第11話 どれだけの群衆の中でも
バイトのシフトが入っておらず、大学の講義も午前中だけの今日は、やたらのんびりと感じる。
今月のシフトを決めるときに、この日は午後から閉店まで長時間入ることが出来ますよ、と俺のバイト先である大型スーパー6階・生活日用品売り場のマネージャーに報告を入れておいたが、出来上がったシフト表を見ると休みになっていた。
仕事も忙しくなく人手が足りている日には、こういうこともある。雇う側も払うお賃金を抑えられるものなら抑えたいのだ。
それに、単純な力仕事を思い切り任せてしまいたい俺のような体の丈夫なアルバイトは、適度に休ませてまたフルパワーで働いて貰わないと、という思惑もあるようだ。
慰労と言えばそうでもある。有り難いことだ。
せっかくなのでシフト表を貰ってすぐ、バイトが休みの今日、14時半から行きつけの美容院に予約を入れた。
大学から自転車で移動し、美容院にほど近いファーストフード店で昼食を取って時間を潰す。
ここ数日はあまりにも目まぐるし過ぎた。
ジャンクフードを口に運びながら振り返る。
我ながら、自分のことで手一杯でいても構わない年頃のように思えるが、手一杯になるのは他者が絡むからこそなのだ。
頭には俺の周囲の人々の、顔や言動が浮かんでは消え、また浮かぶ。
友人である「王子」のこと。
王子の思い人であり、且つ俺が振ってしまった相手である「姫」のこと。
王子曰く同性の姫に恋をしている「姫王子」、
王子は、帰りの売り上げ精算で全フロアからどれだけ多くの従業員が集まっていても、いつでもどんなときでも一瞬で姫を見付けることが出来るのだという。
昨日、精算機が多数並ぶ毎度お馴染みの部屋で、上遠野さんと一緒に2人のファンである女性達に囲まれ、まるで美術品をしげしげ眺め楽しむかのように扱われていたときもそうだった。
王子2人に群がる大勢の女性達。更にその外周の、ちやほやの輪には関わらず、やるべき仕事を終わらせてさっさと帰ろうと早足で行ったり来たりしている従業員達。混雑の層が重なっていた。
それだけの人間の群れが声を発し、それぞれに動き回っていても、姫がドアから入って来た瞬間に、喧騒も人波も全てが王子の世界から消える。
目の前に存在するのはたった1人、姫の姿だけになる。
ゆうべのバイト帰り、
今までの俺達は、誰を恋愛対象として好いているか、というような話は一切しなかった。
親しい間柄でも、わざわざ深く掘り下げる必要がない事柄というのはあるものだ。
腹の内を全てさらけ出さずとも、波長がしっかりと合う部分があれば、人と人とは充分に、大切にしたいと思える関係を築ける。
心の最奥にまで足を踏み入れ荒らさないことも、良好な関係には効果的である。ご飯を腹八分目にしておけば体の動きが鈍らず済むのと一緒だ。
お互いが持ち出さない話題をどうしても他者に聞いて欲しければ、それはまた別の親しい誰かを頼り、聞いて貰えば良い。
頼れる先の選択肢が多いほど、頼るほうも頼られるほうも負担が減るのだから。
しかし姫が俺に告白したことを皮切りに、恋愛にまつわる色々が会話に上るようになった。
姫を好きな王子。
姫を振った俺。
どちらもが一連の事態の当事者になったためだ。
当事者同士が体験したことや考えていることを正直に伝え合えば、誤解もなく、むしろ今までの、全てはさらけ出さない「節度のある親しさ」が上手く保たれる。
最も、俺はどうやら恋愛感情そのものを持たない人間らしいので、ほとんど王子の話を聞くばかりではあった。
だが、品が良く飄々としている王子の、日頃あまり表に出さない彼自身の魂の揺れを間近にすると、安心出来た。美しい人形のような彼が目の前で「生きている」のを実感出来た。
俺は混雑する場所で、遠くからでも一発必中で誰かを見付けられるようなことが、今までにあっただろうか?
人通りの多い駅で待ち合わせなどをしても、相手を発見出来るのはほとんど偶然だ。
王子は普段から姫の姿を一瞬で見付け、周りの音も他者も消えた世界を体感しているのだ。次元が違う。
同じ次元にいるのは姫王子・上遠野さんであろう。
上遠野さんも昨日、王子と全く同じ状況に置かれながら、姫を一瞬で見付け、即座に声を掛けたのだ。
誰かを恋愛の対象として慕う者は、皆そうなのであろうか。
ふと、今までは姫も俺の姿を遠くからでも一番に見付けてくれていたかもしれない可能性に思いあたり、詫びるような心持ちになった。
予約した時刻より多少早いが、遅れるよりはいいので美容院に向かった。
担当してくれる美容師さんは年上の男性で、何度も指名させて貰っているので、カットやカラーをしている間も、身構えず会話が出来てリラックスできる。
前に髪の色を明るくし過ぎて、浅黒い肌の色のほうが濃いほどになってしまったことを思い出し、今日は落ち着いた髪色にして下さいとお願いした。
美容師さんの名誉のために証言しておくと、染められた髪色はとても綺麗だった。ただ、スーパーのお客さんに怖がられたりするのは不本意なのである。
美容師さんはカラー剤をつけてくれている間に、俺に気さくに話し掛ける。
「僕、中町さんがいるスーパーに結構行くんですよ。肌が弱いから、1階のドラッグストアっぽい化粧品のコーナーで、顔に付けるクリームとか買うんです」
上遠野さんのいる1階の化粧品総合レジかな、と思い当たった。
俺は別の売り場の人間ではあるが、お買い上げありがとうございます、などと思わずお礼を言ってしまう。
どういたしまして、と冗談っぽく美容師さんは笑った。
「あそこのレジに女優さんみたいな美人の店員さんがいるでしょう、背が高くて髪の長い人。手入れが行き届いていて立派だなあなんて、つい思っちゃいます」
上遠野さんのレジどころか、髪を切る前の上遠野さんに接客されている。
この美容院で肩に力が入ることなんてほぼないのだが、今その人物の話をされると若干緊張してしまう。
悟られないように俺も言葉を返した。
「多分その人、俺の知ってる人です。バイトのエプロンじゃなくて、制服の人ですよね」
そうそう、と手を休めずに美容師さんは相槌を打った。
必要以上に口数が多くなっているかもしれない、と心配になりつつ話を続けた。
「その人つい最近、髪の毛短くしちゃったんですよ。結構ばっさり。今はショートですよ」
「そうなのー? つやつやで綺麗な髪だったのにね。でも美人はショートも似合っちゃうんだよなあ」
リアクションを返す美容師さんに、今はもう女性ファンだらけですよ、王子様扱いされてます、と出来るだけ気軽に聞こえるように俺も会話を続けた。
「王子様かあ、ぴったりかも。あの店員さん本当に美人なんだけど、あまり分かりやすい女性っぽさを感じないというか、さっぱりしてるって言うのかな。同性の店員さんのレジに並んだときみたいに気楽に買い物させて貰ってますよ」
鏡越しに、にっこりした美容師さんの顔が見える。
あまり女性っぽさを感じない、同性の店員さんのレジのよう、という言葉を頭の中で反芻する。
女性の体を持った人が女性の心であるとは限らない。そういう例はあると聞く。
しかし、そもそも「心」とは、男性と女性に整然と分かれているものだっただろうか?
自分にもあるはずの心という代物が、急に謎の塊のように感じられた。
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