お賃金の国の王子と姫と姫王子

朝雲 ミリャ

第1話 1階・靴屋の王子

 靴の体裁を保ったそれらは、本当はゴムでしつらえられているのではないかと疑わしいほど柔い怪しげな質感の合皮のローファーだろうが、砂利道を歩いたら靴底が薄すぎてダイレクトに足裏を刺激し、意図せぬ足つぼマッサージにより健康を促進して想定外の効果を発揮してしまうであろうパンプスだろうが、とにかく売れた。


 とにかく売れる1階の靴屋、それは「王子」の城だった。


 王子は7階まで売り場がある大型スーパーの1階にレイアウトされた靴屋のアルバイト店員、特徴は際立った肌の白さと目が澄んでいる点だろうか。


 一般的な男性としては特別高すぎない背丈と目立って厚くもない胸板は、多くの場合女性に威圧感を与えず、商品を店内で物色している間に店員に話し掛けられるのが苦手なタイプの買い物客相手ですら、一言声をかければ気まずい空気を醸さずとも会話を成り立たせてしまう。


「いらっしゃいませ。鏡もございますので、どうぞお試しくださいね」


 そうして目を合わせると、いや実際には、王子曰く初対面の相手であれば目の少し下、鼻筋の始まりの両横あたりに視線を合わせるとのことであるが、1センチもないくらい瞳の向きを修正するだけで、王子の色素の薄い肌には上まつげの影ができ、その影が濃いめの下まつげと重なるとなればそこはかとない憂いが生み出され、靴屋の客達は、更に女性客であれば尚のこと、それに魅入ることになるのだ。


 物腰が柔らかい、というのはもしかしたら相手のパーソナルスペース、これ以上自身の近距離に他人が侵入したら警戒せざるを得ないという、半径数十センチの範囲と言われる個人的な境界線の「見極め」を指すものなのかもしれない。


 その人のためだけの国境線、それを侵犯しないデリカシーは、あまりにありふれた形に見えるかもしれないが相手の尊厳を守る。

 個人個人によって違うはずの、身体を取り囲むその見えない円形の境界線を把握し、入り込まずして相手とコミュニケートすることが、彼には親兄弟や親しい友人達、靴屋のアルバイトに入って最初に研修を担当してくれた店長などの誰に指導を受けることもなく、普段の生活でも靴屋の接客中でも無意識にできた。


 さりげなさすぎて、気遣われる側も気遣う側も、お互いが勘付くことすらなくさらりと過ぎていく相手のための尊重は、初対面の人と人とが対峙する緊張を、緩やかで上品な、むしろ好ましい体験に変えた。

 靴を買いに来た客たちは、王子の振る舞いの全てが、自分のためだけのもてなしであるという心持ちに全身をふんわり支配された。


「君はいつでも高貴だねえ」

 スーパーの閉店時刻の21時過ぎに、レジの売り上げ金を丈夫な布袋に提げて、店舗である7階までのその上の、倉庫として使われている8階の更にその上、社食や経理等の事務室のある9階で、俺は友人である王子に声を掛けた。


 お互いこの大型スーパーのある市内の同じ大学の学生であるが、今日の俺は講義がないため昼の13時から閉店までの長時間シフトであった。

 大学入学と同時にここでバイトを始め数年経ち、最早自分の庭である担当の6階・生活日用品売り場で、液体洗剤の類いの入った重いダンボールをバックヤードでこれでもかとコンテナに積み、積んだダンボールを売り場でまた下ろして陳列する作業でへとへとにくたびれていた。お賃金を頂くのはつらい。


 閉店直後の最も疲労が滲む時間帯、レジ金の誤差さえなければすぐに帰れる喜びで浮足立つ俺と、自己の持つ清潔感に見合うよう自覚して背筋を伸ばすわけでもなければ、例えそうであっても誰も責めはしないであろう業務終了で気が抜けた猫背の姿をあらわにするわけでもなく、ただ涼しげにすらりとした立ち姿を披露する王子。

「高貴だねえ」と、同じ立場である大学生にまずかけないような言葉が口をついて出てしまった俺の語調には、感嘆と感心とそれよりだいぶ多めの呆れによる吐息が混ざっていたことだろう。


 銀行のATMのようにお札と小銭を分けて入れ、精算レシート通りの数字を入力するレジ上げ用計算機の前に、王子はいた。

「お金、処理しちゃうから待ってて」

 少し笑みを浮かべて、しかし金銭を手にしているせいかやや真剣な顔で返事をした。

 俺からかけた言葉が「おつかれ」でも「シフト夕方からだったの?」でも「イケメン様は終業後でも良い香りがいたしますね」などという薄気味の悪い冗談であっても、返って来る台詞も表情もあまり変わりはなかったであろう。


 一つ一つの商品は高価でないはずのリーズナブルさが売りである靴屋の売り上げ袋からは、俺の働く生活日用品売り場より明らかに厚みを膨らませたお札の束が、まとめるための輪ゴムを取り外されて精算機に入れられている。

 だいたいは千円札であると思われるが、分厚い札束というのは紙幣の単位に関わらず、直に目にすると高揚するのが庶民の性だ。


 王子の城である、テナントの体裁を取りながらも同系列のスーパーにはほぼ必ず入っているその靴屋は、高級感のある百貨店や、流行を逃さない煌びやかなファッションモールを避けたいある種の客層に切望されていた。


 まず、ファッションに興味があっても価格帯の低い店で買い物をしたい層にとっては、ワンシーズン使い倒せれば充分な、質はともかくそこそこのセンスを持ち合わせた品物が揃っていた。


 次に、自分が身に付ける衣服全般及びこの店の売り物である靴にいたるまでひたすらに頓着せずお金をかけたくない人々。


 そして何より、この店を最も必要としているのは、キラキラとした流行りの店には気後れして入店自体が苦痛な人達だった。

 

 そうして逃げ込んだ店で相対する店員が、爽やかにエプロンを纏った品のある青年であったなら。短い会話の中にも距離感をわきまえた上での人間対人間のやり取りが叶ったなら。客は安堵し、またここで靴を買おう、ここには「王子」がいる、と晴れやかな気分で靴の入った袋を提げて家路に着くだろう。


 王子の城は、彼だけのテリトリーではない。人々を受け入れる社交界だ。

 スーパーという手軽な城門をくぐりさえすれば「上のサイズお出ししましょうか」「踵が太く作られていますのでヒールに慣れないお客様にもおすすめですよ」と微笑する王子に再会できるのだ。


 それぞれ大学近くのアパートに帰る俺達は、打ち合わせることもなく帰宅を共にするのが常だった。

 なんとはなしに隣合い、私物のあるロッカーに戻る前に、経理の窓口にある書類にレジ上げ作業終了のサインをする。

 王子にも庶民の名前があるので「香田」とサインをしようと備え付けのペンに手を伸ばしたとき、同じくペンを取ろうとした小柄な女子と肩が軽くぶつかってしまった。


「あ! ごめんなさい、どうぞ」

 緩やかな髪質を揺らして彼女は王子に先を譲った。


「こちらこそすみません、ありがとうございます」

 いつも通りのはずの柔らかな態度の王子は、すぐ横にいた俺と、恐らくではあるが余程他に気を取られていない限り、言葉を間近で交わした彼女にも伝わったであろう、本当に本当の一瞬だけ、プレッシャーのようなものを発していた。


「それじゃ、おつかれさまです。お先に失礼します」

 業務終了のサインを済ませた彼女が女子ロッカー方面に足取りを変えると、半袖の王子の腕に、彼女の長めの髪がほんの少しだけふわりとかすった。


 彼女は王子にとっての姫だった。

 3階・エスニック雑貨店の姫。

 まぎれもなく王子にとっての姫だった。

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