつは、きっととてつもなく意地悪でロマンチックなんだろうと思います。神は休暇をとってベガスにでも行っていればいいのに。
でもぶっちゃけ、最後にこの物語を引けて本当に良かったです。最後じゃなければ、多分まともに感想は書けなかったと思います。
そういう意味では、くじ運は最高でした。中途半端に疲れている時ならば書く気力はなかったでしょうし。
今回くじにしたことで一番恐怖だったことが、せっかくのラストの物語で、しょうもないのを(暴言)引き当ててしまうことでした。感想を書くにも好みやテンションはあります。
今更ですけど、この企画に公平性なんてはなからないです(ど直球)。個人の感情も読むタイミングも順番も体調も気分も関係しているのです。そんな色々なコンディションに左右されるこの感想が公平なはずがない。
だからこそ好き勝手にかけて楽しい。だから続けられたのです。
ここまで好きにやってきたので、最後まで好き勝手に語ります。
まずは一言。
この物語。
基本的には悪魔が作りだした美しさをかき集めたカエラと、記憶も曖昧な天使殺しの嫌疑をかけられた人間のカヤの一人称ですが、時折三人称も混ざります。
とてつもなく難しい手法なのですが、この物語に至ってはこの手法でいいと思いました。
様々な視点で語らないといけないほどに、物語の規模が壮大すぎるのです。
そして、聞いたことあると思ったら、聖書に書かれた内容が基となっているようです。ハルマゲドン。天使と悪魔。ノアの箱舟。アダムとエバ(イヴ)。エデンの園。千年王国という記述があるのですね。知りませんでした。
教会に遊びに行っていながらも、別にキリスト教信者ではないので、聖書知識はないのです。
作者様、聖書の知識が半端ないです(語彙力)。まあ知識がなくても、物語として読めるので、新たな見解を得るのにも読んでみる価値はあるように思います。
そして、物語を語る上で、けっこう時系列が飛んだりしているので、読むにはかなり体力がいります。読み始めたのは昨日の夜からなので、初めはその難解さに苦戦しました(酔ってたからじゃねーか)。
しかし、この今と過去を行ったり来たりするという構成により、物語が徐々に紐解かれていくうちに面白さは増して行きます。
なぜ今まで死という概念の無かった天使が死ぬことになったのか。主人公の役割とはなんなのか。
天使や悪魔。そして唯一天使とペア組んで仕事をするという役割を持った人間、厭世家の仕事とは。
わけがわからないことが繋がっていくことは、物語の醍醐味ですね。
それで何がやばいって拘り方がやばい。各タイトルの並びを見ただけで「こいつはやべえ」ってわかります。
各タイトルを図面としてみると、章ごとに階段になってるじゃんかよ。ここからすでに作者様固有の世界観を打ち出してくるとは、尊敬すら通り越して恐怖でしたよ。
文章力も恐ろしいレベルです。今回の企画内でも最後の最後にしてまたもやトップクラスと出会えて良かったです。
美麗な表現と例えや感情の揺れ動きを繊細に記した描写力。かといって風景描写も的確で面白い。全体的なレベルの高さが素晴らしいです。
なので最大級のウリであり欠点がハードルが高すぎることだと感じました。読み解くことを最初は諦めて、とりあえず読んでました。
でもですね、先が気になる文章なんですよ。情報量が多いこと、一定の知識がないと読むことすら難しいこと、バラバラのパズルを順番に見せられること。こういった要素は多々あります。
それでも、気がついたら文章の力に流されるのです。上流から下流へと川が流れるように、一度水流に飲まれたら結末まで自然と運ばされてしまいます。
本当にラストで良かったです。ラストだからこそ、後先考えずに好き勝手語れるのですから。
神という絶対的な崇拝対象がいて、その下に天使たち。悪魔という存在はもともとは天使だったんですが、神の教えを信じられなくなり、エデンの園を追放されて外の世界で生きています。
ハルマゲドンは名前しか知らないのですが、審判とか最終戦争とかそういったもののように思います。この出来事により人間たちの数は激減し、その中でも神に認められた者のみが死から蘇り生きることを許されている。そういった世界観のように思います。天使とともに仕事をする厭世家たちは、神の存在を信じ、真っ直ぐに崇拝する立場の人間です。
でも現代の世の中でも神を信じていないものはいます。神を信じない、神の教えに背くような者は迷い子として生きることになります。
そして神の考えにそぐわないものは、世界が千年を迎えた暁には、根絶される。そういった結末が信じられているように感じました。
だめだ設定的な部分は考えとしてまとまらないので、この物語で描きたかったであろう根底のものについて考えます。
愛について。
この一言につきます。
物語内でも語られているように、愛は様々な形があります。ただ神への愛さえあれば良かったにも関わらず、神は天使や人間には意思を与えました。自分で考えて行動すること。でも一途な愛のみを貫けばいいのであれば、意思なんて本来邪魔なはずです。
ただ神を崇め奉るだけでいいのなら、神の教えに背く意思、反抗をする意思なんて必要ないはずです。
けれど、この自由意思。意思があるからこそ細分化された愛の形。そして間違いや矛盾すらも、神が与えたものであるという考えが根底にあるように思います。
でも自由意思って聞こえはいいですけれど、それは不平等も不幸も運んでくる代物です。自らが自由であることは、他者を傷つけて侵害することもあります。思いに応えることも応えないこともできますから、応えられなかったものは傷を負います。
平等で完璧なシステムに自由意思なんて必要ない。細分化された複雑な愛なんか必要ない。間違いが起こることは不幸をもたらします。
それこそが神の望んだ生き物の在り方だと示しているように感じます。
信仰に厚く、清く正しいものが報われるなんて、宗教においては鉄板の教えのように思います。宗教に限らず、清く正しくあれと倫理を教え込まれますね。
けれどそれだけじゃない。生き物はもっと多様性を発揮していいと、そう言っているように感じます。
天使も悪魔も人間も、物語上ではとても完璧とは程遠い。誰もが笑って暮らせるしあわせな世界とは程遠い。誰もが愛というものがわからず、悩んで誰かを傷つけます。愛が届かないことで憎しみを抱いたりします。
どれもこれも、その不完全さが人間臭いのです。その人間臭さであり不自由さに、美しさがある。桜が散るから儚さに価値を求めるように、完璧でないことに価値がある。そのように思います。
不完全でどうしようもなく愚かであってもいい。
そんな熱いメッセージを、強く感じます。
まあ疲労やら深夜やらで明らかに頭が働いていないなって感じますけど、書けるとこまでは書きたいです。まだ気持ちが新鮮なうちに。
無償の愛。
そんな言葉を使えば、とても崇高なもののように感じます。誰かから見返りを求めない、ただ一方通行でいいんだという、究極の愛の形。
でも、そんなものって現実にはほとんどないと俺は思う。
この小説を読んでいる時に、パピヨンのソラくんを撫でながら読んだりもしていた。
ペットに向ける愛情は、無償の愛にあたるのだろうか?
俺はきっと違うと思う。首元から胴体にそって手のひらをはわせる時、かすかに反応する尻尾をみて、喜んでいるんだとこっちも嬉しくなる。愛を与えられている気がして、とても満足気な気分になる。
けれど、それは知らず知らずに見返りを求めている。なんの反応も示さず、むしろ牙をむいて敵意をぶつけてくる反応を見せられたら、きっと撫でることはないと思う。
撫でた時に揺れる尻尾。振り返った瞳に映る喜色。太ももに触れたソラくんの横腹。くっついている20㎠のぬくもりが、きっと俺に返ってきた愛の形。
嬉しくできたことで、嬉しさを与えられたから愛をあげられる。でも愛情を求めた時点でそれは無償の愛足り得ないだろう。
あなたを愛していますという言葉は、何よりも傲慢だ。ただ好きでいさせてくださいなんて告白は、好きになってくださいという気持ちが見える。
他人を愛する前に、まず愛しているのは自分だと、心のどこかで人は知っている。人という字はお互いを支え合っていると教えられるけれど、それは相互に支え合うことを強要しているように思えてしまう。
人という字を本当に漢字で表すなら、縦線を二本、横並びにひきたいと思う。そこから突起みたいな線がお互いから出ていて、触れそうで触れない距離で離れている。そんな漢字を想像してしまう。
クロスチャンネルの主人公、黒須太一はこう言う。
『友情は見返りを求めない。見返りを求めた時点で、それは取引になるから。』
愛だってそうだ。注いだ愛情に基づいて見返りを望んでしまうなら、それは物の売り買いと変わらないように思う。対価には対価を。それは平等でなくてもいいけれど、なんらかの愛が返ってくることを期待してしまう。
やはり俺の青春ラブコメは間違っているの主人公、比企ヶ谷八幡は本物を探している。
学校だって一つの社会だ。人が集まる場所は一つの社会である。そこには歴然とした力関係が生まれる。クラスには強いグループも弱いグループも発生する。そして、孤立やいじめすらもありえる。個人の力も資質も平等ではないから。
打算を前提とした関係を友達と呼ぶのなら、そんなものはいらないと言う。
でも、本当はわかっている。打算で友達をつくっていけないことなんてない。力関係の強い弱いがあってもいい。ただ寂しいから、弱いからという理由でつるんでもいい。
だから、本物なんてものはないんだって、嫌という程わかってる。
それでも彼は本物が欲しい。そんなもの、現実にはありえない。ヒーローになりたいと無邪気に笑う、子供じみた幻想だってわかっていても、彼は本物が欲しいと慟哭する。
不完全だから、完全を求める。良くなりたいと苦しみ祈る心こそが、きっと神様が描きたかった尊さなんじゃないかと、思ってもいいかなって言いたくなる。だから不平等も、自由もあるんだって、夢を持ちたくなるんだ。
で、神って一体なんなのか。
全知全能。絶対的な存在。神の愛は何よりも尊い、エロスに対する無償の愛アガペー。
でもそれは不完全な人間が望む幻想だと俺は思う。神が先にあったんじゃなくて、完璧を望む不完全な人間が、神を望んだように思えてならない。
そんな風に思っているから、俺は神を信じていない。信仰心は皆無なのかもしれない。
隣人を愛する暇があったら、まずは自分を愛せよって思う。いや、でも人って根本的に自分に自信がない人が多いように感じる。強がって俺が正しいと豪語している輩ほど、内心は不安でたまらないように思える。
そのような態度を見せていないと、軽んじられてしまうんじゃないかと不安に思っているかもしれない。俺は強いんだと口にすることで、強くなった気になりたいのかもしれない。自分は優しい人間だと主張しないと、そのように評価されないんじゃないかという不安が、根底にあるのかもしれない。
心理学の本なんかでは大抵そういう人は自信がないと評価されている。ぶっちゃけ全てにおいてその法則が当てはまるとは思っていないけれど、一理あると思う。少なくとも俺は、自分で「優しいでしょ?」って主張する奴を優しいとは思えない。自分で言うことじゃないからだ。優しさを感じるのは、与えられた他者でしょう。
まあ何が言いたいかというと、言葉は一種の隠れ蓑だ。耳障りのいい言葉は真実を隠す。隠したいから言葉を尽くす。でも本当は、自分が弱いことを感じているから隠すんだ。自分の弱点をさらけ出しておいたら攻撃をしてくださいって言っているようなものだから。人は弱い。
だからきっと神様が生まれたんだ。
虎の威を借る狐じゃないけど、神の威を借る人間。信仰心に厚い人に聞かれたら殴られそうな発言だと思う。
まあでも全知全能の神っていうのは、あまり日本人とは合わないようには思う。
八百万の神。日本ではありとあらゆるものに神が宿っているという考え方がある。神という一見手の届かなさそうな存在が、身近にいて欲しいという願望なのだろうか。
日本における神は(もちろん日本だけとは限らないが)気軽な存在で、時に人と恋に落ちたりなんかする。ドジッたり失敗したり感情的になりやすかったり。力をもっているだけで、実は人間とそう変わらない。そのような描かれ方をされていることも多々ある。それは全知全能とは逆をいく思想だと思う。
遠く絶対的な存在に対する、身近で人間臭い存在。
でも、信仰に求めている根本は同じように思う。
ただ信じていたい。あるかわからない何かを信じていたい。わからなくて怖いから「神様が見ている」とか、確認もしようのない安心が欲しい。
何らかの危機にあって追い詰められて絶望的な状況になった時、最後に信じられるものはなんだろうか。もうすがるものは何もないから、幻にすがるしかないのかもしれない。それこそ神に祈るしかないのかもしれない。
神様なんてなんの役にも立たないと知っていながら、それでも最後に何かにすがりたい。そんな気持ちがあるのではないだろうか。
『バット男』という物語では、ボコボコの金属バットを持った髭も髪もぼうぼうで、気に入らないことがあればバットを振り回して周囲を威嚇する危険人物が登場する。でも実のところバットはただの威嚇用で、実際に人を殴ったりはしない。
そのことをわかっている人は、バット男からバットを取り上げて、バット男をボコボコにしたりする。泣いてるんだか笑ってるんだか変な声を上げながらひたすら蹂躙されるその男は、社会階層における弱者のメタファーとしての役割を与えられているように感じる。
バット男はもしかしたら人を殺したり死んだりしたのかいなくなってしまうけど、行き場の失くした暴力性が今度は新たなバット男を生み出すんじゃないかと、不安に駆られて物語は終わる。
主人公は最後に祈る。最後に出来ることとして、どうかどうかと神に祈る。
「どうか僕をバット男にしないで下さい」「皆に殴られて泣かされて遊ばれるような奴にしないで下さい」「どこかの暗い公園で一人ぼっちで泣いてるんだか笑ってるんだかわからない変な声をあげさせないで下さい」「どうか」「どうか」
強い祈りは真摯な信仰は何らかの安定をもたらせてくれるかもしれない。
けれど、実はわかっているんだ。神様なんて役に立たないんじゃないかって。
『どんなに祈っても、神の存在は感じられず、僕の祈りが届けられたとは思わない。ひょっとすると、誰かをバット男にしたりしなかったりする神様はいないのかもしれない。あるいは存在したとしても、その神はあまり仕事をしていないのかもしれない。
その神は、僕たちと同じようにパーフェクトじゃないので、僕の祈りなんてうっかり聞き逃しているかもしれない』
神様はいるかいないかもわからない。
けれど、俺たちに特に何かをしてくれるわけじゃない。
そう思う。
またまたこんなことを書いてはいるけれど、神様に対する見解として、しっくりくるものが一つだけある。
信仰に薄かったり、悪い人間に対して神は天罰を下す。
そういう考え方は神様の本質をわかっていない。なんて本かは忘れてしまったけれど、どこかの本でそう書いてあった。
それじゃあ悪いことをした人間に対して、神様は何をするのか。
その答えは、神様は何もしない。
神様は人間を愛している。良い人間も悪い人間もみんな愛しているから、神様はどちらにも肩入れしないんだ、と。
この物語でも、神様は登場する。そしてみんなを愛していると発言する。
天使も悪魔も厭世家も人間も、悪魔に作られたレプリカントも。
なるほど、確かに神様の愛はみんなにきちんと注がれているのだ。
そう考えると、神様なんて信じていない俺にも、神様は愛情を注いでくれているのかもしれない。
信仰の有無なんて関係なく、ただ人であるだけで、実は愛情を受けているのかもしれない。
もしこれからの人生で理不尽に囚われたり、なんらかの悲劇に巻き込まれて、絶望して悪の道に足を踏み入れることだって、あるのかもしれない。
けれど、どんな人間になったとしても、神様は愛してくださっている。
自分以外の誰かが、見えないところで、聞こえない声で、愛を与えてくれているのかもしれない。
何もしない、ただ愛するだけの存在がいるかもしれない。
そう考えると、ちょっとだけ生きることに救いを感じられる。俺はそう思うのだ。
9163000(900万フィニッシュ)
やっとこさ全部読み終わりました。
この記事書いてる途中に寝落ちしたので、時系列が微妙におかしい。けどまあこのままでいきます。
さあこれで最終回とはいかず、まだまだ前回に倣いおまけがあります。
では、いよいよ結果発表です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます