その9:白鳥湖

 白鳥湖って呼ばれてる小さな湖がある。


 別にチャイコフスキーのバレエは関係無い、白鳥が冬にやってくる湖。あたしは小さい時におじいちゃんに連れられてここに来たことがある。あたしは幼稚園で『白鳥の湖』の絵本を読んで感動して、こんな身近な場所にそんな名前の場所があるんだ! って、教えてもらったときに大層喜んだ。で、実際に連れて来られて死ぬほどガッカリした。


 いや、白鳥はいた。めっちゃいた。でも鴨の方が沢山いた。ガーガーめっちゃうるさかった。白鳥も白鳥で、なんとも言えない味のある鳴き声で鳴いてた。あたしの知ってるオデット姫は、白鳥の姿だからってこんな声では断じて鳴かないって思った。し、そもそもここは湖ではなかった。河のなんか幅が広がってるところだった。あたしは六枚切りの超熟を抱きかかえて立ち尽くした。おじいちゃんがあたしから超熟を取り上げて一枚取り出して、ちぎってぽいぽい白鳥の方に投げてた。「お前もやってみろ」っておじいちゃんは言った。あたしは呆然と立ち尽くしていた。白鳥はもそもそ超熟を食べてた。あたしはその日から、『白鳥の湖』の絵本を読まなくなった。


 みたいなことを思い出しながら、あたしたちは白鳥湖にやってきた。思い出したことはちゃんと明科さんに教えた方が良いかなって思ったけど、いくらなんでもデリカシーに欠ける思い出話だったので、あたしは言わなかった。たぶん言わなくて正解だった。


 思えば、あたしたちは全然旅っぽいことをしていなかった。牛丼屋を出発する直前くらいに、あたしは明科さんにそう言った。


「旅っぽいことって?」って、明科さんは言う。


「なんか観光名所見たりとか」あたしはツアーの旅行なんて小中学校の修学旅行くらいしか行ったこと無いけど、なんか旅ってそういう雰囲気。「写真撮って、記念撮影とか!」


「広丘さんって一匹狼なのに考えてること結構ミーハーだよね」


 明科さんは苦笑いしながら言った。


「え、でも旅ってそういうもんじゃない?」


 あたしは平然と答えながら、でもなんかちょっと恥ずかしくなってくる。


「別に、旅に決まったかたちなんか無いって思うよ。例えば……、じゃあ鎌倉行くじゃん。大仏とか、えのすいとか。でも、それって絶対に見なきゃいけないもんじゃないじゃん。そういうのって、たぶん、教科書通りなんだよ。点数付けるとしたら70点みたいな。や、100点なんて無いんだろうけどさ。なんか、そこ行っとけば間違い無い! みたいな? 百人いたら七十人は『良いじゃん』っていう選択肢っていうか」


 うんうんってあたしは頷く。


「でも、別に良いじゃん、コンビニ行っても。なんかご当地グッズみたいな、そこのコンビニにしか無いお菓子とか売ってるかもしれないし。裏路地探索とかしても良いじゃん。住宅街とか行っても良いし。歩いて『サーフブンガクカマクラ』しても楽しいかもだし」


「さーふぶんがくかまくら?」


「アジカン。『藤沢ルーザー』から、『鎌倉グッドバイ』まで」


「『リライト』しかわかんない」


「『ソルファ』だったら『24時』が好きだな。一番は『夏の日、残像』」明科さんは言うけど、だからあたしは『リライト』しか知らないのだ。って思ったら「後で聴かせてあげる」って言ってくれた。明科さんはやっぱり優しい。


 で、白鳥湖。


「おー白鳥いるねぇ」河岸にギターを雑に置いて、白鳥と鴨の群れを眺める明科さん。まぁ、白鳥も鴨も透明なシルエットだけど。


「やっぱり鴨ばっかりだぁ」あたしは昔見たまんまの光景にガッカリする。白鳥のちょっと大きなシルエットに群がるみたいにいる鴨の小さいシルエットたち。「これじゃあ鴨湖だよぉ」


「鴨湖って」って、明科さんはあたしのぼやきにくすくす笑ってる。「だって鴨ばっかりで全然思ってたのと違うよこれ」あたしは言う。「昔もそうだったからそうかなぁって思ってたんだよ。そしたら案の定だよ。白鳥も白鳥でなんか間抜けな感じだし。絵本に描かれてた白鳥はもっとスマートだったよ。イケメンだったんだよ」あたしは地団駄を踏みながら言う。


「たぶんそれ鶴っぽく描かれてたんじゃないのかな……」


「鶴!? ロシアに鶴なんているの!?」


「さぁ。それかフラミンゴとか」


「フラミンゴ!?」


「わかんないけど。でもその二種類の方がシルエット的にはぽいよね」


 明科さんはテキトーなことを言いながらさっきコンビニから持ってきた超熟をぶんぶん振り回す。「広丘さんもパンあげる~?」って訊かれるけど、あたしは「あたしはいいや~」って答える。って思って、「でも透明だしパン食べられないじゃん!?」って言う。「いや、こういうのは風情なんだよ」とかまたテキトーなことを言われる。「風情ってなによ~」ってあたしは思ってるし、言ってる。「げぇっ!?」河岸にしゃがみ込んで平べったい石を探してるあたしの背中に、めっちゃ素っ頓狂な声が聞こえてくる。「どしたの?」ぼんやり振り返れば、「なんか鳥インフルだかなんだかで餌あげるなって看板立ってる……」って、明科さんはめっちゃガッカリした声で言う。「鳥インフル……」あたしはもう本格的に白鳥のことが嫌いになりそうだった。まぁ、透明だから良いけど。微妙っぽい鳴き声も聞こえてこないし。


 明科さんはローファーをじゃりじゃりいわせながらあたしの隣にとぼとぼやって来る。あたしの隣にしゃがみ込む。「何やってるの」あたしが集めた平べったい石を見ながら首を傾げる明科さん。「水切り用の石」あたしは答える。「小学生か」明科さんはあたしのほっぺをむぎゅって掴む。「痛い痛いよ明科さん」「でもよく伸びるよ。広丘さんはトルコ風だね」「ひとのことアイスみたいに言うのどうかと思う」「冷たいし実質アイスだよ」「実質アイス」「はい、あーん」いきなりそんなこと言う明科さんにあたしはギョッとする。もしかしてあたしのほっぺ食べられちゃうかも!? とか思ったら明科さんはあたしの口元にちぎった超熟を差し出してる。「牛丼食べたばっかりだよ」って言いながらもあたしはもぐもぐ食べてる。ちょっと明科さんの指舐めちゃったって思ったら「広丘さんのえっち……」って言いながら明科さんはにやにや笑ってる。「牛丼の味がする」あたしは無表情を作って答える。「うそぉん!?」って明科さんは自分の指のにおいめっちゃ嗅いでる。「めっちゃ洗ったのに! 液体の石鹸もめっちゃ使ったのに!?」って言ってるから「嘘だよ」って言ってあげる。「……素直じゃない広丘さんはなんかダメ」とか言われる。「素直じゃないとどうなるの?」あたしは言う。「だって、私が広丘さんからかいたいじゃん」とか言ってる。「広丘さんのかわいさを引き出すのが私の仕事じゃん?」とかも言われる。「知らないー!」あたしは叫ぶ。あたしが叫んだからって、別に白鳥も鴨も飛んでいったりはしない。あたしたちは白鳥と鴨にもシカトされてる。でも別に、それが悲しいとか思ったりはしない。あたしは別に、誰にシカトされたって気にしたりしたことは無かった。


 それからあたしたちは、ボーッと透明な白鳥と鴨を眺めた。


 二人で並んでしゃがみながら。


 穏やかな時間が流れてる。河のせせらぎだけが聞こえる。秋もそろそろ終わりそうな、めっちゃ冷たそうな河の音。肌寒い。もう午後の二時くらいだろうか。風が出てきて、あたしたちは無意識に脚をめっちゃ撫でてる。さすさす、さすさす。「寒くない?」「めっちゃ寒い」あたしたちは置いたリュックの中からジャージを取り出して慌ててスカートの下に履き始める。だいぶマシになった気がする。同じ場所に戻ってきてしゃがみ込む。「でもハニワってかわいくないよね」明科さんは超熟をもぐもぐしながら言う。「さすがに雪降ってるのに超ミニスカにするのはどうかと思うけど、やっぱりスカートの下にジャージ履くのは違うと思う」あたしのジャージを見ながら、明科さんは微妙な顔で言う。「なんであたしの脚見ながら言うの?」あたしは言う。「だって、広丘さん脚めっっちゃキレイ」明科さんはめっちゃをイントネーション強めに言う。「それを出し惜しみするなんてとんでもない」「寒くて鳥肌立ってる脚見ても楽しくないよ」って言えば、「広丘さんは産毛薄いし剃ってるから大丈夫だよ」とか言われる。「……いつ見てるの?」あたしはおっかなびっくり答える。「いつでも見てるよ」「……マジか」「マジにしないでね? お風呂入ったときめっちゃ近かったからね?」って、明科さんはどうどうみたいな手付きをしながら言う。「ふーん」あたしはふーんって顔をする。「マジにしないでね? ホントにね?」明科さんはホントに焦ってるみたいな雰囲気で何度も念押しするから、だからあたしは笑ってしまう。明科さんはホッとしたみたいな顔してる。超熟をもぐもぐしながら。時々思い出したみたいに、あたしのくちの前に差し出しながら。


 それからあたしたちは、またボーッと透明な白鳥と鴨を眺める。


 あたしは、広丘さんに大好きと言われた。


 ちょっと潤んでる声で。


 あたしは今こうして明科さんと普通に喋ってるけど、別にそれは普通に出来るし、普通に楽しいけど、でも明科さんがどうしていきなりあたしに抱き付いてそう言ったのかわからなくて、だからちょっと困惑もしてる。


 話の流れ的に、そういうこと言われるシチュエーションじゃなかった気がする。明科さんからそう言われるのは嬉しい。だってあたしも明科さんのこと大好き。なんか、ちゃんと喋れてるって、意思疎通できてるって感じがするから。それでお互い楽しい気持ちになれてるってわかるから。そうじゃなくても明科さんめっちゃ美人だしかわいいし。そういう子から大好きって言われて嬉しくないはずがない。女の子だってかわいい女の子が大好き。どうしてそうなのかはわからないけど、あたしはあたしがそう思うのが悪くないって思ってるから、だからそれに特別思うことは無い。それで良いって思ってる。


 あたしはクラスの子たちと事務的な会話するとき、ちゃんと意思疎通できてるかわからなくて頻繁に不安になった。「広丘さんプリント持ってきた?」「うん」「じゃあちょうだい。わたし係だから」「うん。ありがと。お願いします」みたいな会話だって、あたしはちゃんと通じてるのか不安だった。別に通じてなくても良いけど。言葉の意味が通じてなくても、結果が伴ってれば生活に支障は無い。あたしのプリントが先生に届けられてるなら、会話が成立してなくても最悪大丈夫。あたしはボッチだったけど、別にいじめられてるって雰囲気じゃなかったから、プリント隠されたりしたことも無かった。だからあたしの出来の悪いプリントはちゃんと先生に届けられて、採点されて返ってきた。それだって不安だった。あたしと先生の言葉がちゃんと噛み合ってるって思ったことは一度も無かった。だからあたしは誰とも関わらなかった。ちょっと話すだけで不安になるようなひとたちと関わるのは怖いじゃんって思ってた。


 でも、さっきの流れはわからなかった。明科さんはそれについて何も言わなかった。あたしがたぶんどうしたの? って顔してたから、「なんか急にそう思った」って言ってたけど、それが本当なのか嘘なのかあたしにはわからなかった。嘘、じゃないかと思ってる。別にあたしが特別明科さんの琴線に触れるようなこと言ったとも思えない。だから、あたしはちょっと不安になってる。明科さんとは会話がすれ違ってしまうこともそりゃあるけど、なんかさっきのはそういうのじゃなかった。会話がすれ違っても理解は探り合えるけど、さっきのは違うと思ったのだ。よく、わからないけど。


 あたしはたぶん、それについて明科さんに訊いた方が良いんだと思う。


 でも、あたしはそれをして良いのかどうかわからないでいる。


 大好きの意味。好きって気持ちは一つじゃない。色々な意味がある、と思う。あたしにはよくわからないけど、でもなんかそうだってことはわかる。例えば、あたしがラブホで、明科さんにブレザー脱がされてたときの気持ち。あれはなんか雰囲気とかあたしの勘違いとかあったけど、あたしはなんか今まで一度も抱いたことが無い気持ちになってた。あれが好きって気持ちなのかはわからないけど、でもラブソングとか恋愛小説とかで言ってるような気持ちに近かったんじゃないかって、薄々思ってる。女の子相手にそんな気持ちになる!? って思う自分がいるけど、でも客観的に、冷静に、分析してみたのだ、これでも。一過性の気持ちだったけど。今、隣にいる明科さんにそんな風には思わない。


 あのとき明科さんが言った好きの意味が、あたしにはわからなかった。


 別にどんな意味の好きでも、あたしは変だって思ったりしない。


 ただ、わかるって思ったひとのことが急にわからないになるのは、ちょっと不安。


 それだけ。


 それだけなら訊けば良いのに、明科さんはたぶんそれについて訊かれたくないって思ってる。だから普通にしてる。あたしに余計なこと訊かせないようにしてる。それがまたちょっと不安になる。


「わかんないなー」って思ったら言ってた。


「何がー?」明科さんが答えて、あたしはビクッてしてしまう。「どしたの?」明科さんが心配するみたいにあたしの顔を覗き込む。「ちょっと寒くて」あたしははぐらかす。「そうかなぁ」明科さんはそうでもなくない? って顔してる。さっきまでぴゅーぴゅー吹いてた風はもう止んでいる。


「なんか」あたしは必死に考える。変なこと考えてたって悟られないために。「……ジークフリート王子は、どうしてこんな鳥のことキレイだって思ったのかなって」なんとか上手くはぐらかせる話題が出てくる。あたしは内心めっちゃホッとしてる。


「別に白鳥がキレイだって思ったわけじゃなくない? 人間に戻ったオデット姫がキレイだって思ったんだよ。永遠の愛を誓うにしてはイベント足りないって思うけど。なんか買い物とか行けよって。ライバル出現! 大好きな彼が取られちゃう!」唐突に言う明科さんの「大好き」って言葉に、あたしはまたビクってしそうになる。けど、堪える。「みたいなイベントで補強しないと無理あるだろって」


「明科さん、お話に一家言ありすぎじゃない?」


「だって出会って五秒で真実の愛! みたいに言われたって待ってよって感じだよ」


「それはそうだけど」


「まぁでも、オチは結構イカしてると思う。心中して永遠の世界へ! みたいな」


「えっ。白鳥の湖ってハッピーエンドでしょ?」


「あれは観客の反感買ったから後で直したんだよ。最初は悲劇だったって話」


「へぇ~……。なんかそう考えるとオデット姫ってめっちゃかわいそうな感じだね」


「でも、ジークフリート王子に会えた。それで心中することになったとしても、永遠の愛ってやつはちゃんと手に入れられた。別に、生きてることが必ずしも救いではないと私は思う。悪の親玉倒して全部元通り! の方がわかりやすいとは思うけどね。でも、わかりやすさと私の納得は違う。私は、全部が全部思い通りにはならなかった、でも欲しいものは手に入った、くらいが妥当なラインだと思う。分相応っていうか」


「明科さんはご都合主義嫌いなタイプ?」


「勧善懲悪とかも嫌いなタイプ」にししって明科さんは笑う。「だって、全部が全部望み通りになるなんて嘘だよ。そんな都合の良い話はどこにも無い。私たちはそれを知ってるから、だから求めてしまう。嘘だってわかってるからね。物語の中でくらいそれがあっても良いじゃんって。でも、犠牲の無い物語の虚構性は計り知れないよ。それは没入感を削いでまで用意して良いものじゃない」


「きょこうせい……、ぼつにゅうかん……」


「これは完璧に嘘だ! って思うものに共感したり感動したりはできないってこと」


「なるほどねぇ」


「ケースバイケースだけどね」


 明科さんはそう言って、ギターのケースを「よいしょ」って開ける。


 アコギを取り出して、そうして爪弾き始める。


『白鳥の湖』より、『憧憬』。


 組曲の中の、一番最初のメロディ。『白鳥の踊り』とどっちが有名かわかんないけど、哀愁を誘うメロディは誰でも一回は聴いたことがあるはず。あたしは随分ぶりにそのメロディを聴いた。


 アコギを弾く明科さんの顔を覗き見る。


 ちょっと寂しそうな顔をしてる。ちょっとアンニュイな視線で、爪弾く弦の、ギターの穴が空いてるところを見下ろしてる。そうしてるだけで様になるのは絶対演奏者補正じゃないと思うんだけど、でもなんかそれだけじゃないような雰囲気も感じる。


 あたしは、今度は独りでボーッと白鳥と鴨を眺めてる。


『憧憬』を弾く明科さんが、弾きながら言う。


「広丘さん、今は嫌なこと思い出してない?」


 弾きながら喋るなんてめっちゃ器用だなぁ、ってあたしは思いながら。


「うん、大丈夫。明科さんの演奏めっちゃキレイ」


 そう答えて、でも明科さんのこと考えてるよ、とは言えないのだった。

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