第2話 3階・エスニック雑貨店の姫
「姫」の立つレジまで辿り着くには、どうにも手狭な獣道のごとき売り場を分け入るしか術がなかった。
しかも視界は一面の原色。目の焦点を合わせることが叶う前にその鮮やかな商品の群れを崩してしまいそうな佇まいだ。
チェーンのエスニック雑貨店、という名目ではあるが、多国籍風にもほどがある。
ゾウ的な生き物の描かれた洗濯したら一発で色落ちしそうな紫の染料のテーブルクロス。紐のない上履き風の靴にはワンポイントで刺繍のパンダ。袖にテカテカの赤色で梵字のロゴが入っている黒地の長袖Tシャツ。
センスのある者が工夫して身に付けるなどすれば格好がつくのかもしれないが、値段の手軽さも相まって中高生がダイナミックな黒歴史を創造してしまいそうな商品が、こだわりなのであろう所狭しといったレイアウトでみっしりと並んでいる。
エスニック雑貨店でアルバイトをする、小柄でふわりとした長めの髪の彼女の、バイト仲間内での共通認識は「姫」であった。
童話のような荊の森や高い塔の最上階にいるわけではない。
7階まで店舗の入った大型スーパーの3階にあるその少し異色な雑貨店にて、個性を主張し過ぎない程度に店の商品を身に付け、動きはゆったりとではあるがそつなく品出しや商品整理、レジ業務を行っている。
本日の姫のお召し物はといえば、大きな身ごろに比べて肘の関節から下の袖がすぼまったモモンガのようなシルエットを、オリーブ色の薄手の生地で形作ったカーディガン。髪には少し色味の渋い黄色の楕円型の飾りがついたおもちゃの宝石のようなピンをつけていた。どちらも雑貨店の商品である。着こなしを客にアピールすることもお賃金のうちなのだ。
「緑と黄色の組み合わせが好きなの」
休憩室としても使われている9階の社食で顔を合わせると会話を交わす程度には姫と俺とは見知った間柄である。
この大型スーパーで働き始めた時期もほぼ同じ、大学生バイトの自分とは違い彼女はフリーターであったが年齢は一緒だった。
女性の服はシンプルで爽やかでちょっとだけ可愛らしさがあって似合っていればなんでもいいのでは、と注文が多いような少ないようなどちらにしろ面白味のない考察しかできない俺である。
だが、姫ごのみであるところの緑の大ぶりな羽織りと鈍く光る黄色の髪留めは、細身で低めの背丈、エキゾチックとでも言えばいいのか色白とは違う健康的な肌、癖っ毛なのかセットなのか見分けのつかない緩いウェーブの髪と黒目がちのアーモンド型の瞳、それら彼女の美点全てに馴染んでいた。
可愛らしく美しい女性にはあらかた心ときめく男子バイトの仲間達と会話するときは便宜上、本人のいないところでではあるが「姫」と呼ばせて貰ってはいる。
しかしそもそも俺としては、目を合わせるだけで心音の速度が上がるタイプの女性ではなかった。
確かに魅力的な人物ではある。
普段はあまり瞳の表情に激しい変化があるほうではないが、興味のある何かに気持ちが傾いたときには、切れ長の目の中にどこからともなく超高速で集めるだけ集めましたというような量の光が差して、「生きている」感じがする。
常にのんびりとした話し口調ではあったが、話の流れの中でそれは違うと感じたとき、逆に同意するにも強調して訴えなければならないとの意志を見せたとき、やはり目には光が宿り、声の張りに生命力が感じられた。
活発な素振りは見せないが、時たま人前で披露する、「生きている」証明。
職場にいる同年代の仲間としては、充分好感と興味を持てた。
彼女がその場にいようがいなかろうが、「姫」を「姫」とは呼ぶことのできない人物もいる。
1階の靴屋のアルバイトの身でありながらあまりの好青年ぶりで店の稼ぎ頭となっている「靴屋の王子」は、呼ぶ機会すら少なくはあるが「姫」ではなく必ず彼女の本名である三津谷さん、と口にした。
王子と自分は通う大学も同じ、住んでいるアパートも近所。バイト先も、彼の城は1階の靴屋で俺の庭は6階の生活日用品フロアではあったが同じスーパーのビル内だ。わざわざ明言することもまずないが、ほとんど一番親しい友人と言って差し支えはない。
男女の別なく俺も周りのバイト仲間も親しげな社員さんも、王子の庶民ネームである香田、または香田くん、香田さん、香田ちゃんなどと呼び掛けることを当たり前にしてはいるのだが、冗談から派生した通称である「王子」のほうが名前の通りとしてはやや優勢であった。
そしてこれが王子の王子たる所以であるとさえ俺には思えるのだが、自身のニックネームが「王子」であることを、なんの照れも否定の態度もなく自然と受け留めていた。
「姫」とて例外ではなかった。
上司からも同年代からも三津谷さん、三津谷ちゃんと呼ばれることもあれば、おどけた調子で「姫ー!」「姫ちゃーん」と話し掛けられることもある。それでもあははと笑うくらいの軽い反応を返してこれまた何ごともないかのように受け流していた。
いかに職場のありとあらゆる人物が姫を姫と呼んでいようと、本来難易度の低い軽口としてちょっと大仰なあだ名を口にするだけの行為は、王子にとっては禁忌のようだった。
21時の閉店後、レジ上げ精算機のある9階に各レジの売り上げ金とそれを持った全フロアの人間が集まる。他の売り場のバイトや社員と触れ合うことの最も多い機会であるが、あだ名どころか本名で姫本人に声を掛けている場面にもまず遭遇したことはない。
精算機器の不備が起きたり、提出書類の書き込み欄に不明点があったりすれば、傍にいる人に相談するなんていうのはよくある光景だ。だいたいはそんなやり取りの積み重ねで名前を覚え実際に呼び、親しくなっていく。
王子は誰にでも親切でありながらむやみな他人への深入りは避けているような節がある。
勿論それは彼の人付き合いにおける美徳であり、共に働く仲間も顧客である王子ファンの皆様も、個人的に仲が良い俺でさえも、その柔らかな心遣いを呼吸と同じようにこなす彼のことが好きだった。
王子から差し出される真心でしつらえられた目には見えない上等の絹のようなもの、それは相手を優しく包み込む。これ以上の自己開示をせずとも我々は上手くやれますよ、と顕すかのように。
だが他方では王子自身の自己開示を避けるべく、相手への失礼にならないよう、むしろ相手に気付かれることさえないようにと、同じ絹を使って他者を遮り、自身の心の城から相手を締め出しているのではないのか。
思い返せば、俺はあまり彼が「生きている」さまを生きながらにして見せない様子を日々ぼんやりと意識しながら隣にいた。
しかし同時に、間近にいることで彼が生命の震えを微かに見せる瞬間を目撃し、安堵のあまり素直な喜びを感じたりもしていたのだ。それこそ、通り過ぎる姫の髪が彼の腕にかすった一瞬のあのときのように。
王子が名前を呼べず、言葉を交すことすら躊躇している姫は確実に「生きている」ことを開示する人間だ。
その「生きている」彼女が好きなのだろう?
自分の、自分だけの「姫」になって欲しい相手を軽々しいあだ名で呼べないのは、もっと本来の名前で呼び掛けて呼び続けて、彼女と自分の間からだけは真心製の絹を取り払ってしまいたいからではないのか?
我ながら無駄ではと思うほど友人の恋情に思いを馳せていたら、他でもない姫から呼び出しの連絡が舞い込んだ。俺宛てに。
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