第20話 王宮の法の抜け穴

 身体的に女性同士の恋人関係というものに偏見があるわけでも、今まで通りの態度を取ろうと気負っているわけでもないのだが、3階・エスニック雑貨店の姫と、1階・化粧品総合レジの姫王子の交際を知ってから、いざ2人に顔を合わせるとなるとだいぶ気まずかった。

 俺の親しい友人であり、姫に思いを寄せている、1階・靴屋の王子のことが、やはりどうにもいたたまれなくなるのだ。


 だが、アルバイトとはいえお賃金を貰っている仕事だ。考え込み過ぎることで起きる動揺や上の空は、ミスを誘う。

 恋愛感情が分からない俺が言うのもおかしいだろうが、頭の中で恋愛事の部分にだけフィルターを掛けて隔離するイメージで職場にいる時間を過ごすことを覚えた。


 業務に集中出来るのは、当の王子本人の堂々とした態度のおかげもあった。

 お伽の国の住人を思わせる、儚げで優美な姿と、飄々とした風情は相変わらずで、姫が姫王子と付き合い始めたのを知る前と変わりがないように見える。

 自身の持つ繊細さを、自分を貫き通す良い意味での図太さと両立させているのを目の当たりにし、その意外な器用さに感心してしまった。



「おつかれさまです、最近は遅番が多いんですか?」

 夕方から夜にかけての小休憩で、長テーブルに座る姫を見掛け、はす向かいの席に腰を下ろして声を掛けてみた、と王子本人から聞き、俺は少し驚いた。


 用事があるわけでもなくスマホをなんとなく眺めている様子だった姫が、すっと顔を上げ、答えてくれたという。

「おつかれさまです。閉店までシフトに入れる人が1人辞めちゃって、すっかり遅番になっちゃったんですよね。朝がゆっくりでいいのは楽なんですけど」

 ふんわりとした髪が顔を上げる仕草と同時に揺れる様子が目に浮かんだ。


 9月も終わりつつある薄曇りの日、社食のガラスから見える空は、沈む陽の光も、徐々に空を牛耳る夜の闇も、共にぼやけて柔らかい。意識するでもなく目に入った景色が、王子を落ち着かせたのだろうか。


「三津谷さん、俺、三津谷さんがお付き合いしている方から、2人のことを聞きました。相手の方から話したよって、もし言われてないのだったら、密かに知られているのとか気持ち悪いかなって思って。一応、報告です。あれです、報連相です」

 相変わらずニックネームの姫ではなく本名で呼び掛ける王子の声色は、冗談を混じえていながらも真面目さの伝わる、穏やかなものであったに違いない。


 黒目がちな目を細めて微笑んだ姫も、絶妙な距離感を取るのが上手い王子に気を許したことと思う。

「あ、大丈夫ですよ。この間相手から聞きました」

 王子が姫のことを好いていることも、「相手」である姫王子から伝えられているのだろうか。それは王子にも分からない。


「それなら良かった。今まで、帰りのレジ上げのときとかも会ってはいましたけど、あんまり話したことがなかったですよね。良かったら、俺と友達になって貰えませんか」

 友達って、友達になろう! と言ってなるものでもないとは思いますけど、と付け加えて、突然の申し出に対する相手の警戒心を解くのは、老若男女誰にでも好感を持たれる王子には造作もなかったことだろう。


 最初から言おうと決めて下手なお芝居の台詞のようになることもなく、さらさらと話せるのは王子の特技とも言える。

 彼は素直な本心を話しているに過ぎない。清潔な心をそのままに言葉にして、ぎこちなくなる訳もなかった。


 まずはお友達から始めましょう、という告白のやり取りにおける定型句のような言葉があるが、友達になるだけなら、既に恋人がいる相手でも可能なのである。

 こう言うと、恋愛の法の抜け穴を潜るかのようだが、実際はそんな策略めいたものではない。

 恋愛に関して幼いことを自覚している王子の今の精一杯が、友達になって下さい、と願い出ることであった。

 それでも他者からの好意に慣れている姫には、王子の懸命さが充分に伝わったのではないか。


「勿論。歳も多分一緒ですよね。よろしく」

 姫は軽く礼をするかのように顔を傾けて、笑みを湛えて王子の顔へと向き直してくれた、そう聞いて、俺も自分のことのように嬉しい気持ちになった。



 バイトが終わり、王子と2人、いつもの人気ひとけのない商店街の裏通りを自転車でゆったりと帰る道すがら、その話を聞いた。

 表通りはまだ歩いている人々もそこそこおり、バスも通っている時間帯だ。今日も姫は姫王子と一緒にバスを待っている頃合いかもしれない。

 しかし、今日に限っては姫が誰と交際し、その人とどのように過ごしているのかは、考えなくても良いように思う。


 誰かと比べることはない。

 姫と王子の距離が縮まった。

 王子が自分の手で姫との縁を手繰り寄せ、距離を縮めたのだ。

 そこが一番重要なのである。


 控えめであることが美点である人間というのは、実に他者へのアピールが難しい。

 王子は靴屋での接客中も、同僚との他愛ない会話の中でも、大学の友人達と行動を共にするときにも、常に絶妙な距離を保っている。互いの領分に踏み込み過ぎることなく、それでいて心を込めて応対をする。


 時々はもう少し突っ込んだ付き合い方をしてお互いを知るのも悪くないのではないか、と俺は考えたりもした。

 けれども、良い人間関係というのは生き生きとしたものであると、型に嵌めてしまっているのは俺のほうだったのかもしれない。

 王子と一緒にいると、これは誰にでも真似出来るものではない、非常に丁寧な他者との共存の仕方であると日々少しずつ気付かされる。


 運が良いことに彼は容姿に優れていたので、黙っていても相手側の目に留まり、興味を持たれ近付かれることで、彼の気遣いの顕れである「控えめさ」に触れられるところまで距離が縮まり、好感を持たれることが常だった。

 だが、ほぼ会話のない相手となればそうもいかない。美しく清らかな容姿としなやかな仕草の持ち主であることしか、相手には伝わらないだろう。


 恐らく、王子と姫との今までの距離は後者であった。

 しかも姫が恋愛対象とする人物に求めているものは、その距離感で分かる王子のパッと見の美しさとは、少し違うものであったようだ。

 見た目に関して良くも悪くもなく、特徴のない顔の作りをしている俺に告白してくれたくらいだから間違いはない。


 今日は、王子が姫に「控えめさ」という武器を持つ人間だとアピール出来た初めての日だったのではないか。

 丁寧に丁寧に、上等な絹のようなもので、自分と相手にとって適切な枚数の仕切りを敢えて作り、全てをさらけ出さずとも既に安全ですよ、と知らせていく静かな気遣いが、姫にようやく伝わった最初の日。


 もしかすると姫は元から、王子が差し出す優しい仕切りの枚数を、もっと減らして相対するべき人間だったのかもしれない。

 彼女は分かりやすい溌剌さは持たないが、自分の内面を他者に見せることに躊躇をしない。

 その代わり、相手の内面を無理に暴くこともしないのだ。こちらから自己開示するしか、内面を知って貰える相手ではなかった。


 でも、今日で間違いなく伝わったはずだ。

 王子は俺の自慢の友人だ。誰よりも優れた控えめさ、慎ましさの使い手なのだ。

 そして王子本人も、そんな自分で在り続けたいと願い、信念に基づいて生きている。


「良かったじゃん、凄いよ」

 軽い言葉でだが、俺は心から王子を讃えた。

 俺と王子が自転車で走る道は、夜の曇天で明るいものではなかったが、星々のようなきらきらした気分でいっぱいだった。

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