隣町

その8:牛丼屋

 隣町にやってきた。今は午前十時。二人で仲良くお風呂に入って、髪の毛とか乾かし合って、なんかちょっとラブホの中を探検して、避妊具とか売ってる自販機見たりスタッフルーム覗いたりしてたら結構イイ時間になっていた。


 あたしたちが泊まったラブホはちょうど街境のあたしたちが住んでた街側にあって、ラブホから外に出て国道沿いを歩いてたら(国道から少し逸れるだけで田んぼだらけになるくらい田舎)いつの間にか隣町に入ってた。街としての規模は、この街の方が大きい。飲食店とか遊ぶ場所とかも沢山ある。だから明科さんはこの街に来ようとしたのだろうか。


 でも、あたしは思う。別に隣町のこの街に来たからって、あたしたちが未練たらしくないということは、たぶん全然無い。だって、ここはまだまだ全然あたしたちの生活圏内だ。だって、あたしたちが通う高校はこの街にある。そうじゃなくても、欲しい物があるならこの街に来ることになる。あたしは確かに友だちが全然いなかったけど、だからってインドアってタイプでもないからよく遊びに来てたし、バイト先もこの街の飲食店だった。


 あたしたちは国道の歩道を歩く。あたしたち以外の全員が透明人間になったところで、あたしたちはその、元の世界の決まり事を守っている。なんでだろうって一瞬思うけど、単純に時速50kmくらいであたしたちの身体を通過する、透明で灰色な車のシルエットにびっくりするからだった。だってあたしたちは好き放題やってる。コンビニの食べ物勝手に持ってきて、寿司屋で無銭飲食して、ホテル代だって払ってない。提供主のいないサービスに払う対価なんてたぶん無い。どういうわけか、それでもサービス自体は存在しているけど、でもあたしたちがお金を払う相手はどこにもいない。コンビニでもたか村でもつつじ寿司でもラブホでも、あたしたちは誰にも会わなかった。昨日起きてから。昨日、そうか、って、あたしは思う。まだ一日しか経っていないのだった。あたしたちが、二人だけの世界にやってきて。だから、たぶんまだわからないことなのだ。あたしたちはあたしたちが好き勝手やってるツケを払わないといけなくなるかもしれない。ケーサツ? わからないけど。なんかそういう社会? の秩序? を守るためにいるみたいな存在が、あたしたちを捕まえて罰を与えるのかもしれない。社会なんてどこにも無いのに。あるのだとしたら、此処にしか無いのに。わかんないけど。


「広丘さんまだ寝てるの?」


 明科さんが突然言う。


「え、あたし起きてるよ?」ぼやぼや考え事してたら、明科さんはちょっと微妙な顔してあたしを見てる。「ちょっと考え事してた」


「ほほう。広丘さんはちょっとえっちなタイプだから、えろいことだねそれは」


「違うよ! あたし全然えっちなタイプじゃないし! 全然違うし真面目なことだし!」


「でもいきなり私のおっぱい揉んできた」


「それは……」お風呂から出て、身体を拭いてるときだった。あたしは「ちょっと失礼」と断ってから明科さんのおっぱいを揉んだ。もみもみ。うん、なるほどこれがおっぱいか、ってあたしは思った。あたしはホントにおっぱいを揉んだことなんて無かったから(自分の身体を見下ろしても揉める場所なんてお尻くらいしかない)、ついつい手が伸びてしまったかたちだった。だって明科さんのおっぱいDカップくらいありそうだしめっちゃ形が良かったのだ。なんだろう、寝転がってもあんまり形が崩れない感じ。だから揉んでくれと言われてるみたいだと思ったので、あたしは自分の直感に従った。そこであたしは思い出す。「だって、明科さんも寝てるときあたしのお腹揉んでた」


「お腹とおっぱいじゃ価値が違うでしょ価値が」明科さんは納得いかないみたいな顔で言う。


「じゃあお尻揉む?」あたしは自分のスカートをぺろんってやる。ガシィッ! 「えっ!?」明科さんはあたしがお尻の「お」を言ったあたりでもうアコギを道路に置いてしゃがんであたしのお尻を両手でガッシリ掴んでる。「痛い痛い! 痛いよ明科さん!」「これがええんか!? これがええんのか!?」「えろ親父じゃん!」「今、私はえろ親父の気持ちがめっちゃわかる女子高生、つまり、えろ親父の気持ちがめっちゃわかる女子高生なのだ!」「全然意味わかんないよ!」「こころで感じるんだよ!」ガッシリガシガシ「痛い痛い! 痛いよ明科さん!」「これがええんのかァ!?」パチィンって叩かれた! あたしの右のお尻がぶるんって震えるのがわかった。「明科さんのばかぁ!」あたしはしゃがんでる明科さんの頭をぽかぽか叩いた。明科さんはわはわは笑ってた。全然おもしろくない! ってあたしは思った。


「だって、揉んでいいって広丘さんが言った」


「ホントに揉むなんて思わなかった! それに叩いて良いなんて言ってない!」


「私には聞こえた。広丘さんのお尻の声が。めっちゃ叩かれたそうにしてるイイケツだったんだ。これは叩くしかないって思ったね実際」


「結構痛かったんだからね!?」明科さんはやっぱりわはわは笑ってた。あたしはやっぱり「全然おもしろくない!」って思ってたし、言った。それでも明科さんはわはわは笑ってたから、あたしもつられてわはわは笑ってしまった。だって、あたしだけ怒っててもばかみたいだって思ってしまった。


 そんな一幕もあったけど、あたしたちは一際大きな十字路までやってくる。もう少し歩けばあたしたちが通ってた高校。右に行けば駅。左に行けばなんか賑わってるところ。


「んー」なんてきょろきょろ周りを見ながら言いつつ、明科さんは十字路の真ん中に向かう。透明自動車たちがびゅんびゅん走ってるのに、明科さんは全然気にした様子も無い。「どこに行く?」振り返って、あたしにそう訊く。


「んー」あたしもひょこひょこ明科さんが立ってるところに向かう。きょろきょろ。近くにあるのは塾の入ってた今は使われてない建物。看板とかそのままになってるけど、中はブラインドが降りて見えない。まだセルフじゃないガソリンスタンド。なんか古い民家。町議会議員に立候補してるオッサンの事務所? なんか色々ある。「広丘さん」つんつんって肩を突かれる。「なに?」答えながら明科さんを見れば、明科さんは心配するみたいな顔してあたしの顔を見てる。前髪を持ち上げられておでこに手を当てられる。え、なんだろう、って思ったのも束の間。「熱は無いみたいだね」って言われて「近くの建物見ても行く方向は決められないでちゅよ~」って言われた。「ホントだ」あたしは感心した。「じゃああっち!」あたしは左の道を指さす。「お腹すいた!」起きてから何も食べていなかった。


「広丘さん……、心配になるくらい直感だけで生きてるよね……」


 って言われた。てくてく先に歩き始める明科さんは苦笑いしてる。


「なんか、あたしが考えても良いことってあんまりなかったっぽい」あたしは答える。


「ホント? だって考えることが人間の特性だよ?」って明科さんは言う。あたしは考えてないことをヤユされた!? って思ったけど、明科さんはちょっと真剣っぽい雰囲気。


「うん。なんか、昔の嫌なこととか思い出しちゃう」


 だからあたしもちょっと真剣っぽく答える。明科さんはあたしの言葉の続きを待ってる。


「別に、あたしも何も考えてないってことは全然無い。ちょっとは考えてる。……うーん、ホントかなぁ。何も考えてないかもしれない。わかんない」


「どっちだよ」って明科さんはツッコムけど、やっぱり真剣っぽい雰囲気。


「……なんかね」あたしは珍しくちゃんと考えながら、恐る恐るくちを開く。「例えばさ、さっきの道さ、大きな街に行くときに絶対に通るじゃん。あたしが小学生のときにさ、父さんが運転する車に乗っててさ、助手席に弟が乗って、あたしとお母さんは後ろに乗ってたんだけど、当時はまだ弟と別に仲も悪くなくて、別に仲良いって感じでもなかったけど、だからさ、あたしがちょっかい出したんだよね、弟に」


 あたしが言うことに、明科さんは少し、ん? って感じの顔をしてる。でもあたしは気にせず続ける。


「そしたらそのとき弟の機嫌あんまり良くなくてさ、泣き出しちゃったんだよね、弟が。そしたらお父さんに怒鳴られてさ。『お前は大人しく車に乗ってることも出来ないのか』って。あたしは納得いかなくてさ、だって、弟があたしにちょっかい出してきて、あたしがお父さんに助けてっていってもお父さんは『仲良くしろ』とか『お姉さんなんだから』としか言わないのに、でもそんときお父さんはあたしのこと怒鳴ったじゃんね。全然納得できないじゃん、言われてることはわかるけど。なんか、そういうの思い出す。考えようとすると」


 明科さんは何を言ったら良いかわからない顔してる。だと思う。全然話が繋がってないってあたしもわかってる。でも繋がってるから、あたしは言葉を続ける。


「あたしさ、思考が散漫な方なんだよね。今考えなきゃいけないことはわかってるつもりなんだけど、でも、どうしてもそういう嫌なこと思い出して、そういうこと考え続けてどんどん嫌な気持ちになっちゃう。さっきあの道の真ん中に立ったとき」あたしは振り返って、もう随分遠くなってる十字路の真ん中らへんを指さす。「そういうこと思い出しそうになってた。明科さんがどっちに行く? って訊いてくれたから、それを真面目に考えないとなーって思ってるのに、でもそういうこと思い出しちゃう。そういう嫌なことは、結構色んな場所にある。あの病院」あたしは左に見えるそれなりに大きな病院を指さす。「おじいちゃんが入院しててお見舞いに行ったことがあるんだけど、あたしどうしてもお腹が空いて受付の前でぐずったんだけど、それでお母さんに怒られた。『静かにしなさい』って。あのコンビニ」その奥にある青い色のコンビニを指さす。「中学生のときにあそこでアイス買ったんだけど、コーンに乗ってるタイプのやつ。店の前のゴミ箱の前で食べようとしたらアイスだけ落として、めっちゃガッカリしてコーンだけ食べた。あのジャスコ」あたしは右の向こうに見える紫っぽい屋上から突き出た『イオン』って書かれてるやつを指さす。「弟がまだ赤ちゃんだったとき。あたしあそこでめっちゃはしゃいで迷子になった。サービスカウンターのお姉さんにお父さんとお母さんを呼び出してもらって、二人が慌ててやってくるまでずっと泣いてた。お姉さんが優しくしてくれてたのに、そんなのお構いなしだった」


 明科さんは何も言わないであたしの言葉を聞いてくれる。


「そういうことを、思い出さないようにしてる。少しでも何かを考えようとすると、そういうことを思い出しちゃう。あたしは、昔のあたしが大嫌い。全然良い子じゃなかったから。思い出すと絶対昔のあたし殺したいって思っちゃう。でもそれを思い出すトリガーがどこにあるか、あたしにはわからない。全然関係無いことも思い出しちゃうし。だから、あんまり考えないようにしてるんだと思う。昔のあたしを殺したいって思わないように」


 言い終わって明科さんを見れば、明科さんはなんか難しい顔してる。あたしは慌てる。「って言っても関係無いか! 少しは考えた方が良いよね!? あたしバカだからもっとちゃんと考えないと!」って茶化すみたいに言えば、真剣な顔の明科さんがあたしの目をジッと見つめる。


「それは、私たちだけしかいないこの世界でも、思い出さないといけないこと?」


 明科さんの言葉に、あぁ、あたしの言葉はまだちゃんと伝わってないんだなって思う。


「……思い出すことが良いことか悪いことかは、あたしにはよくわからない。ううん。思い出さなくて良いことなんだと思う。だって、昔のあたし思い出したってしんどいだけだもん。なら思い出さない方が良いよ。でも、それはあたしが思い出したくて思い出してることじゃない。あたしの頭が勝手に思い浮かべ始める。あたしはそれを、全然制御出来ない。なんか、わー! って、頭の中に当時の映像? が浮かんできて、それを勝手に考えちゃう」


 そこまで言えば、明科さんもさすがに困ったみたいな顔をする。


「フラッシュバックかぁ。それは確かに、広丘さんの意思は関係無いかも。難儀だなぁ」って言ってる。あたしにはよくわからないけど、なんか明科さんはあたしのこの性質について知ってることがあるのかもしれない。


 それからあたしと明科さんは黙って広い道の歩道を歩いた。


 なんか、言わなくても良いことを言ったかもしれないって思った。おかしな子って思われたかもしれない。だって、あたしは誰にも、家族にだってこんなことを打ち明けたことは無い。変な子だって思われるから。だって、昔の自分を殺したいなんて、たぶん普通のひとはそんなに頻繁には思わない。多少は思うかもしれない。なんかそういうドラマを観たことがある。でも、あたしはそれに上手く共感できなかった。だって、その登場人物は大きな失敗ばかりを思い出して、些細なことはあんまり思い出さなかった。あたしも大きな失敗は思い出す。でも、それについては厳重に考えないようにしてる。そのせいか、些細な失敗とか嫌だったことをよく思い出す。自分の過去全てが、今のあたしを苛んでる。その登場人物はそういうタイプでは無かったから、だからあたしは共感出来なかった。それなら楽じゃんって。だってそれだけ思い出さないように気を付ければ(ドラマだから、登場人物の考えはたぶん作ってるひとに制御されてるから、どうしても思い出す方向に動かされちゃうんだろうけど)普通に暮らしていけるじゃんって。深刻じゃないって思ったのだ。別に、そのひとの大きな失敗が深刻じゃないって意味じゃなくて(実の母親を殺したみたいな設定だったから、深刻じゃないなんてことは全然無かったけど)。


「牛丼を食べよう」って、牛丼屋の前を通りかかったときに明科さんが言った。


「えっ」あたしは現実に引き戻されてびっくりする。「でも、牛丼は店員がよそうんだよ?」って言う。


「私に考えがある」明科さんはアコギ持ってない方の手でちからこぶを作ってみせる。全然ちからこぶ無いぷにぷにした二の腕だ。ぷにぷに。「柔らかい!」「うるさい!」あたしたちはぎゃーぎゃー言いながら牛丼屋に入る。


 あたしが四人掛け席に座れば、荷物を置いた明科さんは店の奥に向かっていく。なんか普通にカウンターの中に入っていく。えっ、どうしたんだろって少しだけ追ってみれば、「広丘さーん」って明科さんに呼ばれる。「なにー!」ってあたしもカウンターの中に入る。


「これ」明科さんはなんか銀色の鍋の中を指さしてる。あたしは覗き込む。「わ」あたしはびっくりする。「別に店員に任せなくても、自分で用意すれば牛丼が食べられる」銀色の鍋の中にはほかほか湯気が立ってる牛丼の牛の部分が山盛りに入っている。


「これ」明科さんはでっかい炊飯器を指さす。「はい!」って言いながらあたしは炊飯器を「よいしょー」って開ける。ほかほかの炊きたてご飯だ。めっちゃ湯気と炊きたてほかほかご飯の匂いがすっごい。「これ」明科さんはどんぶりをあたしに差し出す。「はい!」って言いながら、あたしは横にあったしゃもじでご飯をよそおうとする。「広丘さん!」呼び止められる。「えっ」振り返れば、明科さんは首を渋い感じに横に振ってる。「炊きたてご飯はほぐしてからよそうもんだよ」明科さんはコートとブレザーを脱いでブラウスの袖をぐいーってまくる。「貸しな」って言われてしゃもじを取り上げられる。なんかめっちゃ慣れた手付きでご飯をほぐす明科さん。「すごい! 店員みたい!」ってあたしが言えば、「去年ここでバイトしてた」って言われた。そりゃ慣れてるわけだって思った。


 そうして明科さんはご飯をどんぶりによそって、牛丼の牛の部分を慣れた手付きで盛り付ける。「すごい! 店員じゃん!」って、あたしはまた言ってしまう。「だろー? ちなみに広丘さんはつゆだく派?」「ううん。普通がいい」「じゃあこれ食べな」って渡される。「わーい!」って言いながら席に戻ろうとして、何気なく明科さんのどんぶりを見る。……あれ、ご飯少ない? って思ったのも束の間、明科さんはそのご飯が半分くらいしかよそられていないどんぶりにめっちゃ肉を盛り付ける。まだ盛り付ける。更に盛り付ける。最終的に肉が山になってた。「いやー店長に怒られるからやらなかったけど、これ一回やってみたかったんだよね」なんて言いながら「さぁ食べよ食べよ」ってあたしの背中をぐいぐい押しながら、あたしたちは席に戻る。


「牛丼は黙って食べるもんなんだよ」って言われたから、あたしは言われた通りに黙って食べた。牛丼、あんまり食べたことなかったけど、牛丼! って味だった。うん、なんか見たまんまの味だ、牛丼。


 食べ終わってお冷やをガブガブって飲んで、そうして一息吐いた頃に明科さんが言った。


「実はここでバイトしてたのは嘘」


 あたしは意味がわからなくて絶句する。


「慣れてるって思ったでしょ」明科さんはニヤって笑って言う。「この店にはよく来てた。学校帰りに。だから店員の動きめっちゃ見てたからできるって思ってたけど、思った以上にできたから自分でも驚いてる。まぁ、常連だったんだよ。私はほら、食に感心が無いから、牛丼でも全然オッケーだし」って言われて、でもそれはさっきの嘘とは関係無いんじゃない? って言おうとして、あたしはやめた。


 明科さんの顔が、急に真剣な感じになったからだ。


「なんかさー、思うじゃん」明科さんは言う。「コンビニでも牛丼屋でも。レンタルビデオ屋でも良いけど。チェーンの店ってさ、店員の態度が雑じゃん。私がちょっとなんか頼んだら一瞬ムッとした顔してさ。まぁ店員からしたら余計な仕事増やすなって感じなんだろうけど、でも私はお客じゃん」明科さんの言葉に、あたしは曖昧に頷く。「でさぁ、私は少し考えてみたんだよ。例えばこの牛丼。三百円くらい。まぁ安いよ。人間の餌って感じの値段。私はこの牛丼に三百円払って、牛丼を食べる。でも、当然この中にはサービス料ってのが含まれてる。このサービス料とは、さぁなんでしょう」明科さんは「はい広丘さん」って、あたしが手を挙げてないのに手をチョーク握ってるみたいにしてピシッてあたしを指名する。


「えっ、接客態度のことじゃないの?」あたしが答えれば、


「それは違う」ってすぐに否定する。


「そもそも考えてみなよ。例えば家で牛丼自分で作るとするじゃん。そうすると自分で作らなきゃいけないわけじゃん。結構な時間を掛けて。でも食べるのは割と一瞬じゃん。掛かって三十分くらい? 牛丼食うのに三十分も掛からないか。まぁ十分くらい。米炊いたり牛皿作ったりして、まぁ並行しても一時間くらい? で、食べ終わったら当然洗い物が出るわけじゃん。それ自分で洗うじゃん。冬だったらそれ続けてたらアカギレができたりして結構つらい作業じゃん。でも牛丼屋に来て三百円払えば、私がするのは牛丼を食べるだけじゃん。用意もしないし、洗い物もしない。それがサービス料の正体だって私は思ってる」


 明科さんの言葉に、あたしは「なるほど」って思うし、言ってる。


「例えば昔のひとたちはさ、当たり前って思ってたりするじゃん。『お客様は神様』って。ここで働いてたのは嘘だけど、私も接客のバイトはしてたから、そういうことたまに言われたりした。決まって五十代から上のオッサンオバサンが言うんだけど。でもさ、サービスって客にへこへこするものじゃないじゃん。例えば買い物に行って、三千円の商品を買うとするじゃん。客はお金を払うってアドバンテージがあるみたいに思ってるかもしれないけど、その三千円は商品の値段なんだから、売買が成立した時点で客と店員の立場は対等じゃん。別に客は三千円を店に寄付してるわけじゃないじゃん。株主でもないじゃん。必要だった商品を、手に入れたワケじゃん。わざわざこの店で買ってくれたんだから~って偉いひとは言うかもだけど、でもそれは客の勝手じゃん。嫌だったら別の店で買えば良いし、別に深い考えがあってこの店に来たわけじゃないじゃん絶対。嫌な気分になりました~ってクレームがあったとして、買い物するのに良い気分も嫌な気分も無いじゃん、あんたはそれが欲しかったから買った、で終わりじゃん、商品に不備があったら違う話になるけど。で、店員は使い捨てじゃん。バイトだったりパートだったり、社員だって末端じゃん。そこに信念なんて何も無いのみんなわかってんじゃん。それをサービスがーってお前何言ってんの? ってなるじゃん。その態度はなんだーって、お前そもそも最初から偉そうじゃん。お前が他人と接する態度じゃないのによく他人に対してそう言えるなって思うじゃん。仮に客が神様だったとしても、コミュニケーションは等価じゃん。コミュニケーションするつもり無いのにディスコミュニケーションされたって被害者ぶって言うなって感じじゃん。そもそも神様に対する接客マニュアルなんて習ってないし。コミュニケーションできないから神様なんかな? って思ったけど、それは考えるのバカらしくてやめた。話がずれた。で、そういうこと考えてたら、いちいち牛丼屋の店員にイラッとしてもバカらしいってことに気付いた。あたしは店員の態度を指摘するために牛丼屋に来てるワケじゃなくて、牛丼を食べに来てるだけなんだから、それ以上でもそれ以下でも無いって思ったら気が楽になった。むしろ用意から洗い物までしてくれてホントに助かるって感じ。わざわざピリピリする必要無いじゃん。私が例えば余計なことを頼んだとして、箸じゃなくてスプーンください、みたいな。で、店員がたまたまやろうとしてたこと中断させて私のためにスプーン用意するのにムッとした表情したとして、スプーンが出てこないことは無いじゃん。だったら私の目的は達成してるワケだよ。別にスプーン代三十円とか要求されるわけじゃないし。だったら店員の態度なんて気にしても仕方ないって、私は思った。極端な話かもだけど」


 明科さんはお冷を注いで一気飲みする。


「で、私はこの世界がこういう風になって、だから心底楽だって思ってる。気が楽になったからって、私は私の感情を完全には制御出来ない。なんか学校とか家で嫌なことがあって、そういう気分で牛丼屋に来て店員にムッとされたら、やっぱりちょっと嫌だなぁって思っちゃう。そういうのが、全部無くなったんだから。私はこの世界が本当に好き。嫌な他人と関わる余地が無いってだけで、自分のこころを縛り付けてたものが全部無くなった気がしてる。本当に、心底そう思う。だから」明科さんは言う。「だから、広丘さんが嫌なこと思い出す必要は、私は無いと思う。それが突発的なフラッシュバックだったとしても。それは全然これっぽっちも思い出して嫌な気分になる必要が無いものだと思う。私はそう思う」


 めっちゃ長い明科さんの言葉に、あたしは上手い返事が思い付けない。それはきっと、要点を絞りきれていないってことじゃないって、あたしは思う。


 でも、明科さんはきっとあたしを慰めてくれてるんだと思った。自意識過剰かもだけど。だったらあたしはそれが嬉しい。嬉しいような気がしてる。あたしは誰かにそういう心配をしてもらったことなんて無かったから。


 でも、それが言うほど簡単じゃないこともわかってる。だから、あたしは何とか思ってることを言葉にしようとくちを開く。


「自分でもどうしようも無いことを、必要じゃないってわかってても、どうにかするのは難しいよ。だって、あたしは今も嫌なこと思い出してる」


「じゃあそれ私に言ってよ」明科さんは言う。「それ、私に教えてよ。その嫌な記憶」


「えっ」私はびっくりする。「でも……」


「良いから」明科さんは言う。「良いから、私に教えて」


 明科さんの迫力に押されて、あたしは少し俯いて、明科さんの顔が見えないようにして、渋々くちを開き始める。


「……なんか、パン屋でバイトしてるときに、客に言われた。『あなたは本当に愛想が無い』って。『あなたの顔を見てるだけで、せっかく買った美味しそうなパンが美味しくなくなる気がする』って」


「バカじゃねぇの。他人の表情でパンの味が変わるワケがねぇだろ常識的に考えろ。嫌なら別の店で買え。わざわざ愛想が無い店員がいるパン屋にのこのこやってきて美味しくなくなる気がしてるパンを買ってるお前の頭の悪さが私は心配だ……って私は思うね」


「……髪の毛切りに美容院に行ったときに、なんかそのときのひとがめっちゃ話し掛けてくるひとで、あたし別に全然喋りたくなかったから曖昧に笑ってたんだけど、なんか『この後デートですか?』みたいに言われて、あたし疲れちゃって『あたしみたいなブスでボッチが誰かとデート出来る風に見えますか?』ってキレ気味に言っちゃって、そしたらそのひとずっと申し訳なさそうにしてるし『全然ブスじゃないですよ~』とか『いやぁ、私が男だったら絶対デートしたいなぁ~』とか言ってくるから『黙っててもらえますか』って言っちゃって……。あそこまで言う必要無かったって、いつも思い出しちゃう」


「広丘さんめっちゃかわいいけど」明科さんは言う。「私も男だったらデートしたい」


「明科さんまでそんなこと言わなくて良いから!」ってあたしが言えば、


「あたしが男じゃなくて良かったね。昨日たぶん大変だったよ」


 なんて言われて、あたしは顔を真っ赤にして俯くしかない。


「他にはなんかある?」明科さんは全然気にした風もなく言う。


「……昨日」あたしは言う。「昨日、変な勘違いしちゃったのも」


 あたしの言葉に、明科さんは「まだ気にしてるの!?」ってげらげら笑い始める。「ホントに気にしてるんだから笑わないでよ!」ってあたしが言えば、明科さんは「ごめんごめん」って言いながらもひとしきり笑って、


「だって広丘さんからかうとめっちゃかわいくておもしろいんだもん」


 とか言う。「全然おもしろくないしかわいくないし……」ってあたしは思うし言ってる。


「やぁ、広丘さんホント良いなぁ。もっとからかいたくなっちゃう。かわいい」


「ホントやめて! もうお願いだから! あたしホントそんなんじゃないから!」


「どう? 少しは気分楽になった?」


 って、唐突に明科さんは真剣な顔に戻って、でも薄らと笑ってて、だからあたしはその言葉にちょっと考えてみる。「……うん」あたしは頷く。「なんか、嫌なことどっかいっちゃった」


 明科さんは「良かった良かった」って心底安心したみたいに頷く。「これからさ、そういうこと思い出したら私に言ってよ」ニッて笑って、明科さんは言う。「そしたら私が全部ぶっ飛ばしてあげる。そんなの関係無いね! って。どう? なかなか良い考えじゃない?」


「えっ……でも……」明科さんの提案はとても魅力的って思うけど、でもあたしはちょっと気まずいって思ってる。


 だってそれは、あたしの嫌な記憶を、明科さんに負担させるってことだ。それはかなり気まずい。明科さんに、そこまでしてもらうほどのことをあたしはしていない。それはたぶん、等価じゃない。あたしだけがそんなことしてもらうなんて絶対におかしいって思う。


 って、全部言葉にしたワケじゃないのに、明科さんは言う。「広丘さんは思ってるかもしれない。自分だけがそんなことしてもらうのは違うかもしれないって」その通りだったから、あたしは「うん……」って頷く。


 そしたら明科さんはあたしの手を取って、ぎゅって握った。


「それは違うよ、広丘さん。だって、私は広丘さんに助けてもらってる」そしてそんなことを言い出す。「そんなこと無いよ!」って言ったら「聞いて広丘さん」って、明科さんはとびきり真剣な声と表情であたしの否定を制する。


「私はたぶん、駅で会ったのが私を呼んでる広丘さんじゃなかったら、今こうして笑ってられてない。たぶんそれ以外に、今、私が笑ってられるひとなんていなかった。それはホント。広丘さんだからって、それを否定するのは許さない。だってそれは私の中の、たった一つの事実だよ。それだけが、私の本当なんだよ」


 そう言う明科さんの言葉は明科さんにとっての本当かもしれないけど、でも、言われるあたしには実感が伴わない。実感が伴わない言葉を受け入れることは出来ない。だからあたしは釈然としない表情を隠せてはいないだろうし、だから明科さんはぎゅってあたしの右手を両手で強く包む。


「私のため、なんだよ。私は広丘さんに笑っていてほしい。この世界には二人だけしかいないんだから、だから広丘さんにそういうつらかったり悲しかったりすること考えててもらっちゃ困るんだよ。だって、広丘さんが悲しかったら、私も悲しい。私が悲しかったら、広丘さんも悲しくなると思う。私たちは二人で行くって決めたんだから、お互いを無視出来ないんだから。無視するってことはバイバイするってことだよ。ここでさようならって。私は広丘さんとバイバイしたくない。だから、広丘さんに笑っていてほしい。身勝手なこと言ってるのは自覚してる。私だって、広丘さんにネガティブな気持ちを強要することはある。だからそのときは広丘さんになんとかしてもらいたい。そういう風にしていきたいんだよ。一緒にいるって……、たぶん、そういうことなんじゃない?」


 明科さんの言葉に、あたしは必死に考える。


 考えるけど、あたしだって明科さんとバイバイしたくない。あたしはたぶん、まだ全然明科さんのことを知らない。まだ知りたいことの一割も知れてないことはわかってる。だってあたしたちは一緒に行くって決めてまだ一日しか経ってない。それは表面的なことじゃない。一緒に過ごした時間も関係無い。でも、直感でしか判断できないあたしにはわかる。今思ってることが、全部あたしにとっては全部本当のことだって。


 だったら良いのかなって思う。明科さんが受け止めてくれるなら。


 でも、あたしは訊かずにはいられない。


「どうしてそこまで、あたしのこと考えてくれるの?」って。


「どうしてだろうね」って、明科さんは困った顔で笑う。「こうやって言葉を尽くすことは簡単だけど、私の本当の気持ちは、やっぱり言葉にできないのかもしれない。何を言ってもそうだと思うし、違うとも思う。難しいね」


「うん」頷きながら、わかるようなわからないような、そんなようなことをあたしは思った。


「なんか湿っぽくなっちゃったね。ごめん」あたしは頭を掻きながら、精一杯申し訳なさそうな表情を作る。や、申し訳無く思ってるのは本当なんだけど。


「いいよ。いいって言ったじゃん」明科さんはあたしの手を優しく撫でながら、そう言ってくれる。そう言ってくれて、本当に嬉しいって思う。明科さんはあたしが良い気持ちになることばかり言ってくれる。どうしてだろうって思うけど、嬉しいから良いじゃんって思うことにする。


「なんか、昔のこと思い出すなぁ」あたしは言い始める。なんでも言ってくれって明科さんが言ってくれたから、それに甘えてみることにする。


「ずっと昔。小学生のとき。夏休みに三日間だけ遊んだ友だちのこと。なんかめっちゃ気が合って、ずーっと公園で遊んでめっちゃお話したんだけど、最後の最後にどうでも良いことでケンカしちゃって。その子その日に帰るって言ってたのに。最後なんだからちゃんとお別れしようって思ってたのに、あたしその子が帰っちゃうの許せなくて、だったらあたしの家に住めば良いじゃんって。弟と交換したいって、そこまで思ってたのに。でもケンカしちゃって、だからあたしはそのとき思ったんだ。こんなに気が合って、こんなにお互いのことわかる子とケンカするくらいなんだから、もう二度とあたしは誰かと仲良くしたりできないんだって。だってクラスの子とだってこんなに仲良くなったことなかった。三日しか遊んでないのにね。だからあたしはそれからずっと独りでいた。その方が気楽だった。別に、全部が全部それが原因じゃないんだけど。でも、ずっとその記憶があたしを縛ってた気がする。だから、明科さんと仲良くなれて、あたしは安心してる。なんか、そのときのあたしが救われた気がする。……あたしはまた、ちゃんと誰かと仲良くなれてるよって。変かな、あたしの考え」


 たぶん、これはあたしが一番後悔してる記憶。


 どうでも良いって思うかもしれないけど、あたしは本当にこのことを後悔している。自分のそれからのスタンスを決定付けてしまうほどに、後悔している記憶。


「変じゃないよ」


 明科さんは言う。


「変じゃない」


 明科さんは微笑みながら、そう言ってくれる。


 明科さんがそう言うんだから、たぶんそれはその通りなのだと、あたしは思った。


 ずっと引っ掛かってたことを吐き出して、あたしは一気に気が楽になったような気がする。肩の荷が下りたような気がする。別に、何も変わってないけど。過去の記憶も、今のあたしも。名前も聞かなかったその子と会うことだって、不可能な世界になってしまったけど。


 あたしは立ち上がって、「ん~~!」って言いながら伸びをする。


「次どこ行こっか!」


 そう訊けば、「あっちじゃない?」って、明科さんは窓の向こうを指さす。


 あたしは「どっち?」ってそっちを見る。なんか山が見えるけど、山登るの? 山はもう雪が降ってるっぽいよ?


 とか思ってたら、スパァン! ってお尻を叩かれた。「痛ぁい!」ってあたしは牛丼屋が揺れるくらい大きな声で叫んでしまった。「何するの明科さん!」


 って思ったら抱き付かれた。明科さんに。「えっ!? なに!?」


「広丘さん、大好き」


 あたしの耳元でそう言う明科さんの声は、なぜだか少し潤んでいるように、あたしには聞こえた。

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