その2:明科さん

「まず最初に起きて、これは違うって思った」


 明科さんは言った。


「私、朝弱いからいつもおかんが起こしてくれるんだけど、今日は全然起こしに来てくれなかったんだよね。私のおかん今、夜勤の仕事してるから、帰ってきて一服してから起こしてくれるんだけど、だから私を起こさずに寝るなんてシチュエーションには絶対にならない。私を起こして、私は朝食、おかんは夕食を、二人で一緒に食べる。まぁ献立は全然違うけど。私朝はパン派だし。……なんだっけ、で、まぁそれで私は今日自分で起きたんだけど、まずこれが私的にはめちゃくちゃびっくりしたことなんだけど、……いつも起きる時間だったんだよ、目覚まし時計見たら。や、目覚ましは鳴らしてるんだよ。でもいつも寝ながら止めてるから覚えてないんだ、止めてるの。ピピピって鳴るじゃん。や、ジジジか……? うん、まぁそれで起きて目覚まし止めて、おかんどうしたのっつって、リビングに行ったらいるじゃんね、これ」


 明科さんは目の前を横切る透明な灰色のシルエットの一つを指さす。


「はぁなるほど、こりゃ私はまだ夢を見てるんだなって、まぁ当然思うワケじゃん。でもその直前に見てるじゃん別の夢。修学旅行の夢だったかなぁ。バスが事故って落ちる夢。妙にリアルめでさ。釈然としねぇなぁって思ったけど、まぁ釈然としなかったら確かめたらいいじゃん。右足の小指をさ、ガンッて思いっきりドアにぶつけてみたの。なんか小さいときに男子に混じってやったサッカー思い出しながら。……マジでやめた方がいいよそれ。折れてるかと思ったもん実際。わからんけど。しゃがんで動かしてみたらそんなに痛くないし大丈夫かって思ったけど、医者に行くべきかもわからん。でも医者に行ってどうするんだってね。めっちゃでかい音したのに、おかんっぽい透明なやつ全然気付いた様子も無いしたぶん医者もそうだよ。ははは。で、たぶんそこからは広丘さんと一緒」


 べしべしと、あたしの右肩が叩かれる。明科さんはわははと笑ってる。「コンビニも寄るよね」って、レジ袋に入ってる総菜パンとミネラルウォーターを掲げてあたしに見せる明科さん。わはは。めっちゃ豪快。めっちゃ意外。あたしは若干気圧される。


「実際さ、なんか映画とか観るじゃん。日常が非日常に! 系のやつ。災害系とかゾンビ系とかまぁ色々あるけど、その映画の主人公たちに感心したよね、実際。だって自分の世界が突然意味不明になって、それでその状況に適応しようっていきなり思える? いやぁ、これ難しいところだと思うんだよ。だって、現にこうして私らは思えなかったクチじゃん。だから制服着て駅に来てる。何したら良いかわからないからさ、じゃあ何するかって、とりあえずいつもの行動なぞることしか出来ないんだよ。なんかゾンビが街に溢れかえってんのにちんたら職場にやってきて、車から降りた瞬間にゾンビに噛まれるモブとかさ、正直バカにするじゃん。おいおいお前ら少しは周り見てみろよって。家からそこに来る間に街がめちゃくちゃなの見てんのになんでわざわざゾンビがいっぱいいるこんな場所にやって来て、のこのこ車から降りてお陀仏してるんだよって。私そういう論理的じゃない行動って苦手でさ、はははバカでー、って言いながらポップコーンくちに放り投げてたタイプだったから、だから今めっちゃ自分に愕然としてる。あー、人間って決められた行動に縋り付く生き物なんだなぁって。そこから外されると考えることも出来なくなるんだって。仮に……、仮にだけど、これがもしこいつら」明科さんは目の前のシルエットを指さす。「こいつらがゾンビだったら私はもうちょっとマシな行動出来てたとは思うね。私のことシカトしやがって。だってそのためにベランダに買っておいてあるんだよバールみたいなやつ。みたいなやつってなんだ。まぁ、それ持って目指すじゃんイトーヨーカドー。定番ね、これ。……でもよく考えたらそれって死亡フラグなんかな。まぁ、上手く立ち回れたはずだよ。こいつらよりよっぽどハードモードだけど。わははは」


「明科さん」


「何?」


 わはわは笑う明科さんを呼べば、明科さんは秒速で返事をする。顔はもう笑ってない。


「明科さん、めっちゃ喋るんだね」


 明科さんの言うことがよく理解出来ていないあたしは、場違いかもしれないって思いながら、そう訊いてる。


「うん。幻滅した?」


 明科さんは、真顔のまま答える。


「いや、幻滅とかはしないけど」


「でも、私らしくないって思った。でしょ? 私らしいって、別に、私と広丘さんはほら、クラスでも全然喋らないし、アドレス交換はしたけどメールも全然したことないしさ」明科さんはポケットから折りたたみの、秋の新モデルの黒いケータイを取り出してぷらぷら振ってまた仕舞う。「全然接点とかも無かったからそれ、勝手に広丘さんが私のイメージ作って勝手になんか好きとか嫌いとか思ってたんだろうけど、でも私はこうだよ。クラスでは上手ぁくやってたけど。べらべら勝手に喋るやつとかドン引きじゃんだって。空気読めよって。バーカ空気読むのはあんたらの方だろ大人しく私の話を聞いてろって思うのはまぁ飲み込んで、大人しくやらないとさ、めんどいじゃん、人間関係って」


 同意を求めてるのか求めていないのか、明科さんはそこで少し黙る。と思ったら、


「めんどいじゃん! 人間関係って!」


 さっきより強めに同じこと言われた。「う、うん!」って、あたしはなんだか借りてきた猫みたいに縮こまって促されるままに頷いて返事をする。


「……だからさ、ホントはやめようって思ったんだよ。駅来ちゃって、こんなところ来ても何も変わらないってわかってるのにさ。電車だってこれ」明科さんは目の前を通る灰色のシルエットたちを「これこれこれ!」って次々に指さす。「これと同じになってるのもまぁ予想通りじゃん車がそうなんだから。そしたら来ない方が良いじゃん。夢は見るもんじゃないでしょだって、破れて醒めるって最初から決まってるんだから。余計な期待はしないもんでしょ普通。コンビニ行けばメシが手に入って、別に誰とも関われないだけで、むしろそれは求めてたことだったわけじゃん私は。あーくだらねーなって。こいつらと同じ空気吸ってるのがくだらねー。こいつらの吐いた息吸ってるだけで私までくだらなくなってるのがわかるんだよ秒毎に。だったら望むべくして望んだ環境が手に入ったワケだよ。私は喜ぶべきだった。で、家に閉じこもって、おかんっぽいおかんじゃないやつと関わらない共同生活? みたいなやつを延々続けてれば、今まで私を苦しめてた煩わしさの全てから解放されるワケだよ。独りの世界ってやつ。映画観て、本読んで、アニメとかも観たりして」


「え、明科さんアニメとか観るの!?」


「食い付くのそこ!?」


 明科さんはげらげら笑いながら「広丘さんホンッット変!」ってあたしの右肩をバンバン叩く。なんだかあたしもおかしくなってくる。あたしもげらげら笑う。


「はーおかしっ。まぁさ」しばらく笑い合って、明科さんは仕切り直す。「まぁ、そしたら広丘さんがそこに座ってさ、なんか泣いてるじゃん。そもそも私はびっくりしてるワケじゃん。広丘さん普通なんだもん。普通に、普通なんだもん。ほら普通」明科さんが、叩いてごめんって言うみたいにあたしの右肩の、ブレザーの肩パッドの下あたりをさすさす撫でる。「それ見たら、なんか安心してんの私。で、やっぱり帰ろう帰るべきだって思ってたのに、泣いてて気付かない広丘さんの隣に座ってるの、いつの間にか。そしたら広丘さんなんか私の名前呼び始めるじゃん。嘘だって思うじゃん。全然気付いてないはずなのになんで私なのって。よりによってなんで私の名前呼ぶのって。嘘じゃんそんなの。だって、なんでそんな私を安心させてくれることばっかりするんだって思うじゃん。私たち全然喋ったこと無いんだよ? 接点も無かったのに。ただお互いの顔知ってるだけなのに。それだけなのに、救われちゃうじゃん。おかしいじゃんそんなの。だって、違うんだよ。私はここに、私が愚かだったってことを確かめに来たんだよ、後付けの理由かもだけど。あー私は結局斜に構えて世の中を、人間たちを見ていたワケだけど、ほーら蓋を開けてみたらあんたも普通に世の中の人間たちだったんだよって。ゾンビ映画観てたからって論理的な行動なんか取れないんだよって。だから誰も見てやしないのに平静を装いながら、自分はさぞ取り乱してなんかいないんだぞって誰も見てやしないのに普通っぽい顔して、内心ぐちゃぐちゃなのにいつもの行動してりゃ大丈夫っしょって無理矢理歩いて、薄々わかってる結末から目を逸らして駅にやってきて、そしたら現実を直視して、あー私も人間でしたねって。そう、……ならなかったんだよ。広丘さんがいたんだから」


 明科さんが、喋り終わるかそうじゃないかくらいのタイミングだった。


 明科さんが、座りながら身体を捻って、あたしのお腹に抱きついてきた。


 あたしは、そんな急な明科さんの行動に、どうしたら良いかわからない。


「ありがと、広丘さん」


「えっ、なんで」


「いいから」


「わかんないよ。だって、あたしただ惨めに泣いてただけなのに」


「いいんだよ、だからこうさせて」


 ぐりぐりと、明科さんのおでこがあたしのおなかに擦りつけられる。コートの生地がごわごわして痛くないのかなって、ちょっと心配になるくらいぐりぐりって。


 あたしはそこで、あたしがすっかり落ち着きを取り戻していたことに気付いた。さっきまであんなにわんわん泣いてたのに。怖いとか寂しいとか、その後になんとかやっていこうとは思ったけど、でも結局それは自分を奮い立たせるための気合いとかそんなやつで、根本的には全然どうしようもなくて、でも、明科さんのよくわかんない話を聞いてたら、わはわは笑ってたら、なんか自分でもびっくりするくらい落ち着いてる。むしろ、明科さんがこんなんなっちゃってびっくりしてる。なんとかしなきゃとか、いや自分のことほったらかしてって感じだけど、でもそれくらい落ち着いてる。落ち着いてた。


 もしかしたら明科さんは、あたしを落ち着かせようとしてくれたのかもしれなかった。本当はそうじゃないかもしれない。明科さんもめっちゃびっくりしてて、内心ぐちゃぐちゃって言ってたし、そんな自分を落ち着かせるためにめっちゃ喋って、こうしてあたしに抱き付いてるのかもしれない。わからない。わからないけど、あたしは落ち着いてる。明科さんのお陰で。


 だったら、お礼を言わなきゃいけないのはあたしの方なのかもしれない。


「あたしこそありがとう、明科さん」


 どうしたら良いかわからなかったから、悩むのもバカらしくなってそう言って、あたしも明科さんにぐでーって抱きついてみた。


 明科さんは何も言わなかった。「んー」って言ってた。かわいい。


 あたしたちはそれからしばらく、ベンチに隣り合って座りながら抱き合うっていう、なんか客観的に見たらおかしな格好のまま、お互いの体温とか匂いとか柔らかさとかコートごわごわしてるとか、そういうことを感じ合っていた。


 でも、この街に、あたしたちを客観的に見る人間は、あたしたちの他にはいない。


 灰色で透明なシルエットたちは引っ切り無しにあたしたちの前を通るし、灰色で透明な車も通るし、灰色で透明な電車は朝の通勤通学ラッシュのせいで上りも下りも多めの本数で静かにホームに入って出ていくけど、こいつらはあたしたちを見れない。だからあたしたちが気にすべきものは何も無い。独りのときはそれが怖くて寂しくて仕方なかったのに、明科さんとこうしてるだけで、あたしは今はそんな風にちょっと強気に考えられる。それが良いことなのか悪いことなのか、あたしにはわからない。


 だって、あたしも考えていたはずだ。あたしのことを理解してくれるひとは絶対にいないって。それは、あたしが孤独だってことだ。それで良いって思ってた。誰かと分かち合う気持ちなんかくだらないって思ってたってことだ。明科さんもそんなようなこと言ってた。あたしたちは似たようなことを思ってる。めっちゃびっくりした。えっ、明科さんもしかしてあたし!? って思った。嘘、それはちょっと盛った。


 でも、それは明科さんがあたしの理解者だってことにはならない。


 似たようなことを考えてるからって互いのことを理解出来るわけじゃない。だって、あたしは明科さんじゃない。明科さんは、あたしじゃない。それで全てに説明がつく。ついてしまう。


 でも、今はそれでいいじゃんとも思った。


 いいじゃん。だって、なんか嬉しいもんあたし。


 名前呼んだひとが、呼んだ瞬間に現れてくれるってめっちゃ嬉しい。嬉しかった。どうして明科さんの名前を呼んだのか、あたしは自分のことなのによくわかってないけど、あたしは確かにあの時、明科さんに会いたかった。明科さんは、なんかあたしが想像してた人物像? 人柄? とは全然違くてびっくりしたけど。もっと高嶺の花? みたいなお淑やかなひとだと思ってたけど。でも、あたしだって違く思われてるっぽい。話の腰折っちゃったし。気になったことをすぐに訊いてしまうのはあたしの悪い癖だ。お母さんにやめろって言われてたのを思いだした。でも、もう直す必要はないのかもしれない。透明で灰色なお母さんは、透明で灰色なあたしにそう言うんだろうから。……そう思ったら、また少し寂しい気持ちがやってくる。別に、あたしそんなにお母さんのこと好きじゃなかったはずなのに。


 そんなことをあーだこーだ考えていたら、「はー充電完了だわ」って、明科さんがあたしの身体から離れる。あたしも流れで明科さんの身体から離れた。


「なんか広丘さんめっちゃイイ匂いした」


 明科さんは真顔でそんなことを言う。


「えっなんで!? 柔軟剤も使ってるから!?」


「いや、それコートじゃん。なんか、広丘さんって感じの匂いだった」


「あたしの匂いってなに。臭かった!?」


「イイ匂いだったって言ったじゃん。なんか柔らかい匂い」


「堅い匂いとかもあるの?」


「あるんじゃん? 嗅いだことないけど」


 くんくんって、明科さんは自分のコートの袖のあたりを嗅いでる。「無臭だわ。ムシューダを使ってるからか」とか言ってる。たぶんそれ防虫剤だし防虫剤にはにおいあるよって思ったけど言わなかった。明科さん、喋れば喋るだけあたしの印象とズレてくる。


「あ、広丘さんまた私のこと変な子だって思ってる顔してる」


「えっ、思ってないよ」図星だった。「思ってない思ってない」


「まぁ良いけどさぁ」


 明科さんはどうでも良さそうに言って、真面目っぽい顔のままあたしの顔を見つめる。


「……この先どうしようとか、広丘さんは決めてるの?」


 訊かれて、あたしは咄嗟に首をぶんぶん振る。


「わかんない。あたしもどうしようって思ってたところ」


「泣き止んだとき、なんか決めたっぽい顔してたじゃん。アテとか無いの?」


「無いよ。なんか、こう、やっていこう! って思っただけ。泣いてスッキリしただけだった。そしたら明科さんがいてめっちゃびっくりして死ぬかと思ったし、実際死んだと思った」


「私の名前呼んでるの、よりによって私に聞かれちゃったからね」


 ぷくくー、と、明科さんはめっちゃ面白がってる。


「……死にたい」


「嘘だよ嘘。広丘さん、思ってたよりナイーブなんだね」


「あたしじゃなくても死にたくなると思うよ普通……」


「まぁまぁ。じゃあ何も決まってない感じ? それとも今まで通り暮らしていこうって感じ?」


「うーん、なんか家に帰るの怖い。あそこはあたしの居場所じゃない気がする。あたしの家なのに、透明なあたしがもういるし」


「そうなるよね」そう言って、「じゃ」と、明科さんはあたしに左手を差し出す。


「えっ」って言いながら、あたしは反射的にお辞儀するみたいに腰を曲げて、明科さんの左手に顔を近付ける。くんくん。明科さんの匂いがする。イイ匂い。


「えっ!?」明科さんはビクッて手を引っ込めて後退る。「えっ!?!?」


「えっ!?!?」


 あたしもつられてびっくりして後退る。「えっ、あたしなんか変なことした!?」


「私、手ぇ出してにおい嗅がれたの初めてだよ! 広丘さん相当変だよ!」


 顔を強張らせながら、明科さんは言う。


「えっあたし変なの!? でも明科さんもイイ匂いだったよ!?」


「匂いの話はもう良いんだよ!」明科さんは言って、「んっ」って言いながらまた左手をあたしに差し出す。


 あたしは反射的にまた匂いを嗅ごうとして、「ちげーよ!」ってベシッて頭を叩かれて、「あいたー!」なんて言ってる間に右手が握られた。


 あたしは握られた手を持ち上げる。明科さんの握ってる手も持ち上がる。ぶんぶん振ってみる。ぶんぶん。明科さんの腕がだるんだるん上下して面白い。


「しばらくさ」


 そんなあたしにされるがまま、明科さんはちょっと真面目っぽく言い始める。


 あたしはぶんぶん振るのをやめる。ひとと手を繋ぐなんて小学生以来だった気がするからテンションが上がってしまった。あたしは急に恥ずかしくなる。


「一緒に行動しようよ。これから、どうしたら良いかわかんないけどさ。なんか、二人で考えれば幅も広がるでしょ。わかんないけど」


 恥ずかしがるあたしをお構いなしに、明科さんが言う。


「……あたしで良いの?」


 あたしは反射的に聞き返している。


「だって、広丘さんしかいないじゃん」


 言われて、確かにその通りだとあたしは思った。「や、別に消去法ってワケじゃないんだけどさ。同じグループの子だったら近付かないし」って、自分の言葉にバツが悪そうに、明科さんは顔をくしゃってして笑う。


「私は、広丘さんだったら良いと思う。でも広丘さんが私のこと嫌だったらさ、そん時はバイバイしようよ。別に私も広丘さんも、他人と群れてなきゃ死んじゃうってタイプじゃないんだから、そん時はそうしたら良いよ。だからそれまで、少なくともどうしたら良いかわかるまで、一緒にいようよ」


 くいくいと、繋いだ手が引っ張られる。


 今度はあたしがされるがままになる。


「あたしバカだけど。明科さんのこと、たぶんめっちゃ困らせると思うけど」


「いいよ。そん時考える」


「また変なことすると思うけど、匂いとか嗅いじゃうと思うけど」


「いいよ。面白いもん広丘さん。ダメだったらダメだって言うよ」


「え、じゃあ……」くんくん。


「いいよもう……。好きなだけ嗅げよ……」


 明科さんは諦めたみたいに、ため息を吐きながら言う。ほら、私の学習能力の無さが、またすぐに出てしまう。


 明科さんの左手をすんすん嗅ぎながら(めっちゃイイ匂いだ)、あたしは考える。


 あたしが言おうとしてるこの気持ちは、本当に言うべき言葉なんだろうかって。


 あたしは、こうして明科さんに誘ってもらえて、あたしだったら良いって言ってもらえて、嬉しいって思ってる。この気持ちは、たぶん本当。さっき見てた夢の記憶が強く印象に残ってるけど、あたしはきっと、ずっと明科さんとこうやって喋ってみたかったんだと思う。なんか、そんな気がしている。


 明科さんはクラスのカーストの天辺にいて、発言力の強い女子たちと一緒にいて、あたしはそういうグループのこと全然好きだなんて思えなかったけど、でも、教室にいたときの明科さんはそんな、一般的に言えば恵まれた場所(たぶん、そのグループに入ってない女子の大半が、そのグループに入りたいって思ってた)にいながら、全然楽しそうには見えなかった。さっきの夢でもそう。明科さんの後ろの席では同じグループの子たちが盛り上がってたのに、明科さんはつまらなそうに文庫を読んでた。どうしてそうなの? って、ずっと訊いてみたかった。その答えはさっき聞けた。他人事に思えない言葉ばかりで、あたしは大層驚いた。だったら勇気を出して、教室で話し掛けてみれば良かったとさえ思った。……もちろん、あたしにそんな度胸は無かった。


 でも、だからって、それが今、明科さんと一緒に居て良い理由にはならないってことを、あたしは知ってる。


 だって、あたしは絶対に明科さんに迷惑を掛ける。明科さんだって、あたしに絶対に迷惑を掛けないってことは無いはず。それは、人間が一緒にいるってこと。人間はいるだけで誰かに迷惑を掛ける。いるだけで、誰かの迷惑になっている。あたしはその折り合いを付けられない……、付けられなかった。だから独りで居たかったし、実際に独りで居た。陰キャが金魚の糞だったけど。そうじゃなくても、くだらないやつとは一緒にいたくなかった。


 明科さんのことは、くだらないとは思わない。こんなことになって実際に話してみても、そうは思わない。それどころか、もっと話したいとあたしは思ってる。


 ……だから、迷惑を掛けたくないって思ってる。


 あたしは今までこんな風に考えたことなんてなかったから、だから、どうして良いかわからない。


 明科さんはそれでも良いって言う。


 本当に、そうだろうか。あたしみたいなのと一緒にいたら、絶対に大変だと思う。望んでそうしていたからって、あたしに人付き合いの経験が少ないのは、現実問題そうなのだから。


 でも、あたしだって明科さんの名前を呼んで泣いた。


 それもまた事実だった。それくらい切実に、明科さんに会いたいと思った。その気持ちは、こうやってぐだぐだ考えていたって、どうやったって嘘には出来ない。そう思って、あたしはその気持ちを嘘にしたいと考えていたことに気付いてた。あたしは、明科さんの誘いを断る理由を探していたのだ。明科さんに、迷惑を掛けて困らせたくないから。


 それでもあたしは、こうしてこの世界で明科さんと出会ってしまって、また独りで居続ける自分も想像出来ない。


 もうその段階まで引き返すことは、どうやっても出来ない。出来そうにない。


「……迷惑、絶対掛けるよ」


 あたしはすんすん嗅ぐのをやめて言う。


「そりゃ一緒にいたら、誰だってそうだよ。だから嫌だったら、バイバイしようよ」


 明科さんが言う。あたしが考えたのと同じような言葉を使って。


「……そんな簡単なもんなの? でもそれって簡単って思ってるほど簡単じゃなくない?」


 あたしは言う。ずっと独りでいたあたしには、本当にそれがわからない。


「どうだろ。うーん……」


 明科さんはあたしに手を差し出しながら考える。


「でも別に、それはこの世界だからってものではないでしょ。普通に、今までの世界でだってそう。簡単じゃなかったってことは、それだけ思い入れがあるってことなんだよ。どっちかに。あるいは両方に。だから私は言ってるの。嫌だったらバイバイしようって。一緒に行くなら、そりゃ簡単にはいかないよ。でも、お互いが納得して離れるなら、そこはドライになろうよって。私たちは互いに独りで生きていけるだろうから、そうなるのはやっぱり仕方なかったんだよって、それだけの話。だから、今だけは一緒に行こうよって、そういう簡単な話」


 明科さんが言う。


 あたしにはそれが、とても悲しいことのように思えてしまった。別に、今まではそれが普通だって考えてたはずなのに。


 あたしはどうかしてしまったのだろうか。


 いや、どうかしてないことなんか無いとも思った。


 だって、こんな孤独な世界にやって来て、そういう環境に憧れていたはずなのに、あたしは、実際にはこんな風に考えている。悲しいなんて、真逆のことを考えている。


 あたしはもうちょっとだけ考えてようとして、でも考えるのがだんだんとバカらしくなってきて、どんどんどんどん自分に対してイライラしてくる。


 なんだよ、あたしらしくない。ぐじぐじぐじぐじ考えて。


 あたしはあたしがやりたいことをするし、あたしがやりたくないことはしない。今までずっとそうしてきた。だからこれからもそのスタイルをやめるつもりはこれっぽっちも無い。そうだ。それがあたしだ。あたしは、あたしがやりたいことをするからあたしなのだ。


 それなのにぐじぐじぐじぐじ……。


 迷惑なんて、掛けたり掛けられたりしないとわからないことなのに。


 それはとても怖いことだけど、でもそれが許せるひとだっているかもしれないのに。


 答えなんか最初から出ている。


 明科さんが誘ってくれて、あたしはそれが悪くない、むしろそうしたいって思ってる。


 だったらそれをすれば良い。


 それで後悔するのなら、バイバイすることになるのなら、それはたぶんその程度のものだったということなのだ。もちろん、それはあたしが迷惑を掛けまくって良いとかそういうことじゃない。ちゃんとやった結果、そうなったらの話だ。そんなのはきっと、当たり前のことなのだ。あたしはそれを、明科さんとならやってみたいと思っている。そういう話なのだ。


 明科さんも言っている。


 その程度のものにこだわる必要は無いんだって。


 だから、それを二人で確かめてみようって。


 だったら、答える言葉は決まってる。


「わかった! じゃああたしは明科さんに迷惑掛けない!」


 突然勢い良く言うあたしに、明科さんは面食らったみたいな顔をする。


「嘘! めっちゃ迷惑掛ける! 簡単なんかじゃ済まないくらい迷惑掛ける!」


 明科さんの手を取って、出来うる限りの一番イイ笑顔を浮かべる。明科さんは目を白黒させる。だから空いてる方の手で明科さんの肩をバシバシ叩いて、あたしは言う。


「それも嘘! なんか、楽しくやっていけたら良いなって思う!」


 その程度のものじゃなければ良いって、あたしはそう思ってる。


 ……ずっと、どこまでも一緒に行けたなら。


「なんだよ全然わかんねーよ!」


 明科さんが、お返しと言わんばかりにあたしの肩をバシバシ叩く。あたしもバシバシ叩く。叩いて叩かれて、二人でげらげら笑って。


「じゃあ決まりだ!」


 ぐいっと、明科さんに引っ張られる。無理矢理ベンチから立たされて、あたしはよろけながら、でも転ばないように、明科さんの左腕にぎゅってしがみつく。


 前にいた透明な灰色のシルエットが、あたしの視界をすり抜けた。


 灰色だった景色が、それだけで普通に、普通に色鮮やかになった。


「どこまでも行こうよ、二人で。私たちをシカトする世界なんて放っておいて!」


 しがみつくあたしを気にもせず、あたし以外の誰も聞いていないのに、他の誰かに聞かせるみたいな大声で、めっちゃイイ笑顔で、明科さんはそう叫んだ。


「おー! どこまでも行こう! 二人で!」


 あたしも叫んだ。


 なんだ、明科さんも同じこと考えてたじゃんって、あたしは少し安心して。


 これからきっと、なるようになっていくんだと思う。


 今までがそうだったように。


 だからその先に待ってるのが、なんか楽しいイイ感じならサイコーだと思う。


 だって、少なくともあたしは、こうして明科さんのことを知りたいって思ってる。


 わーわー言いながら、あたしたちはそのまま反対方向に向かおうとしてちょっと言い合いになった。「先が思いやられますなぁ」って言ったら「こっちのセリフだよ!」って言われて、あたしたちはまたげらげら笑う。






 ――あたしと明科さんの旅が始まった。


 こんな世界に二人きりだけど、きっと楽しい旅になるだろうと、あたしは思っている。

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