桜の落ちる速さで――映画『秒速5センチメートル』レビュー

myz

桜の落ちる速さで

 子供のころ、親しい友達と外を走り回ったり、たあいもないことを延々話し合ったりした、なにげない、でも無性に楽しかった時間。

 いつまでも続くわけはないと分かっていながら、それにいつか終わりが来るというのが、なぜかこれぽっちの真実味も持って感じられなかった。

 でもふと気づけば、いつのまにか自分は一人でひどく遠いところまでやってきていて、昔のそんな時間がやけにきらきらと輝いて見える。


 観終わったあと、妙な話、僕はこの作品がラブストーリーだとはどうしても思えなくなっていました。

 たしかに第一話と第二話とは、それぞれ結ばれなかった恋の思い出を描いた、切ない佳作として成立しています。

 ただ三話構成の連作短編という枠組みで観ると、この映画が描いているのは、恋の話というよりもむしろ、そんな誰もが経験したことのあるありきたりのこと、ただそれだけを描いたものなのではないかと思えてなりませんでした。


 その輝いていた時間は、作中では例えば恋人と並んで歩いた夜の雪道だったり、片思いの同級生とふたりで帰った通学路だったりするわけですが、重要なのはそういう状況がそのときはいつまでも続くように思えていたのに、今はもう過ぎ去って二度と戻らないものだということなのではないか、と。

 自分の場合だと、それは高校のころ、友達と図書室の隅にたまってどうでもいいようなことばかりしゃべりあっていたときのことで、本当にくだらないことしか話していないんですが、無性に楽しかったのだけは覚えています。

 実際当時はそういう時間にいつか終わりがくるということがまったく実感できなくて、今になってあの時間は二度と戻らないんだなあと思うと無性に悲しくなるときがあります。

 なぜだか、観終わって真っ先に思い出したのがそれだったのです。

 つまりこの作品が描いているのもそういうことで、恋の物語を主軸にしたのは、それがもっとも多くの人にとって求心力があるテーマだったからということではないか、という気がします。


 毎朝同じように起きて、同じように学校や会社に行って、授業を受けて、仕事をして、友達と語り合って、家に帰って、眠りについて――

 そんなふうに思えても、人はけして一つのところに止まってはいられません。

 毎日同じことを繰り返しているようでいても、それとは気づかないぐらいのゆっくりとした速度で、人は常に今までとは違う、まったく別のどこかへと進み続けています。


 秒速5センチメートルで、桜の花びらが地面まで舞い降りてゆくように。

 時速5キロメートルで、発射台がロケットを、打ち上げ地点まで運んでゆくように。

 9年の月日をかけて、探査機が地球を離れ太陽系の縁まで辿りついて、さらに深宇宙へと旅立っていくように。


 初めは二つ寄り添って、平行な線の上を進んでいるように見えた点が、少し方向がずれていただけで、ふと気づけば随分と離れたところにある。

 まったく別々のところから引かれてきた二つの線が何かの拍子で交差して、点と点が一瞬ぶつかったかと思えば、次の瞬間にはもう、また別々の方向へと向かって進み始めている。

 どんなに寄り添ったまま、ずっと平行に進んでいきたくても、どんなに交わった一瞬、じっとそこに留まっていたくても、そうすることは絶対にできない。

 必ず人は、先に進んでゆかなければならない。


 新海誠の映像は、それを残酷なまでに鮮やかに描き出してみせます。

 光そのものを描いたかのような美術は、過ぎ去った日の輝きをこれ以上ないほど見事に提示します。

 本作がアニメである意義は、そこに尽きると思います。

 実写では、いくら過去を写そうとしてもそこに映っているのは今でしかありません。

 この作品に描かれているのは、作中のキャラクターたちが実際に経験した、輝きに満ちた過去そのものです。


 すべての大人になった人、あるいは、今大人になろうとしているすべての人に観てもらいたい映画です。

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