第10話 彼は白鳥の王子
閉店時刻の21時前後になると、バックヤードのエレベーターが騒がしくなる。
この大型スーパーの店休日でもない限り毎日、全レジ一斉の売り上げ精算のため従業員が集まり出すのだ。
1日分の売り上げ金を持ち運びする以上、完全に気を緩めることはないが、俺は長時間シフトが終わった安堵感と、今日に限っては心地よい疲労感と共に、経理室のある9階へ向かった。
精算機の並ぶ部屋に日頃と同じく足を踏み入れると、見慣れない光景が広がっていた。
美しい2人を並べて眺めて満たされたい、それを欲望と呼んでは些か品がないかもしれないが、女性社員さん達もバイトの女性達も、欲するところに忠実に「王子2人のユニット」を組ませて満足げに色めき立っている。
「姫王子」という7階・百均ショップの双子による命名も定着してしまったようで、姫王子も靴屋の王子も捨てがたい、どちらも違ってどちらも良い、というような講評がなされている。
「凛々しい姫王子に儚げで優美な王子! 目が潤うわあ」
交わされる言葉に女性達から労働後の疲労が吹き飛んでいくのを肌で感じる。
両王子を褒めていることに間違いはないのだが、その光景には「消費」という単語が当てはまるように感じられた。
当の2人もさすがに困惑している様子で、俺は助け船を出そうとしたが、それよりも一歩先に姫王子が群がる女性達の間をすり抜け、みずから助けを求めた。
助けを求めた先は俺ではない。
ちょうど自分のレジの売り上げを持って部屋に入って来た、3階・エスニック雑貨店の姫こと三津谷さんである。
褒めそやす女性従業員達に、ありがとう、さあそろそろレジ上げ進めないとね、と解散を促すだけでは少し足りない。
「あっ、三津谷さん、お化粧少し変えた?」
輪の外にいる姫に話し掛けることで、するりと人垣を抜け出すスマートさは、姫王子という呼び名のイメージにぴたりと嵌まっていた。
「わあ、誰かと思いました。おつかれさまです、髪切ったんですね」
昨日シフトに入っていなかった姫は、ショートカットにした上遠野さんに初めて会ったようだった。
「おつかれさまです。結構思い切って短くしてみたよ」
経理に提出するための何種かの書類が、それぞれ束になって並べられているテーブルへ2人は移動する。
ついさっきまで盛り上がっていた女性達も一区切りついたことで、タイムカードを切る前の最後の仕事に散りぢりに戻って行った。
「いつもとメイク違うの、ばれちゃいました? 実は今日は少し手抜きなんです」
昼間、俺が全く気付かなかった姫の見た目の変化を見抜けるのは、同じ女性同士だからなのだろうか。
「そうなの? 自然で、私は今日の感じも好きだよ。さすが姫。それに仕事をするにはそのくらいのお化粧で充分だしね」
姫も姫王子もそれぞれが必要な書類を手に取り、空きスペースで記入をしながら言葉を交わす。
「準社員さんにそう言われると安心します。上遠野さんはなんだか男装の麗人みたいですね、あ、男装はしてないか」
二人はふふ、と笑みを漏らしながら顔を見合わせていた。
上遠野さんの姫王子らしい、角を立てない振る舞いにしばし感心して、作業の手が止まってしまったが、そもそも俺が女性の群れから救出しようと思ったのは、上遠野さんだけではない。もう一人の王子もだ。
友人である靴屋の王子はどうしただろう。
周囲を見渡すと、お札や小銭の合計を自動で計算してくれる精算機と向き合っている彼の姿が見えた。
集まり過ぎた女性達から無事に解放されたのだな、と安心したが、いつもの特に肩肘を張らずとも疲れを滲ませない品のいい横顔の輝きが、鈍っているように見える。
この日、俺の働く6階・生活日用品売り場の精算金額誤差は10円だった。10円分、お客さんとのお釣りのやり取りにミスがあったということだ。
本来は1円でも間違いがあってはならないが、5百円以上の誤差が出ると反省文的な報告書を経理の窓口で社員さんに渡すことになる。非常に気まずい。
金銭の間違いが10円であったことで俺は心の平穏を保たれた。
しかし先ほどの王子の萎れた佇まいを思うと、ほっとしてばかりもいられない。
「お疲れ気味に見えるけど、大丈夫か」
王子と連れ立ち帰宅するため、駐輪場に向かう。
疲弊した王子の様子は、女性社員さんや女性バイトのみんなに揉まれて気持ちが磨り減ってしまったからかと思っていた。
「さっき女性達に囲まれちゃってたとき、輪に入り込んで連れ出そうとしたんだけど、タイミング逃しちゃったよ」
「助けてくれようとしてたのか。ありがとう」
律儀な王子は決してお礼を忘れない。だが、俺に労われるくらいでは、彼を取り巻く淀んでいるかのような空気は取り払われなかった。
「中町、俺さっき気が付いてしまった」
俺のほうを向くでもなく、神妙に正面を向いたまま自転車を押す。
「上遠野さんは、三津谷さんのことが好きだ。絶対に間違いない」
瞬間的に王子の言葉の意味が通じなかった。
姫は目上の人への礼儀も持ち合わせているし、職場ではほぼ誰もが好感を持つのではないだろうか。
それは上遠野さんとて同じだろう、そんなようなことを王子に伝えかけたときに、思考がパッと切り替わった。
「好きって、人間としてとか、同じスーパーの仲間としてとかじゃなくってこと?」
「そう。上遠野さんは三津谷さんを、恋愛対象として好きだという意味」
真剣な顔をしている王子の言葉に、体に電気が走ったような感触を覚えた。
無意味かもしれない一般論としての、単純で陳腐な疑問をぶつける。
「でも上遠野さんも姫も女の人だよね?」
恐るおそる質問する俺に、やはりそれは無意味な問いかけであると突き付けるように王子は言った。
「性別とか関係ないんだよ。上遠野さんがファンみたいな人達から抜け出したときの、三津谷さんを見付けた瞬間の表情を見て、確信したんだ」
自分の好きな相手を見つめる、自分と同じような瞳。
その場面に出くわせばどうしてもひと目で分かってしまうのだという。
思い人に会うときの自分に刻み込まれたどうしようもない衝動が、経験則で見て取れるのかもしれない。
「俺ね、白鳥の王子っていう童話が好きなんだよね」
彼が好きだという童話を俺は知らなかった。
11人の美しい兄弟王子達が、悪い妃に魔法で白鳥に変えられてしまう。
それを末の妹であるたった一人の姫君が、呪いを解くイラクサの冠を手を傷だらけにしながら11人分作り、白鳥の王子達に冠を被せることで人間の姿に戻す物語なのだそうだ。
王子は物語に重ね合わせながら、さっきの出来事を振り返る。
「姫王子の上遠野さんは、年下の姫である三津谷さんに、自分から助けを請うことが出来たんだよ。きっと三津谷さんの強さを知っているんだ。信頼しているから素直に助けを求められたんだ」
王子は自分から姫に助けの手を伸ばすことが出来なかった。
「俺は助けを待ってばかりで何も出来なかった。そこは上遠野さんの勝ち、俺の負け」
だけど、と王子は続ける。
「三津谷さんは2人のどちらも自発的には助けようとしなかったよね。俺は助けずにいられないような王子になるよ」
王子の理想は風変わりかもしれないが、それを語る彼はもう萎れてはいない。
「心を尽くして恩返しできる準備を日頃から怠らない王子になる」
慈しみと慎ましやかさは、まさに彼の王子としての在り方を表していた。
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