第18話 王子の平等で残酷な居城
「別に中町くんには隠す必要がないと思うから言っちゃうけど、私は今、
恋愛感情を持たない俺は勿論、王子でさえ恋愛事においてはまだまだ子供だ、そう開き直って、王子の思い人である3階・エスニック雑貨店の姫こと三津谷さんに声を掛けてみればこれだ。
俺は、1階・化粧品総合レジの姫王子こと上遠野さんと姫が最近は仕事の帰りにいつも連れ立っているという噂を聞いて、雑談の雰囲気を醸しながら事実かどうか聞いてみただけだったのだが、それに対する姫の返答には核心を突かれたどころの話ではなかった。
「上遠野さんも女の人だし、私も女だけど、話してたらそういうのもありかなって思っちゃったんだよね。上遠野さん優しいし」
日が暮れるのが毎日少しずつ早くなる。外はピンク色の不思議な夕焼けと、それより少しだけ割合の多い夜の闇が、濁るでもなく互いに混じりつつあった。
夕方からシフトに入ったので、今日の休憩は15分前後、小腹が空いたり喉が渇いたりしないよう19時頃に設けられた短い休息である。昼食を取るための昼休憩と違い、少しずつ時間をずらして短時間で人々が入れ替わるため、この9階の広々とした社食もほとんどが空席だ。
姫の働く3階・エスニック雑貨店では閉店時刻までシフトに入れる人員が1名辞めてしまったので、しばらく夜のシフトは姫をメインとして回すらしい。
おかげでこうして、他の従業員に聞かれるよりは聞かれないほうが得策であろう会話が、声のボリュームにさえ気を付ければ成り立つわけなのだが、俺は心に相当の打撃を受ける羽目になってしまった。
誰が誰を好きになることもありうるし、誰のことも好きにならないこともありうる、全てが自然なこと。
最初に言ったのは他でもない、1階・靴屋の王子だ。
恋愛感情を持たない俺自身を含め、恋愛の様々な在り方を全肯定するこの言葉を、俺は大切にしていた。
これ一つを理解しているだけで、世界の持つ「可能性」に充分な覚悟と許容が生まれ、生き易いものに変わる。
しかし、それを始めに言った王子が恋している姫の口から「可能性」の一つの形を突き付けられるとは、あまりにも皮肉ではないか。
姫にそのつもりがなくても、随分と尖った形をした「可能性」である。衝撃が大きくさすがに途方に暮れてしまった。
「不躾な質問になっちゃうかもしれないけど、元々女の人のことも好きっていうわけじゃないんだよね?」
開いた口が塞がらなかったので、ついでに声を出して問い掛けてみる。
「うん、私は男の人しか好きじゃない。だけど、上遠野さんのことは好きになれるかもしれないと思ったの。さっき中町くんに聞かれた通り、家が近いって分かって、一緒に帰るようになったじゃない?」
自分から質問を投げ掛けたくせに、一言ひとことを聞き漏らさないようにすることに酷く苦労する。姫のことを好きなのは俺ではなく王子であるというのに、ショックで普通に会話をするのも困難だ。
「あ、中町くんに振られたから自棄になって、とかでもないよ。帰りに上遠野さんと話してて、上遠野さん王子様みたいだし男の人に生まれてたら女の子にもてたかもしれませんね、みたいなことを私が言ったの」
まあ今の状態でも充分もててるけど、と姫は自分の喋りに自分で合いの手を入れる。
「そうしたら、上遠野さんが、私は女のままでも三津谷さんみたいな可愛くて頭のいい彼女が欲しいなあって。男だったら付き合ってくれてた? って言うから、冗談かなって思ったけど、褒められて悪い気はしなかったし、こっちも冗談半分っぽく、じゃあ試してみますか? って言ったの」
そしたら交渉成立しちゃった、と姫は話を締めた。
交渉、それは確かに付き合う付き合わないの話の場には意外としっくり来る言葉かもしれない。
今まで交際を申し込まれた女性に断りを入れつつ、相手への人間としての興味から友達の状態を保てないか、俺は確かに交渉をしていたし、その交渉が上手くいっていたからこそ異性の友人も増えたのだ、と我が身を振り返った。
「なるほど。じゃあ付き合ってから好きになれるかどうか決めるみたいな感じ?」
平静を装えているかは分からない。いつもより口数が多くなっている自覚はある。
「うん、まあそんな感じかな。でも男女でもそういうことあるでしょ」
恋愛感情のない俺には確証は持てなかったが、大学の友人などからそのような経験があると聞いてはいたので、肯定しておいた。
「中町くんなら大丈夫な気がして話しちゃったけど、ドン引きされたらショックだったから、普通に聞いてくれて良かったあ」
香辛料入りミルクティーのペットボトルを両手で持つ姫の口調は軽やかで嬉しそうである。
俺は引いたりはしない。だがむしろショックは俺のほうが確実に受けていた。
ゆうべ王子と、恋愛に関して幼くてもいいから、精一杯出来ることから始めていこうと話したばかりだったのだから。
姫も俺もお互い売り場に戻るべき時間になったので、姫は3階へ、俺は6階・生活日用品売り場に戻った。戻る間の記憶はない。
ただひたすら、これをどう王子に伝えたらいいか、伝えた後に俺はどんな言葉を王子に掛ければいいのか、心乱れながらぐるぐると考えていた。
いつもなら、他に何人か売り場に従業員がいれば、閉店後には率先して売り上げ金をまとめて9階に赴き、精算機と向き合って、レジでミスがなかったか多少ピリピリした雰囲気を味わう役目を買う。
上司にあたる社員さんには売り場に残って貰って、社外秘の書類の入った引き出しに鍵を掛けるなどの比較的気が楽な作業をお任せするところなのだが、今日ばかりは自分が売り場に残りたいと強く思った。
全レジから従業員が集まる部屋での、王子にも姫にも姫王子にも顔を合わせることになるであろう状況で、そつなく対応できる自信がなかった。
ちょうど良いと言ってはなんだが、閉店間際に来たお客が商品を物色している間に派手に陳列を乱してくれていたので、それを直しますと言って、精算作業は社員さんともう1人シフトに入っていたバイト仲間に任せて、俺は6階に残った。
売り場に1人残り、商品整理をしながら考える。
誰が誰のことを好きになるのも、誰のことも好きにならないのも自然なこと。
これは俺のような恋愛感情が分からない人間には大きな救いとなる。
男性が男性を、それこそ姫王子が姫に恋をしたように女性が女性を好きであるとき、社会の中では少数派であろう彼らにも光が射す言葉であると思う。
しかし、その救済であり勇気をもたらす言葉が、それを発した当の王子を傷付けようとしている。
まるで光であり闇であるその言葉は、寛容のようでいて不寛容だ。
その、ただただ明るい面だけで成り立っているわけではないところがいかにも現実的で、真理であることの証明のように感じた。
少しの時間稼ぎをしたものの、帰りは結局いつも通り王子と顔を合わせる。上手く伝えたり励ましたりする術は見つからないままだった。
「今日、珍しくレジ上げで9階に来なかったね」
駐輪場に王子の声が静かに響く。
「ちょっと話したいことがあるんだけどさ」
今度は俺と王子2人の声が同時に響いた。
驚いて顔を見合わせたが、こうしてみると王子の顔色があまり良くない。俺も王子から見たら土気色の顔をしているだろうなと思いながら話の順番を譲り、王子が口を開く。
「三津谷さん、上遠野さんと付き合い始めたんだって」
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