第9話 麗しさは誰がために

 出勤時刻よりだいぶ余裕を持って、ロッカーのあるこの大型スーパーの9階に着いたらしい姫は、階段の途中で会った俺が質問した、女性のメイクについて教えてくれた。


「うーん、好きでやってる人もいるし、本当はやりたくないけど化粧してる人もいる。私はその中間」


 まず、好きでメイクをしている人々。

 化粧は、施すことで自分の顔の長所を生かし、逆に弱点は隠すことができる。


 元々がくっきりと大きな目なら、目頭に白っぽいハイライトを入れたり、上側の睫毛の縁にネイビーでラインを引くと、白目が澄んでいるかのように、より美しく見えるという。

 確かにそれは無意識に好印象を受けてしまいそうだ。


 眉の形のせいで幸が薄そうに見えるなら、ハサミや毛抜きなどで整え、茶色や黒の眉毛専用のメイク道具で足りない部分を埋めるように描き、理想の形に近付けていけば良い。

 意思が強そうな雰囲気に仕上げるなど、元のイメージをカバーすることが可能だそうだ。

 眉の形は男性でもこだわりがある人も多いし、俺ですら全く気にしないわけではない。

 顔の印象を左右するというのは理解しやすかった。


 そうやっていくつかの工夫をすれば、おのずと自信が持てる顔になる。自信さえあれば堂々と振る舞えるし、行動範囲も広がる。それによって自由を実感できる。

 見た目だけではなく精神面にまで影響が及ぶというわけだ。

 きっと「これが本当の自分だ」と気持ちよく言い切れるだろう。

 俺が好きな服、似合うと思っている服を着て過ごしているときの気分に近いと思った。非常に気持ちがよく分かる。


 次に、本当はやりたくないけどメイクをしている人達。

 これは姫から想像してみて、と提案された例えだ。


「中町くん、古着っぽいカジュアルとか好きでしょ。それをいきなり、明日からその服やめてオラオラ系のホストっぽくシャツの胸を開けて鎖みたいなネックレスじゃらじゃらつけてねって言われたら、困らない?」

 雑誌の一般人ストリートスナップ的なページで、――ナイトメアと呼ばれるオレと幽体離脱ぼうけんしてみる勇気はあるか? などとキャッチコピーがついているタイプのあれか。


 好きでやっている人は是非とも続けて欲しい、それが外見も中身もあなた自身なのだろうから。

 しかしその手の服装を突然毎日させられたら、残念だが俺は恐らく自我を失う。


「ちょっと無理でしょ? ナイトメアとか黒騎士とか何かそういうの、中町くんにはきついでしょ。それを身だしなみとして、就業規則とかにも最低限やれって書いてあるようなものなわけ。化粧したくない人からしたら本当に嫌だと思うよ」

 物凄くよく分かった。もう自分が自分ではない状態と言えるだろう。

 口を開いた俺は少し青い顔をしていたかもしれない。

「深刻じゃん。社会的に強要されて嫌な気持ちになってる人も少なくない数いるってことだろ。ちょっと血の気引いた」


 そして、姫もここに含まれるという中間層。

 面倒と思うことも時にはあるが、化粧をすることに特別な抵抗はない。上手く出来た日には「今日の自分は悪くない」と、おどおどせずに過ごせる。


 何より一番の効用は、この社会で生活しやすい点だという。

 働くにも買い物するにも生きていれば誰かしら他人と接する。そのときの、ある程度の清潔感、健康を維持できていそうな顔色の良さ、自分に手間をかけるだけの心の余裕があるかのような印象、相手が見て取れるこれらは内面に対する評価にも繋がってしまう。


「いくら人間、中身が大切って言っても、最初は視覚から入るでしょ。実際、すっぴんでコンビニ行ったりすると、前に接客して貰ったことのある店員さんでも全然態度違ったりするんだよ」

 よく知っている仲ならともかく、個人認識が出来ていない程度の間柄だと、そういった世知辛い目に遭うこともあるらしい。

 俺も気付かないうちに自然とそのような態度を女性に取っているのだろうか。不安がよぎる。


「それ、三津谷さんくらい可愛くてもそうなの? 理不尽だね」

 つい正直な疑問をぶつけてしまった。

「可愛いとか言わないでよ、私、あなたに振られたんですからね」

 失言を指摘するときでも、感じ良く微笑みを作れる彼女は人間が出来ている。さすがに申し訳なくなり咄嗟に謝った。


「あはは、いいよ。でも今まで毎日、中町くんに会ったとき少しでも、可愛いとか綺麗とか思われたくて化粧してたよ。昨日から正直ちょっと適当になっちゃったけど」

 姫は、少しの皮肉を混ぜてはいるが基本的には率直に話してくれた。

「それに、気合い入れ過ぎって思われても駄目? とか考えちゃって、匙加減が大変だったんだから」

 口振りは冗談半分といったていだ。

 アーモンド型で睫毛がスッと長く伸びる目に視線を移すと、少し寂しいような遠くを見るような表情を浮かべている。

 それでも口角を上げている彼女は、優しいし強い人間なのだと思った。


 しかし姫が言う通りならば告白される前とはどこかメイクが違うはずである。まじまじと眺め確かめるのも失礼だと思ったのであくまで印象論だが、俺の目にはさほど変化なく映っていた。

 見る目がない、の一言で片付けられそうだが、むしろ俺が振った後なのに変わりない様子を見せ、接してくれたことが有難い。

 今日も変わらず快活というわけではないが愛想がよく、顔の造作も申し分なく美しく愛らしい、他の男性ならそう思うだろう。


 中間層の代表としてというと大袈裟かもしれないが、姫は話をまとめた。

「まあ、言い方は悪いけど損得勘定だよね。物凄くメイクが好きなわけじゃないけど、化粧してたほうが生きやすいの」


 女性には見た目に気を遣う人が多く、大変だなと認識してはいたつもりだったが、想定の何十倍も、本来したくないかもしれない努力をしているということか。


 軽く見積もって10分くらい話したのだろうか。

「引き留めちゃってごめん。階段ってエアコンの空気入りづらいから暑かったよね」

 俺も売り場に戻らなければならない時刻が近付いていたので、どうもありがとうとお礼を伝えて、階段の上と下とへそれぞれ別れた。


 6階・生活日用品売り場に戻った俺は、商品のリストを挟んだバインダーを片手に欠品のチェックをしたり、発注数をパソコンに打ち込んだり、穏やかに働いていた。


 おかしな言い方だが、振った相手が素晴らしい人物で本当に良かった。

 姫が動揺せず話してくれたことで、俺も動揺せずに済んだのだと思う。だから今、お賃金のぶん正しく働けている。

 淡々としながらも笑い顔を織り交ぜながら、嫌な顔もせず上の空になることもなく世間話に付き合ってくれたのは、彼女が善人だからというよりは、賢人だからだ。


 3階・エスニック雑貨店の姫は、おおやけに「姫」と呼ばれるだけのことはある。

「姫」は美しいだけでなく、素晴らしく賢い。


 俺に恋愛感情があれば、恋愛事の渦中独特の価値観において、もっと、より正しく姫の人物像に対するジャッジが出来たのだろうか?

 ふと自分に欠落しているであろう部分があることを思い出し、すうっと心が冷えかけた。


 だがこれで自分に失望するようでは、我が友人である王子に申し訳が立たない。

 彼は俺の欠落を、そのようには表現しなかった。

 靴屋の王子は自然なことだと言った。

 俺は「王子」である彼を深く信頼している。


 姫は賢く、王子には慈しみがあった。

 まるで童話だな、と今更思い至り、労働による疲労も心地よく感じられた。

 いつものごとく行われる、9階での売り上げ精算に向かうまでは。




 

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