虚無
東 京介
虚無
金曜日の昼下がり。古びたアパートの鉄扉を体重に任せて開け、ぼんやりと家を出た。
空を見上げることはしなかったが、照り付ける日差しとうんざりするような熱風を感じ、天気は快晴であることを認識した。
何処を見るわけでもなく道に出た。そのまま道の続くままに歩き続けた。
少し経って高層ビルの建ち並ぶ風景が目に入った。陽炎を隠すようにアスファルトの上を蟻のような人々が行列を作り、交差しながら流れて行く。足を止める事なく道に沿って進み、波に抗うように人の群れへと飛び込んだ。
途中、喧噪の中から小さな鈴の音のような女の声が響いた。自分がぶつかった女が転ぶのが横目に入った。
振り返る事はしなかった。波の人々も、転んだ女を気に留めず流れ続けた。
右から左、左から右に響く、足並みの揃わない不協和音は一切として消えようとせずに人々の身体から溢れ、漏れていた。
足は、いつのまにかアスファルトから燻んだ黄土の上に着いていた。そこは小さな公園だった。
声の消えた空間で、犬を連れた老人が通り過ぎるのが目に入った。他に人影は見当たらず、ようやっと足を止めて木陰のベンチに腰を下ろした。不思議と汗はかいていなかった。
ふと目線を下ろした先に、本物の蟻が列を作っているのが見えた。地面に着いた薄汚いスニーカーを避け、ベンチの下へと行進を続けていた。
列の後ろから、八、九匹の蟻にゆっくりと小さな黒い甲虫が運ばれて来る。脚をきゅっと身体に寄せ、玉のように硬直したまま動かなかった。死んでいた。
甲虫は蟻と共にベンチの下へと消えて行った。甲虫の名前は最後まで思い出せなかった。ベンチの下を覗き込むのは野暮な気がして止めた。
蟻の列はまだ続いていた。魔が差したと言うのだろうか、すっと上げた足を列の上へと振り下ろした。
蟻たちは即座に脚を速め、散り散りに逃げ惑う。ゆっくりと踏み付けた足を上げると、下敷きになっていた数匹の蟻は驚いたように触角を吊り上げ、同じく散って行った。
散った蟻の中に、一つ動きを見せないものがあった。それはピクリと身を震わせると這いずるように動き出し、列に戻ろうと身体を捩った。右の足の内二本はへしゃげていた。
やがてそれが動かなくなると、後ろから来た新たな蟻の列がそれを飲み込み、甲虫と同じように運んで行った。
列は何事も無かったかのように続いていた。
潰れた蟻が動かなくなるまでにもがいていたのが妙に頭に残った。嵐の前の静けさ、と言う言葉があるが、逆もまた然るようだ。死という静けさの前には苦しく激しい嵐があるらしい。可笑しな事だと思って、心の中でくすりと笑った。何故か表情に出なかったのがもっと可笑しくて、また心で笑った。
ベンチから立ち上がり、巻き戻したように歩いて来た道を戻り始めた。陽が傾いて少し暗くなったこと以外は、行きの景色と全くもって変わり映えしなかった。
しかし、ぼんやりと力無かった足取りには多少の気力が上乗せされていた。
アパートの自室の前で、鍵の掛かっていない鉄扉を腕で引き、靴を履いたまま中に入った。
腐って出したままの食品やカビだらけの布団が目に入るが、匂いは感じなかった。
部屋の中央にぶら下がっていた三つ縒りロープの輪に手を掛け、転がっていた雑誌の束に乗り、そのまま首を入れた。間髪入れずに雑誌の束を蹴飛ばした。
射し込んだ淀みの無い西日に照らされながら、痛みと吐き気に襲われた。身動ぎも、追憶もしなかった。
静けさの後に、再び嵐が来る事は無かった。
これからも無い。
虚無 東 京介 @Azuma_Keisuke
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