第5話 7階・百均の双子姉妹

 俺は俺のことがよく分からなくなった。


 ありがたいことに俺と恋人になりたい旨を表明してくれた女性は、今までに何人かいた。

 自分で鏡を覗き込む限り、特別顔の造作が良いわけでもないが、顔面バランスを台無しにする明らかな欠点があるけでもない。とにかくごく普通の面相が映る。


 顔以外の見た目のことで言えば、背丈だけは高くて180センチを少し超えていた。大きな体についた筋肉は、大型スーパー6階・生活日用品売り場でのバイトで、重い商品の品出しや返品作業で中身がみっしり入ったダンボールを持ち上げる動作などには非常に役に立ち、腕に筋が浮くなどする場面もあっただろうから、そういう部分にこだわりのある女の人が目に留めてくれたことはあったかもしれない。


 あとは興味のある相手とは誰とでも話すので、そんなときの俺の小学生みたいな「友達になりたい」という気持ちが、相手には大人としての男女間らしい積極性として受け取られてしまった可能性はあるかもしれない。


 今までに恋愛の対象として好きになったつもりの女性は何人かいた。

 けれどもそれは今になって思えば、悪い癖とも言える「友達になりたい」心境によるいつもより強めの好奇心だったのではないか。

 相手が俺に気を許す速度、自己開示のペースがゆっくりであったなら尚のことだ。相手のことを知りたい欲求は恋することに近似しているに違いない。


 王子の住むアパートが見えてきたので声を掛けた。

「まあ、気を落としすぎるなよ。お前なら相手はよりどりみどりだし、姫、……三津谷さんのこと諦めずにいるのもありだと思う」

 実際、王子はまだ姫になんのアプローチもしていない。せめて気兼ねなく話せるようになってから王子側から気持ちを伝えても遅くないのではないのか。


「どうもありがとう。アイスもどうもありがとう。ごちそうさま、これ好きなんだ」

 いつもより伏し目がちではあったが軽く歯を見せて笑った。食べきったアイスの棒を持っている手を上げて、こんなときでもお礼を言うのを忘れないのが王子らしい。

 王子のアパートの数十メートル先にある自分が住んでいるアパートを目指すため、「じゃあまた」と簡単な挨拶をして別れた。


 自分の部屋の明かりを点けた頃には、ため息をついていた。

 王子の傷心に対する同情や、よりによって姫の思い人が俺であったことへの罪悪感のせいならまだ良かった。


 俺は誰のことも好きにならない、恋愛感情のない人間なのではないだろうか。


 自分の知らない自分を発見してしまったかもしれない、不安ゆえのため息だった。

 ごく親しいはずの王子の失恋より、自分のことで頭がいっぱいとは勝手なものである。

 姫を振ったことへの申し訳なさに至っては、思考からほぼ抜け落ちてしまっている始末である。人でなしかもしれない。


 大学生という年頃なのもあって、彼氏彼女がいるいないなどという話題は普段から飽きるほど飛び交う。

 誰かいい感じになってる女子いないの、と聞かれることもあったが、特にピンと来る相手は今はいないと返していたし、嘘をついているわけでもなかった。

 そもそも「ピンと来る相手」なんていうものは、生まれてこの方いなかったのかもしれない。


 恋愛感情を持つ人間が大多数で、仮にそれを普通という言い方をするのであれば、俺は普通ではなく、むしろ異端、異常かもしれない。

 考えたことのなかった自分の可能性が突然浮上して、体の中がもやもやと霧に満たされていくような、今まで自分の体だと思っていたのは勘違いだったかのような居心地の悪さに囚われた。


 こんなときでさえ健康な胃袋が恨めしい。

 自分の体が自分のものでないと感じている場面でさえ、胃袋に何か突っ込めと脳を介して命令してくる。

 フライパンにちぎったキャベツと、これまた包丁を出すのも洗うのも面倒だからと手でちぎったベーコンを投げ込み、袋麺のソース焼きそばを5分くらいで作って食べた。

 台所の後片付けはせず、歯だけ磨いて寝る。風呂も明日でいいだろう。

 腑に落ちない悩みのようなものに心が支配されているような状況でも「何か食べろ」と空腹を思い出させる胃という部署は、どこかしらからまずまずのお賃金でも貰ってんのかな、よく働く奴だ、とふざけたことを考えていたら、本筋の「自分は正常な人間でないかもしれない」という議題は横のほうに追いやられて、満腹感に添い寝されて意外にすうっと眠りについてしまった。胃袋と焼きそばさまさまである。


 俺が俺にも分からない、どんな内面を隠し持っていようが次の日は来る。

 大学の講義に出てからバイトには夕方4時からのシフトで入った。

 自転車で大学からバイト先の大型スーパーに向かうまでの間、中学の道徳で習った「ジョハリの窓」という概念を思い出していた。


 人間は4つの窓を持っている。

 1つ目の窓は、自分も他人も知っている自分。

 2つ目の窓、自分は知らないけれど、他人は知っている自分。

 3つ目、自分は知っているけれど、他人は知らない自分。

 4つ目、自分も他人も知らない自分。


 俺に恋愛感情がないとしたら、誰にも恋することのない身であるとしたら、そんな自分は4つの窓のうちのどれに入るのだろう。

 まだ俺自身には確信がないが、俺から恋愛感情が欠落していることを既に気付いている人間もいるのだろうか。

 さっきの「ジョハリの窓」で言えば2つ目に近い状況。「自分は知らないけれど、他人は知っている自分」、この項目の「他人」に近い人物が意外と身近にいたりしてなあ、なんていうことを考えながら、ペダルを漕いだ。


 駐輪場に自転車を停めながら、やっと自分以外の、今現在心持ちが穏やかでないであろう2人のことに心の目が向いた。

 王子は1階・靴屋で連続勤務のシフトに入っている最中だと言っていたから、夕方の休憩時間が合わなかったとしても、帰りにゆっくり話せるだろう。

 姫が今日、3階・エスニック雑貨屋のシフトに入っているかは知らない。休憩のときや、閉店後に各レジの者が一斉に集う売上金の精算作業中、顔を合わせるのは少し気まずい。

 自分自身の「恋愛しない体質かもしれない問題」に無我夢中なあまり、周りへの気配りが後回しになっている自分を少し恥じた。


 19時近くに夕方の短い休憩が貰えた。社食に行って喉を潤したり小腹を満たしたりする。

 王子にも姫にも会わなかった。

 代わりに、と言ってはなんだが「おつかれさまでーす」と挨拶をし、飲み物の入った紙コップを持って人懐こく向かいの席に座って来たのは、7階・百円均一ショップで働く、顔がそっくりの2人の女性だった。


 2人は双子だった。見慣れてしまえばどちらが姉でどちらが妹か分かるようになるが、初見ではにこにこした同一の女性が並んでいるように見える。

 姉はフリーターで妹は短大生であったが、同じアルバイト先を選ぶくらいには仲が良いようだった。


「中町さん、なんか疲れてませーん?」

 本当に微妙な差だがやや面長な姉が言った。

「きれいなものや可愛いものやおいしいものを摂取したほうが良いですよー」

 気を付けて見ないとまず分からないが少しだけ丸顔の妹が続けた。

 お気遣いは大変ありがたいが、おいしいものはともかく、きれいなものや可愛いものに人間が含まれるなら距離を置きたい気分であった。


 小鳥の囀ずりか仔犬の戯れのような2人の会話は、決して耳に煩くはない。

 そして、注意していないと大事なことを聞き逃してしまいそうな勢いに満ちているのだった。






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