奥城市

その12:北奥城駅/ゲストハウス『日曜日』

 奥城市に入って真っ先に見えたのは、遠くに霞む山。それと、目の前に見える掘っ立て小屋みたいな建物の外壁にでかでかと書かれた『車検』って文字列だった。


 あたしたちは当然『車検』を無視してチャリをジャリジャリいわせながら漕いで漕いで漕ぎまくる。明科さんが先に走って、あたしがついていく。別に道路には透明な車しか走ってないんだから並走したら良いんだけど、明科さんはずっと立ち漕ぎしててあたしは隣に並べない。あたしの体力が無いのはそうなんだけど、そうじゃなくても明科さんのスピードは尋常じゃない。荷台に荷物を縛り付けてアコギを背負った、あんな過積載なママチャリなのに。


 あたしは穿いたジャージのポケットからケータイを取り出してチラって見る。午後の5時くらい。もう日も沈んで、辺りは暗くなり始めてる。


 そろそろ泊まるところを決めないといけないんじゃないかって、さすがのあたしでも思う。このままじゃ野宿になっちゃうかもだし、女子高生が野宿はさすがに無い。あ、でもあたしたちしかいないんだから……ってことに思い至って、でもでもそうじゃないらしいってことも同時に思い出す。別に、だからって何か危険なことがあるんだろうかって思うけど、単純にめっちゃ寒かった。雨風を凌げる場所じゃないと、とてもじゃないけど寝られない。あたしはキャンプも学校行事くらいでしか行ったことがないけど、この時期の外で寝るなんて、とてもじゃないけど考えられないって思う。でも、明科さんがそんなことを考えていないとも思えない。何か考えがあるんじゃないかってあたしは思うけど、でもその確認くらいはした方が良いのだろうか。いや、普通にしたいけど、明科さんはあたしには構わずチャリを漕ぎまくっている。うーんうーんってあたしは悩んで、でも結局は明科さんに確認するしかないって思った。


 あたしはチャリをジャリジャリ漕いで、なんとか明科さんの隣に並ぶ。


「明科さん明科さん」


 あたしは上がる息の合間を縫って、ちょっと早口気味に明科さんを呼ぶ。


「どしたの広丘さん」


 明科さんも息が上がってるけど、あたしほどじゃないっぽい。やっぱり、話し掛けてみたら結構普通な明科さん。話し掛けるなオーラ、あたしの考えすぎなのかなって思うけど、でもやっぱり明科さんはちょっとピリピリしてる。鈍感なあたしがそう思うくらいなんだから、たぶんそれは気のせいじゃないって思う。


「どうしてそんなに急いでるんですか」


 そんなこと考えてるから、あたしは間違えて本当に訊きたいことを訊いてしまう。


「どうしてって」明科さんはもうだいぶ暗くなってる空を見上げる。「雲行きが怪しくなってきてる。一雨降るかもしれないよ」明科さんは気持ち速度を落として答えてくれる。


 あたしも空を見上げる。確かにめっちゃ濃い灰色の雲が結構な速さで流れてる。「ホントだ急がなきゃ。カッパ持ってないよ」あたしは反射的に答えてる。


「私も持ってない。このまま進めば国道と県道がぶつかってる道に出るから、そのまま県道進んで北奥城の方に出ようと思ってる」明科さんは答えてくれる。


「県道に出るの? あれ、これって県道の434号線じゃないの?」


「これは日下田くさかた街道。434号線は筑糸橋渡るまでだったね。ちなみに渡る前も日下田街道だったよ、ややこしいよね」


「日下田街道の中で、県道だったり県道じゃなかったりする道があるの?」


「そうだよ広丘さん。ちゃんと理解できたので花丸をあげよう」


 明科さんはニッて笑ってみせる。それが花丸なのかなって思ったけど、確かに花丸っぽい笑顔だってあたしは思ったから「やった!」って言う。「でも北奥城にはあんまり飲食店とか無かったはずだから、コンビニかスーパーに寄ることになるけど大丈夫?」明科さんはちょっと申し訳無いみたいな顔をして言う。「あたしまだお腹に牛丼残ってる」結構あちこち行ったりチャリ漕いだりしてるけど、お腹は全然すいてない。「夜中にお腹すいたとか言うなよ~」って、明科さんはお母さんみたいなことを言う。「明科さんはお腹すいてないの?」あたしは言われっぱなしなのも癪だから訊いてみる。「私もあんまりお腹すいてないな」明科さんのお腹はぎゅるぎゅる鳴るイメージがあるけど、よくよく考えてみたらそれはあたしがお腹空いてる明科さんを連れ回したからだった。し、聞いたのも一回だけだった。「まぁ、今日はラブホじゃなくてちゃんとしたビジホに泊まれると思うから、お腹すいても別に中のレストラン? で食べれば良いと思うけど」あたしはやっぱり明科さんちゃんと考えてるな~って思うし、だったら最初から普通に訊けば良かったって、今更ながら思った。


 そうしてる間に明科さんが言ってた国道と県道がぶつかる道に辿り着く。


 国道は、日下田街道の終端を塞ぐみたいに、Tの字の横の棒みたいに左右に伸びてる。


 あたしたちが進む県道は、そのTの横棒と縦棒が交わってるところからぐいって右側に伸びた道。Tの字って思ったのは、ぐいって右側に伸びる県道が結構急な上り坂になってて、十字路って雰囲気じゃないし違うパーツだって思ったから。あたしは「えっ、この坂登るの」って思うし、言ってる。「国道右折して市街地中心部を目指しても良いけど、その前に雨に降られるかもよ」って言われたら、あたしは「じゃあ左折は?」って訊くしかない。「そっちは白鳥湖に降りる前の道をずっと山の方に進んだ方。広丘さんが行きたいって言ってた文化ホールとかがある方に近いけど、めっちゃキツイ山道通らないといけないね。それに飲食店もラーメン屋くらいしかないし結構遠い。泊まる場所もラブホしかない」どうする? って、明科さんは首を傾げてあたしを見る。


「県道、行きましょうか……」あたしは渋々答える。なんか雨降る前のにおいがするし、わざわざ遠回りする必要が無いのはあたしにだってわかった。


「急がば回れとは言うけど、わざわざ遠回りするのはそれ急いで無いからできることだからね」って、明科さんは苦笑するし、あたしはぐうの音も出なかった。


 そうしてあたしたちはえっちらほっちらジャリジャリチェーンを回して坂道を登る。ようやく登れば、小さな橋が現れて、下に線路が見えた。坂登ってる時に左に見えてた、たぶん国道と並行して走ってる単線の線路。あたしはそれを見下ろして、でも何も走ってない線路を見下ろしても面白くないからすぐに興味を無くす。先を走る明科さんを見てる方が面白い。めっちゃ細い二車線の、めっちゃひび割れた古い道路。左手は山の斜面をコンクリのワッフルみたいな形のやつで固めた山道! って感じで、右手には頼りないガードレール。こんなんじゃ車が事故ったら絶対落ちちゃうなぁ、なんて思ってたら、雨のにおいがどんどん強くなってくる。結構寒いし、そろそろ雪降ってもおかしくない感じだけど、まだ初雪は降ってない。「広丘さん急いでー!」って、前を走る明科さんが振り向きながら言ってる。「はーい!」って、あたしは答えて、ジャリジャリチャリを漕ぎまくる。


 明科さんは、普通だけど。


 急いでる理由も、確かにその通りだって思ったけど。


 あたしは結局、明科さんが急いでる本当の理由は聞けなかったんじゃないかって、チャリを漕ぎながら、なんとなく思ってる。






 →北奥城駅






 あたしたちが北奥城駅に着いた頃に、雨は降り出した。


 ぽつぽつって感じで降り始めた雨は、すぐにザーッて降り始めて、あたしたちはチャリを乗り捨てて慌てて駅舎の中に駆け込んだ。


 この路線の中では立派な方の駅舎だけど、ほとんど無人駅みたいな寂れた駅。終点の奥城駅の手前にあるこの駅は、この近くの高校生たちが主に利用してる駅だけど、あたしはもちろん一度も降りたこと無いから邪魔な駅だなーっていつも思ってた。しかも降りてみて初めて、高架橋で線路のこっちと向こうが繋がってるのを知った。チャリを押して階段を登って降りなきゃならないってことだ。だるい! って思ったら、明科さんはなんかロータリーの向こうを睨んでる。どうしたんだろって思ったら、「あれ、ビジホだと思ってたけど、よく見たらただのマンションだ!」とか言ってる。


「えっ、明科さんそれどういうこと!?」あたしは思わず訊いてしまう。


「えっ、広丘さんごめん。そのままの意味だけど」明科さんはてへぺろーって顔をしながらあたしに言う。


「えっ、謝らないでよ」だってあたし明科さんにただついてきてるだけだし。別に責められるかもしれないことわざわざ言う必要無いなって思ったからそれは言わない。「でも明科さんが間違えるなんて思わなくてびっくりした」代わりに思ったままのことを言う。


「私だって人間なんですけど……」明科さんは本当に申し訳無さそうな顔をして俯く。えっ、拗ねてるっぽい明科さんめっちゃかわいいって思ったから、あたしは明科さんの頭をめっちゃ撫でる。わちゃわちゃ。「ちょっと広丘さんやめて!」明科さんは言うけど、別に言うほど嫌がってなさそう。「ちょっとホントやめて!」って思ったら両手をガシッて掴まれた。「それは私の役目なんですけど」「あっはい」明科さん結構本気であたしの手首握ってるから、あたしはそれ以上何も言わずにわちゃわちゃするのをやめた。


「でも、おっかしいなぁ。あれビジホだって思ってたのになぁ」


 明科さんはあたしの両手をあたしの太ももの横にピシッて気を付けの姿勢にするみたいに置いて、腑に落ちないって感じで言う。


「でもでも」あたしはこれ言った方が良いのかなって思いつつ、でもでもって、否定する気満々じゃん! って自分にびっくりして、結局言うことにする。「ここから歩いて奥城駅行けないこともないのに、わざわざ北奥城にホテルなんて必要かな」


 あたしの言葉に、明科さんはマジかって顔をする。「広丘さんのくちから、思ったより理路整然とした正論が出てくるとは思わなくて心臓止まるかと思った」


「あたしだって言うときは言うのです」ふふんって、無い胸を張ってみせる。


「ふーん」って、明科さんはあたしのコートの右のおっぱいの部分をスッスッて撫でてみせる。「ふーん」


「あの、明科さん」


「はい」


「普通にセクハラなんですけど」


「じゃあ私のおっぱい揉めば良いじゃん」


「なーんか腑に落ちないんだよなぁ」って言いながらあたしは明科さんのコートの右のおっぱいの部分をもみもみする。コートの上からでも掴めるの絶対におかしいと思うんだけど。


「まぁとりあえず」明科さんはもみもみされながらも平然と言う。「反対口に言ってみようか。こっち側、見た限り何もなさそうだし」


「そうだね」あたしはもみもみしながら答える。「住宅街って感じだもんね」


 あたしたちはちょっと濡れながらチャリを回収して、高架橋を渡って反対口に出る。


 そしたら目の前にコンビニがあったので、駅舎の軒下にチャリを停めて「わ~~!」なんて叫びながらコンビニに入る。飲み物とか食べ物とかは無視して、あたしはカッパを手に取った。そしたら傘を取ってビニール剥がしてる明科さんに「マジか」って目で見られて言われた。「あ、はい」あたしはカッパを戻して傘を取った。チャリを駅に置いてきてたのすっかり忘れてたとは、さすがにアホっぽすぎて言えなかった。


 そのまま傘を差して、二人並んで駅の近くを歩いてみることにした。


 そしたら運良く見付けることができた。






 北奥城駅→ゲストハウス『日曜日』






「広丘さん見てよ! ゲストハウスだって珍しい!」


 なんて言いながら、明科さんはめっちゃこぢんまりした看板を指さしてはしゃいでる。


 あたしはゲストハウスなんて聞き慣れない単語にびっくりしながら、明科さんが指さす看板をしげしげ見てみる。『日曜日』の下に『GUEST HOUSE & LOUNGE』って書いてある。何がなんだかわからないが、明科さんがこんなにはしゃぐくらいだから喜ばしいものに違いないってあたしは思う。「広丘さんゲストハウス知ってる?」って訊かれる。あたしは頷く。「知ってるよ」明科さんは本当にびっくりした顔をして、はしゃぐのをピタリとやめる。「もしかして使ったことある?」明科さんが訊いてくるから、あたしは頷く。「もちろんだよ。月一で使ってるもん」明科さんはすぐにジト目になってじーってあたしの顔を見てる。あたしは慌てそうになるのを寸前で堪える。「はぁ……。明科さんはあたしのこと見くびりすぎだって思う。あたしだってそりゃゲストとしてお呼ばれすることくらいあるんだから、あんまり舐めない方が良いよ?」って言うけど、明科さんの目蓋はどんどん落ちてきてどんどん胡散臭いものを見るみたいになってくる。「出ずっぱりだよ!? ゲストとして! 徹美の部屋にも呼ばれたことあるんだから!」


「説明しよう」説明する気の無い投げ遣りな口調で、明科さんはあたしの言葉を遮る。


「ゲストハウスってのは、まぁ簡単に言ったらホテルとか旅館みたいなもんなんだけど、わざわざそう呼んで差別化してるのには理由があって、なんか宿泊客同士の交流? みたいなのを積極的に促してるのが普通の宿泊施設と違うところらしいよ」明科さんはだるそうに言う。「あと宿代がめっちゃ安い。その代わり自炊用の共同キッチンがあったりシャワーとかトイレとかも共同だったりするらしいけど、まぁ宿泊客同士の距離感が近いから理に適ってるっぽい感じらしいよ。私はそういうのホントに無理だけど」明科さんのホントにだるそうな端的な説明に、あたしはうんうん頷く。「ホンッットにその通りだよ。ゲストハウス、ホントに世知辛いね。宿泊客同士の交流? なんて今の時代? に即してないよ、まったく」


「じゃあ広丘さんは野宿ね」


「えっ!?」あたしはびっくりして大声を出す。「えっ!?!?」


「時代に即してないものを利用するなんて広丘さんらしくないよ」明科さん、平坦な抑揚でそういうこと言うとホントに冗談に聞こえないから、あたしはホントに慌ててくちを開く。


「ホントに明科さんのありがたい説明によってゲストハウスについて知ることができて、ホントにあたしは良かったって思います! ホントに明科さんありがとう!」


 そう言って抱き付いたら、「はいはい広丘さんはホントに正直者だね~」って言われて、あたしのこころにぐさぐさ刺さった。「余計な見栄は張らないようにね~」ぐさぐさ……。


「知らないことは知らないってちゃんと言おうね」


「はい……」


 ケラケラ笑う明科さんに手を引かれて、あたしはしょんぼりしながらゲストハウスとやらに入った。


 入ったら、まずロビー? ラウンジ? みたいな広いスペースがあって、そこの一角には確かに宿泊客同士で交流できるような、普通の旅館とかホテルには無いっぽいオシャレな雰囲気の、大勢で座れる場所があった。


 あたしたちはそこに荷物を置いて(透明人間が何人かいたけど、そろそろ連中のことも気にならなくなってきた)、二人で建物の中をあれこれ見てみる。


 明科さんが言ってた通り、共有キッチンがあって、シャワールームもトイレも一箇所ずつ。奥に行ったら和室が何部屋かあって、二階に上がったら二段ベッドが何個も置かれた狭苦しい部屋が何部屋か。オーナールームって札が掛かった部屋を覗いてみたら、普通に誰かが住んでるっぽい部屋になってて、オーナーも一緒になって交流するのかってあたしはびっくりした。


 わざわざ二段ベッドで寝るのもバカらしいので、あたしたちは一階の和室に寝ることにした。ちょうど透明人間がいない部屋のようで、気にはならなくなってたけどさすがに寝る部屋でちらちら動かれると邪魔なので、邪魔になるときと邪魔にならないときがあるんだなぁって、あたしは頭の中の重要なことリストにせっせと書き込んだ。


 それからあたしたちは順番にシャワーを浴びて、めっちゃチャリ漕いで疲れたしってことになって、布団を並べて敷いて、まだ8時くらいだけど寝ることにした。


「おやすみ、広丘さん」


「おやすみ~」


 明科さんが蛍光灯を消して、あたしは掛け布団を口元まで手繰り寄せて目を瞑った。


 ……どれくらいだろう。


 目が覚めてみれば、まだ部屋は真っ暗だった。


 あれれ、って思いながら枕元のケータイの背中を光らせる。1時。中途半端な時間に目が覚めてしまった。あたしはもぞもぞ布団から出て、真っ暗な部屋を見渡す。


 別に、寝る前と同じゲストハウスとやらの和室の一室。すーすー寝息が聞こえてくるけど、明科さんはこんな時間だから当然寝てる。明科さん、徹夜とかしょっちゅうしてるイメージだけど、意外と寝付きが良いしよく寝るタイプだ。あたしはこう見えて眠りが浅いし、睡眠の質も悪い。こうやって起きてしまえば、また寝付くのが結構難しくて苦労する。家にいたときもそうだった。そんなことを考えている内に本当に目が冴えてしまって、あたしはパジャマの上にコートを羽織って、そーっと部屋を出た。


 ゲストハウスの外に出る。


 まだ雨は全然降っている。


 傘を差して、歩いてみる。なんか玄関に置かれてたサンダルを勝手に借りて。サンダルまで共用なのかなって思ったけど、まぁ別にサンダルくらいは普通にどこも共用のものが置いてあるなってことに思い至る。座敷タイプの居酒屋とか。トイレに行く用のやつ。家の近くのチェーンの居酒屋にある鉄板焼きのモチチーズが美味しかったなぁ、なんてことを連鎖的に思い出す。そしたらぐーってあたしのお腹が鳴る。あたしたちは本当に夕飯も食べずに寝たから、お腹はそりゃすくよなぁって思った。こんな時間に食べたら太るかしらって思ったけど、別に家にいるときも普通に夜中にコンビニでポテチ買って食べたりしてたから、今更だった。あたし太らない体質ですし。とりあえず、傘を入手したコンビニまで行ってみることにした。


 コンビニでブリトーとココアを手に入れた。なんかレジの中に入って勝手にレンジを使うのが新鮮だった。けど、さすがに店内で食べるのはなんか違うって思ったから、店の外に出て、めっちゃ寒いけど、自動ドアのセンサーが反応しないくらいの脇にしゃがんで、軒も無いから傘を被るみたいに頭に乗っけて、ブリトーをはふはふ食べた。ハムチーズ。おにぎりと比べるとブリトーってコスパ悪いから贅沢品みたいなイメージがあったけど、いざいつでも食べれる状況になると有り難みはそんなに無かった。たぶんそれってブリトーに限らないんじゃないかって思ったけど、実感はあまり湧かなかった。


 思えば、こうして一人で行動するのは、とても久しぶりなような気がした。


 まだ、明科さんと一緒に行動して二日目だ。たったの二日。密度の濃い二日を過ごした実感はあるけど、それでも二日は二日。全然短い。だからあたしたちは互いのことを全然知らない。何を大事にしているのかとか、何をされたら嫌なのか、とか。


 あたしたちは似てる部分もあるから、普通にやり取りするくらいだったら、そういうのはたぶんあんまり気にならない。別にあたしは明科さんにされて嫌だなってことはあんまり無いし、明科さんはあたしの嫌がることを積極的にしてきたりもしない。おっぱいとかお尻とか揉んだり揉まれたりしても、ふざけてるなぁって感じ。でも、あたしは明科さんに対してどうだろうって考えるけど、さすがにそれは、当然わからない。あたしは明科さんじゃない。でも、そこまで嫌なことをしてしまったという実感は無い。本当のところはわからないけど、明科さんはあまりそういう反応を表に出さない。だから安心して良いってことじゃ、たぶん無いんだろうけど。もしそういうことしてしまったのなら、明科さんに言ってほしいって思う気持ちも、たぶんわがままなんだろうけど。


 だって、あたしは結局明科さんに訊けなかった。


 何をそんなに恐れているのかって。


 それを知ることが本当に大事なことなのか、あたしにはやっぱりわからない。でも、あたしはそれを訊けないまま、こうしてずっと気になっている。だとしたら、あたしにとっては優先度の高い気持ちなんだと思う。それを知ることで何が変わらなかったとしても。余計なことを知ってしまった、と、思うことになったとしても。


 他のひとがいることで、明科さんが嫌だなって思うことが、たぶんあるのだ。


 それくらいは、あたしにだって想像できる。他のひとがいるかもしれないって状況になってから、明科さんは急ぎだした。その、いるかもしれない他のひとから逃げるみたいに、こんな場所までやって来た。だからそれくらいはさすがに、あたしにだってわかる。


 たぶんあたしが知るべきことは、それが明科さんにとって嫌だなってことだけなんだってこともわかる。それ以上の情報に、あんまり意味は無い。それで明科さんがあたしにぞんざいに接することになったとしても、他のひとと会うかもしれないって状況を避けることを優先した方が良いってこともわかる。それだけわかっていれば良いことなんだと思う。


 でも、それだけをわかっていても、明科さんが素っ気ない態度になったり、話し掛けるなオーラみたいなのを出しているのを、あたしはいつまで我慢出来るのかなって思ったりもする。仕方ないって、そう自分に言い聞かせ続けるのかって。別に、我慢出来るってのは大袈裟な言い方かもしれないけど。


 だって、明科さんがあたしに説明しないように、あたしも明科さんに説明を求めていない。何か思ったら何でも訊いて、って言われたことを、実践していない。お互い様だ。あたしたちは何もかもを許し合うつもりでいても、何もかもを許してもらえるとは思っていない。濃い二日を一緒に過ごしても、そこまでは踏み込めない。そりゃそうだって思う気持ちと、そんなもんなのかなって思う気持ちがごっちゃになってる。どっちも本当の気持ちだ。ちゃんとした人間関係を築けてこなかったあたしにだって、それくらいはわかる。一対一の人間関係だからって(だからこそ?)、決して簡単などではないことくらい。


 なんてぐるぐるぐるぐる考えてたけど、結局答えは明科さんに訊かなきゃわからないことだから、あたしには何もわからないままブリトーを食べ終えてしまった。ココアをグビグビッて飲んで、ゴミをゴミ箱に捨てて、あたしはゲストハウスに戻る。そーっと和室の引き戸を開けて、そーっと閉める。抜き足差し足であたしの布団に戻ってきて、そそくさと潜り込む。雨がしとしと降る音と、明科さんの寝息だけが聞こえる。あたしは掛け布団を口元まで掛けて、そうして目を瞑る。


 明日は、明科さんに訊けるだろうか。


 わからない。


 本当に、それは訊くべきことだろうか。


 わからない。


 何をしたら正しくて何をしたら間違いなのかを、教えてくれるひとはいない。考えてもわからない。だとしたら、何もしないことしか選べない。何かをすることで間違いが発生するなら、その何かをしなければ間違わないことに賭けるしかない。もちろん、何かをしないことで間違えることもあるだろうから、本当にあたしはどうしたら良いかわからない。


 布団に入ってからも悶々考えてたあたしの思考を遮るみたいに、ガバッて布団がめくれる音が聞こえる。あたしはビクってして、咄嗟に寝たふりをする。畳を足の裏が擦る控え目な音が聞こえて、引き戸が開いて閉まる控え目な音が聞こえる。あたしは起きてるのが気付かれなかったことに安堵して、ふぅって息を吐く。でもなんで起きてるのバレたらマズイんだろ? って思った頃に、トイレを流す音が微かに聞こえる。あたしはまた布団の中で身体を縮こまらせる。引き戸が開いて閉まる控え目な音が聞こえて、畳を足の裏が擦る控え目な音が聞こえる。


 そしたら一瞬だけあたしの布団がめくれて、外気が布団の中に入り込んでくる。


 えっ!? って声を出しそうになったら、背中に暖かな温度と柔らかさが押し付けられた。


「広丘さん、起きてる?」


 耳元で、明科さんが言う。


 一瞬で冷やされたあたしの脚に、後ろから明科さんの脚が絡んでくる。


 Dカップくらいある胸が、めっちゃ背中に押し付けられる。お腹に優しく腕を巻き付けられて、あたしは身動きが取れなくなる。あたしの心臓は瞬間的に鼓動を速める。


 あたしは何も答えられず、そしたら明科さんは「寝てるか」って、囁くように言った。


「もっと遠くに行こうよ」


 明科さんは、あたしのうなじあたりに顔を埋めて言う。


「もっと遠くにさ」


 あたしは答えられない。


 寝たふりをしてしまったのだから。


 ……そんなに急いで、何から逃げたいのさ、明科さん。


 あたしの心臓は、もう早鐘を打つのをやめている。


 もう、すーすーと、明科さんの寝息が聞こえてくる。


 あたしは小さくため息を吐く。


 あたしは寝たふりをしてしまったのだから。


 明科さんはもう寝てしまったのだから。


 だから、それを訊くことは出来ないのだった。そう自分に言い聞かせて、あたしは目を瞑った。

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