第8話 双子の号外、新王子は姫王子
美人でお客にも親切な
彼女の爪は作業しやすいように短く整えられていたが、売り場の安価なマニキュアを2、3本使って、器用でない人でも短時間で出来る簡単なグラデーションや、爪の一部にだけラメをあしらうようなちょっとした工夫が施されている。
レジに来たお客さんが、商品を袋詰めする上遠野さんの爪に目を留めて、それはどのマニキュアを使っているの? という質問から、じゃあそれも頂くわ、に行き着く流れるような「ついで買い」は、最早1階の名物のようなものであった。
王子の働く靴屋と同じフロアである、大型スーパーの1階には、BA、ビューティーアドバイザーと呼ばれるメイク用品のプロが接客してくれる大手化粧品ブランドのカウンターがいくつかと、それ以外にもっと安価な化粧品が自由にお客の手に取れる形でまとめて陳列されている。
上遠野さんの立つ化粧品総合レジでは、BAさん達の代理で売り上げ金を管理すること、リーズナブルな価格帯の商品を直にお客に販売することが主な仕事だった。
髪をショートカットにし、「新王子」となった上遠野さんには常連客の女性達も驚き、同時にときめきを覚えたようだった。
常連の彼女らはこれまで、エレガント且つ明朗な上遠野さんに憧れ同じマニキュアを買ってうきうきと帰っても、少し経つと、でも誰でもあの人みたいになれるわけないもんね、と我に返るなどしていた。
少しの間でも心が躍ったから充分、と「ついで買い」したマニキュアを愛でていた。
美しい姫か王妃のような彼女とお揃いの小物を数百円で手にできる、手軽な楽しみ。
それが姫、または王妃であった彼女が「王子」に変化したことで、女性客にはこれまでの買い物の楽しさにプラスされた新たな興奮が生まれた。
こう言うと身も蓋もないが「貢いでいる感」である。
勿論、ファンであるお客さんが購入した金額がそのまま上遠野さんのお賃金になるわけではない。
しかし、「あなただから」「あなたのために」と言う心持ちでの消費行動は人間に高揚感をもたらすものなのだ。
ゆうべは、庶民ネーム香田もとい、靴屋の王子と共に帰る道中、あまりにも色々な話をした。
俺の住むアパートよりも何軒かぶん、民家や個人経営の店、我々と同じような学生が住人のほとんどを占める賃貸アパート、月極め駐車場などを挟んで手前にある王子のアパートに、二人の自転車はあっという間に着いてしまった。
時間が経過した実感がないほど充実はしたが、話そびれたことも沢山ある。
上遠野さんに、俺は自分の好きな格好を楽しんでしているように見えると言われたこと。
あまり意識していなかったがそうでない人々も世の中には沢山いるのだろうかという疑問。
例えば王子、お前はどうなのか? など俺の今の興味関心についてまだまだ聞いて貰いたかった。
最後の、「王子は自分の好きな格好をして過ごしているのか」という疑問については、偶然ながら、王子の思い人である3階・エスニック雑貨屋の姫の好みと違っても今の姿でいたい、今の容姿で姫の隣に立ちたいという願望を話してくれたことが、最早質問する前に返って来た回答に等しかった。
親しい友人同士だと不思議と質問する前に回答らしきものが相手の口から聞けてしまうことがある。
俺はそういう、ごく稀に遭遇する、目に見えない何かがリンクするような人間同士の会話が好きだった。
王子と長々話した翌日、新王子・上遠野さんへのお客の反応は、すっかり従業員じゅうの噂になっていた。
この日の俺は昼間からの長時間シフトだったので14時頃に休憩を貰い、遅めの昼食を取りに社食へ向かう。
厨房前のカウンターで、食券を差し出し温かなメニューの載ったトレイが出て来るのを待ちながら、7階・百均の双子姉妹が熱心に話し合っている。
「新王子、めっちゃ貢がれてんでしょ、凄くない?」
微少な差だが丸顔の妹が言うと、最後のほうの台詞に重なる勢いで、比べても分からないくらいだが面長の姉も話す。
「男装していないのに男装の麗人扱い、こういうのなんて呼べばいいの?」
「なんだろ、王子じゃ王子と被っちゃうし、姫王子?」
仲の良い双子同士の会話は息が合いすぎていて、他人には迅速過ぎる。
猛スピードで靴屋の王子と上遠野さんの差別化を図るニックネームまで決めてしまった。
順番としては後に食券を出した俺の「本日の丼メニュー・カツ丼、味噌汁付き」の乗ったトレイが自分達の注文より先に出て来たことに気付くと同時に、さっきから傍にいた俺の存在を双子達はやっと視認した。
「あっ、おつかれさまです中町さん」
「おつかれさまです中町さん、カツ丼ですか。ところで姫王子っていい呼び名じゃないっすか」
「上遠野さんっす。姫王子っす」
姉と妹が交互に畳み掛けるように話し掛けてくる。
思わず、元気があって大変よろしい、などとこちらは元気あるとは言えない調子で話題を逸らす冗談を言ってしまった。ニックネームへの評価は俺には少し難しい。
双子姉妹がそれぞれの「本日のパスタ・たらこソース」を受け取ると、会話していた流れそのままに長テーブルの空いた席になんとなく3人並んで座ってしまう。
何気なく使っている元気という言葉は、人を巻き込む力のことも指すのかもしれない。
スプーンを使わずフォークだけでくるくると器用にパスタを巻いて口に運ぶ双子の会話からは、度々「姫王子」の呼称が飛び出るので、向かいに座った社員さん達や通りかかったバイト仲間にもスピーディーに浸透していく。
これも元気の為せる業なのか、大型スーパー全体に拡がるのも時間の問題かもしれないと思った。
胃を満たし、やや喧騒にあてられた俺は、早めに6階・生活日用品売り場に戻ることにした。
廊下を通り抜けて従業員用の階段を下りる。すると、階段を上って来る人物がいた。緊張感が走る。俺が一昨日、告白されて振った、3階・エスニック雑貨屋の姫だったからだ。
「あ、おはようございます」
朝晩問わず出勤時は「おはようございます」、多くの職場で採用されている挨拶の言葉を、さほど普段との変化を感じさせないのんびりしたトーンで姫は口にした。
「おはようございます、今日はバイト今から?」
意図せずこちらもいつもと変わらない口調で返してしまった。
「うん。9階まで行くエレベーターがなかなか1階に降りて来なくて、7階までしか行かないほうが先に来たから、途中で降りて、階段使って上って来たの」
普段通りの言葉のラリーであったが、続ける姫が均衡を破った。
「一昨日は急にごめんね。昨日はシフト入ってなかったから、謝るの今日になっちゃった」
「謝ることないよ、俺のほうこそごめん」
昨日いなかったのは俺がショックを与えたせいではなさそうだと分かり、安堵感を覚えた。
「階段上ったら、顔に汗掻いちゃった。眉毛の端っこ消えてるかも」
少しの笑い話を挟む彼女は、本当は心中穏やかではなかったのかもしれない。
しかしその場を和ませるため、姫自身を落ち着かせるためであったかもしれない言葉に、俺の悪い癖とも言える好奇心が刺激されてしまった。
「あのさ、メイクとかって、女性は心から楽しくてやってるものなの?」
直すのとか大変だって聞くし、と付け加えたところで全く空気を読めていないことにハッとする。
「面白い。いつも通り過ぎ。中町くんのそういうとこ、やっぱりとてもいい」
くすくすと姫は笑った。
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