あたしと明科さん

その1:あたし

 ――あ、あたし今死んだ、って思った。


 目が覚めたら、自分の布団の上だった。


 見慣れた天井、壁に掛けたよくわからない半裸の二次元の女の子がキメキメのポーズをしたタペストリー(壁を殴ったら穴が空いたので弟の部屋からパクってきて隠した)、青く光る豆電球(大して仲良くもない陰キャの女の子から誕プレにもらった。謎。ちょうど豆電球が無くなったのでそれを付けた。部屋が青いのは気持ち悪かったけど新しいの買ってくるのは面倒だった)が、遮光カーテンがきっちり仕事する薄暗い部屋を青く照らしている。


 普通に、あたしの部屋だった。


 あたしはむくりと上半身を起こして、う~んって伸びをする。


 全然状況がわかんない。いや、わかる。寝てるあたしが起きて、自分の部屋なのに珍しいもの見るみたいに見渡して、こうして上半身を起こしてう~んって伸びをしているのだ。うん、そう。それはわかる。猿でもわかる。だからあたしが考えたいのは、猿でもわかることじゃないってこともわかる。


 夢を、見ていた気がする。


 なんか、変な夢だった。現実みたいな夢だった。夢とか現実とか、なんかそういう区分? ってあるじゃん。目を閉じているときに見るのが夢。目を開けてたら現実~みたいな。なんか弟の部屋からパクったマンガに面白いポエムが載っていたのを思い出した。『おれたちは皆 目をあけたまま 空を飛ぶ夢を見ている』みたいな感じだったと思う。めっちゃ面白いって思った。だってこれまんまあたしたちのことじゃんって思った。上手く言葉に出来ないけど、その通りだと思ったのだ。センスがあるなと思って読み始めたけど、途中からだったからよくわからなかった。し、全体的に白かった。めっちゃオシャレだって思った。それくらいしか印象に残ってなかった。


 違った。夢の話だった。


 こうして余計なことを考えている間にも、私の不出来な脳みそはさっき自分で見たはずの夢の映像さえどんどん取りこぼしていく。それはマズイ。なんか忘れちゃいけないもののような気がする。だから必死に思い出す。


 確か、なんかバスに乗ってたと思う。通路側の右隣には陰キャの、青い豆電球をくれた子がニヤニヤしながら紙のブックカバーで表紙を隠した文庫を読んでいる。「あ、広丘さんもこういうの読みます?」ふひひって、ブックカバーを外してみせる。なんか、二次元のイケメン二人が上裸で見つめ合ってる表紙だった。あたしはそれをシカトする。なんかこの子にやたら気に入られてるっぽいんだけど、同じカーストだからだろうか。そのカーストに落ちるに至った経緯はまったく違うけど、今同じ場所にいるなら関係無い話かとも思う。別にあたしの腰巾着したいならすればいいって思う。あたしは話したかったら話すし、シカトしたかったらシカトする。この子とはなんか見てる世界も喋る言葉も全然違う国のもののように感じるし、だから別に積極的にそれをしたい気になんか全然なれないから、深く考えても仕方が無い。だから別に、これは普通にいつものこと。


 窓際席に座るあたしは、深夜バス乗ってるときと同じ気分で窓を見る。時間を潰すためだ。次にいつケータイ充電できるかわからないから、手癖で弄らないようにボストンバックの方に入れておいた。あたしたちの座席の真下にあるから、ケータイはどうやっても弄れない。


 高速道路をびゅんびゅん走るバスを囲む景色は、ここが先進国? 知らないけど、なんか文明的? な国にいるとは思えないくらい山の中のド田舎オブド田舎って感じだし、一向にその先進的で文明的なものを見せてくれない。二時間も走ってるのに、料金所の景色と違うのは、見える山のかたちが違って名前も違うだろうってことくらい。それに意味が無いことくらいはわかっていた。あたしじゃない誰の所有物で、あたしじゃない誰の所有物じゃないってことだ。そんなことにいちいち意味を見出していたら、あたしはあたし以外のことだけを考えなければいけなくなってしまう。


 三泊四日で沖縄へ。そう、修学旅行だ。なんか東海地方の空港に向かっているのだ。そうだったはず。自信が無いのは、あたしは行事ごととかに興味が無いから。こういうのって好きなひとたちだけで行けば良いのに。別に嫌なひとは無理して行かなくても良いんじゃない? 四日も退屈だったりつらい時間を過ごす必要も無いじゃんって母親に言ったら「積み立てたお金が返ってくるわけじゃないんだから行きなさい」って言われた。お金の問題かって思ったらますますどうでも良くなった。どっか別の場所に行こうと思ったけど、行くアテも無いからあたしはこうしてバスに乗っている。私は自分の人付き合いの悪さとか友だちがまったくいないことがそれなりに気に入っていたけど、こういうときには裏目に出るもんだと恨めしい気持ちになった。が、別にそれも普通のことで、全てに共通する話だった。


 隣に座る陰キャの子が、また「ふひひ」って笑って、何かぶつぶつ言ってる。iPodくらいはポケットに入れておくべきだった。もしかしたら入ってないかとごそごそ探ったらイヤホンだけ入ってた。あたしは自分の用意の悪さを呪った。本格的に息苦しくなってきた。寝てやり過ごそうかと思いながら、でもあたしは陰キャの向こうに視線を移していた。


 通路側に座る明科さんが、片手で文庫を読んでいた。反対の手で組んだ太ももに頬杖ついて、めっちゃつまらなそうな表情で。隣の陰キャとは全然違う雰囲気。明科さんはオトナだから、それだけで絵になる。入学式の日から、明科さんはずっとこうだった。二~三回くらいしか喋ったことないけど、そのどうでも良い態度があたしには新鮮だった。もっと明科さんのこと知りたいって、少しだけ思った。もちろん、あたしたちはカーストが違うから、クラスで一番上のカーストにいる明科さんに、あたしが話し掛けることなんか出来ないことはわかっていた。


 明科さんが、何かに気付いたみたいに文庫から顔を上げた。


 あたしの方を見て、目が合った。


 そのどうでも良さそうな、心底つまらなそうな目があたしを捉えて。


 ドーンって鼓膜を突き破るみたいな音が車内に響いて、同時に信じられないくらいの衝撃があたしを襲って、シートベルトで押さえつけた身体が何度も座ってるシートに叩き付けられて、内臓が出てくるんじゃないかと思った瞬間、あたしはまた明科さんを見ていた。


 明科さんの向こうの窓の景色が傾いていた。


 落ちてる、と、あたしは思った。


 明科さんはそれでもつまらなそうな表情を崩さず、車内の天井を見上げていた。


 あたしは咄嗟に手を伸ばした。


 ぎゃーぎゃー喚く隣席の陰キャをシカトして。


 明科さんに、手を伸ばした。


 それで何かが(何をもが)変わらないことを、理解していながら。


 当然、あたしの短い腕が明科さんに届くことはなく、また運転席の方から一際大きい音が聞こえてきて、その瞬間あたしは思ったのだ。


 あ、あたし今死んだ、って。


 それで夢は終わった。


 思い返してみれば変な夢だった。


 なんか、あたしの深層心理? とかなんかそういうのが全面に出た夢のようだった。


 陰キャより明科さんと喋りたいって?


 ……バカバカしい。


 あたしは起き上がって、スウェット姿のまま部屋を出る。一階のリビングへ。お腹をぽりぽり掻きながら「おはよー」って扉を開ければ、味噌汁の良い匂いが鼻をくすぐる。「うーさぶさぶ、お母さんストーブつけなよ」って言いながらこたつに入れば、こたつの電源も入っておらず、こたつ布団のひんやりした温度にビックリして飛び出て、慌てて電源を入れてついでにストーブの電源もつける。ピッ、ジーーーー……ジジジジジジ、ボッ! と、年代物の電気ストーブがようやく温かい空気を部屋に送り始める。両手をこすりながら「ねーお母さん」とキッチンを見て、あたしはギョッとして「えっ」なんて間抜けな声を出した。


 なんか向こうが透けてる透明っぽい灰色の、人間のかたちをしたシルエットが、キッチンを忙しなく動いていた。


「えっ」


 あたしはまた間抜けな声を出した。


 灰色のシルエットの隣に、別の灰色のシルエットがやって来る。二人は何かを口論しているっぽい。……ぽいってのは、あたしにはそのシルエットが喋る声が聞こえない。ただ、口っぽいのがぱくぱく動いて、身振り手振りっぽいのがなんかそういう雰囲気に見えるからで、本当にそうなのかはわからない。あたしにはこの光景が何一つ理解出来ない。


 後からやってきた髪が長い方のシルエットが、最初にいたシルエットから離れて、食器棚に向かう。棚の扉を開けて……いるように見える。棚の扉は開いていないけど、同じく灰色の透明の、棚の扉っぽいシルエットが、人型のシルエットの動きに合わせて開いたように見える。


 あたしの味噌汁茶碗に、シルエットの手が伸びる。あたしの味噌汁茶碗はそのままだけど、あたしの味噌汁茶碗と同じかたちの灰色の透明なシルエットが、手を伸ばしたシルエットに取られて、人型のシルエットはキッチンに向かう。バタン、と音が鳴りそうな勢いで棚の扉のシルエットが閉まるけど無音。キッチンにいた方のシルエットが怒鳴ったように動く。どこかで見たことがあるような光景、毎日見ていたような光景。茶碗を持った方が味噌汁をよそう。続けて炊飯器の方でも何かをやって、両手にお茶碗を持った灰色の透明なシルエットがこたつに入る。こたつは微動だにしないけど、灰色の透明なこたつ布団っぽいシルエットが盛り上がっている。座ったシルエットが手を合わせて口をぱくぱくする。こたつの上には、灰色の透明な茶碗が二つ。あたしはそれらを、混乱した頭のまままじまじと見つめる。


 そうして気付く。


 灰色の透明なシルエットは、あたしだった。


 注意して見れば、薄らと見える。


 灰色の透明なあたしが、灰色の透明な味噌汁とご飯を食べている。


 あたしは頭の中が真っ白になって、こたつを飛び出して自分の部屋に戻った。


 なんだこれ。


 なんだこれなんだこれなんだこれ。


 全然意味がわからない。何も意味がわからない。目に見える全ての意味がわからない。後ろ手で部屋の扉を閉めて、あたしはあたしの身体を見下ろす。あたしはあたしだ。灰色っぽい透明なシルエットなどでは断じて無い。手を動かす。向こう側が見えないいつも通りのあたしの手があたしの思った通りにぶんぶん動く。うん、普通。あたしは少しだけ落ち着きを取り戻す。姿見の前に移動する。覗けば、鏡は普通にあたしを映してる。うん、普通。あたしはもう少し落ち着きを取り戻す。


 そう思ったら、あたしの後ろを灰色の透明なシルエットが横切るのが鏡に映る。


 ギョッとして振り返る。灰色の透明なあたしが、着ているスウェットをぽいぽい脱ぎ始める。落ちてるスウェットも透明な灰色。足で蹴たぐられたそれ(あたしは確かにぽいぽい脱いだものを雑に蹴たぐる癖がある)を気にした様子も無く、結果的に言えばそのシルエットは制服に着替えた。さっきの、リビングで見た光景とまったく同じ様相を呈して。


 透明なあたしが部屋を出た後に、恐る恐るクローゼットを開ける。そこには当然、あたしの制服がある。透明っぽい灰色じゃない、ちゃんとした普通のあたしの制服だ。気が動転したあたしはそれに着替える。うん、灰色っぽい透明なやつじゃないから当然この制服はあたしの貧相な身体をちゃんと隠してくれる。ブラウスは普通、スカートも普通。カーディガンも普通でブレザーも普通だ。ネクタイもコートも、紺ソックスだって、マフラーさえも普通。


 全部が全部あたしの物のはずなのに、着替え終わったあたりから、あたしはここにいるのが怖くなった。


 なんか気配がしてびっくりして振り返れば、母親っぽいシルエットがいつの間にかあたしの部屋に入ってきていて、雑な動作で透明で灰色なあたしの脱ぎ散らかしたスウェットを取って部屋を出て行く。あたしには一切目もくれることもなく。


 なんなんだ一体、なんなんだこれ。


 あたしはそんなような言葉をうわ言のようにくり返しながら、混乱する頭で必要そうなものをパパッと吟味もしないで集めてスクバに詰めて、逃げるように家を飛び出した。


 家から出れば、あたしの家の前の道を、透明な灰色っぽいシルエットたちが右から左から歩いている。


 なんなんだ一体、なんなんだこれ、なんなんだ!


 あたしは人目も憚らず叫びながら駆け出した。


 透明な灰色のシルエットたちは、あたしに気付いていないみたいだった。一回だけぶつかりそうになった。でも、すり抜けた。意味がわからなかった。あたしはぶつかるだろう衝撃に身構えたまま、来たるべき衝撃が無かったことで足をもつれさせて転んだ。ずざざー。地面はちゃんと存在して、あたしの制服は砂まみれになった。よろよろと立ち上がり、周りをきょろきょろ見ながら制服に付いた砂をバンバン叩いた。透明な灰色のシルエットたちは、誰もがあたしに気付かずに通り過ぎていく。あたしは泣きたくなった。泣きたくなったというより泣いてた。だって全然意味がわからない。怖い。そう、あたしは怖かった。自分が、世界から仲間外れにされた気分だった。別にこんなことになる前だって、普通に仲間外れに近い場所にいたにも関わらず。


 そうじゃない、そういうことじゃないんだ。


 あたしは誰に言っているのかわからない言い訳みたいな言葉を、こころの中で何度も言葉にした。


 そうじゃない、そういうことじゃない。


 あたしはそれでもとぼとぼ歩いた。透明な灰色のシルエットに囲まれて。透明な灰色のシルエットたちは、皆が同じ方向に歩いていく。この道の先には駅がある。あたしは全然こんな気味の悪い葬列のイメージを具現化したみたいな連中についていきたくなんてないのに、でも目指す方向が同じだからしょうがなくこのシルエットたちの中に混ざるしかなくなる。


 右隣を歩くシルエットの左手が大袈裟に振られて、あたしのお腹のあたりを貫通してすり抜ける。


 後ろから走ってきたのだろう、やたら背の低いシルエットが、にゅっとあたしの胸あたりから生えてきて、そのまますたすたと走ってあっという間に離れていく。


 しまいには車のシルエットまで現れる。大通りを、透明な灰色の車たちがびゅんびゅん走っているし、道交法を守っている。でも、その道交法にあたしは含まれない。赤信号なのに、考え事をしていたあたしはそのまま横断歩道を渡り、自分の身体が一瞬、透明で灰色な空間に包まれたことに気付いて、ようやく赤信号だということに気付いた。その場でパニックになりかけたけど、次々に走ってくる車は一切あたしにはぶつからず、パニックになりかけた自分がバカみたいだった。信号待ちするシルエットたちは誰もあたしを引き留めたりしない。青信号になって、あたしを無視して横断歩道を前から後ろから渡っていった。この頃になると、あたしはもう考えるのもバカらしくなっていた。


 一体全体何がどうなっているのかとか、そういうことは一切わからない。


 ただ、漠然と、あたしは自分が死んだって思ったのが、本当のことだったんじゃないかと思い始めていた。


 あたしは死んだから、こうしておかしな街にいる。全然現実味の無い、生きてるんだか死んでるんだかわからない街に。ここは確かにあたしが生まれ育ったあたしの街だけど、でもあたしはこの街に独りだ。あたしだけがいない街。人間らしき存在は沢山いる。透明な灰色のシルエットたち。彼らは、よくよく観察してみれば普通に人間っぽい動きをしている。


 並んで歩くシルエットと喋ったり、ケータイを弄ったり、転び掛けたり。


 ただ、あたしが干渉出来ないだけ。ぶつからないし、意思疎通も出来ない。試しにコンビニに寄ってみたけど、レジにいる店員はあたしに気付かない。棚から持ってきたサンドイッチとかおにぎりとかジュースとか、カウンターに乗せてもまったく気付かない。透明な灰色の客が持ってきた商品だけを商品として扱う。あたしが持ってきたあたしの触れられる商品は、空気のように扱われる。もちろんあたしも同じように扱われる。いや、あたしはいないものなのだから、扱われてはいないのかもしれない。どっちでも良いと思った。そう思ったから、この商品たちを万引きしても気は咎めなかった。足の早いサンドイッチの期限を見てみれば、普通に新鮮な商品だった。もうまったく意味がわからなかった。


 あたしは死んだ。だからこの意味不明な街に紛れ込んだ。誰もがあたしをいないものとしてシカトする、あたしのよく知ってるまったく知らないこの街に。陰キャのことを思い出した。彼女もあたしにシカトされるときはこういう気分だったのだろうか。違うと思った。陰キャはあたしに触ることが出来た。触れないあたしとは決定的に違う。こんなにも惨めな気持ちなんかではなかったはずだ、と思って、触れる喋れるのにシカトされる方が惨めかもしれないとも思って、あたしにはますますわからなくなった。


 あたしはとぼとぼ歩いた。万引きした(万引きって考えると気が咎めるけど、どうやっても会計してもらえないからこうするしかなかった。小銭を置いてきた方が良かったのだろうか。彼らには認識出来ないっぽいのに?)サンドイッチをもしゃもしゃ食べながら歩いた。普通に食べ慣れたレタスサンドイッチだった。包みを持ってきたレジ袋に突っ込んで、とぼとぼ歩き続ける。あたしはとぼとぼ歩き続ける。


 あたしは駅に向かっている。毎朝週五で通るこの道を、習慣通りに。あたしだけがいない世界なのに、あたしがいた頃の世界にいたときと同じように。


 駅に着いて、それで何も変わらないことには気付いている。


 同時に、変わってほしいと願っている自分に気付く。


 あたしは、自分が舐めた考えを抱いた女子高生であることには自覚的だった。全てがくだらないって思っていた。学校も、勉強も、クラスメートも、人付き合いも。限られた青春時代なんだからと、オトナたちは口を揃えて言った。あたしにはそれが、自分が青春を謳歌出来なかった後悔を、あたしに押し付けてるようにしか思えなかった。自分が出来なかったことをあたしたちに背負わせる意味。それを指摘してやってるヤサシイオトナな自分に酔ってるとしか思えなかった。くだらない。あたしはあたしの時間を、あたしが使いたいように使う。だから勉強はほどほど。くだらない連中とはつるまない。授業料を払って貰ってるから学校には行く。それが将来必要なことの一つだってことくらいはわかってるから。本当はくだらない。くだらないことで世界は溢れている。そう考えてる井の中の蛙であるあたしが、恐らく世間一般で言う『舐めたクソガキ』であることは自分がよく知っている。だからあたしはそれを言葉にしない。誰かに言ったりなど絶対にしない。


 でも、それは強がりでしかなかったのだ。


 世界には六十億人もの人間がいるらしい。この国には一億人以上のひとがいるようだ。ということは、それだけの人間がいるなら、あたしのことを理解してくれる人間が少なくとも一人は絶対にいるという自信があった。要は、その一人に辿り着けるかどうか。その一人に辿り着けたらラッキーだと、あたしは考えていた。だから、それ以外の有象無象はゴミだと思っていた。この短い人生で、それに出会えますように。それがあたしのスタイルだった。だから、くだらなさで溢れた世界でも、あたしは生きていけたのだ。それが自分に都合の良い妄想だということには目を瞑って。あのマンガに書いてあったポエムのように、目を開けながら、叶いやしない夢を実行する夢を見ていたのだ。


 今この状況と、その都合の良い妄想は同じだ。あたしはきっと、あたしの理解者には出会えなかった。そんな人間がいないことはわかっていた。それが、こうして可視化されただけだ。あたし以外が全部透明で灰色なシルエットのこの世界は、彼らがあたしの理解者ではないことを示す立派な証拠。あたしは矛盾している。こころの底では理解者なんて絶対にいないと思いながら、それがこうして目に見える世界に紛れ込めば、こんなにも落ち込んでいる。そんな都合の良い存在なんていないって最初からわかっていたのに、なんで落ち込む必要があるの? わからない。わからないけど、現実にあたしは今、もうどうしようもなくダメだと思っている。


 駅舎が見えてくるところまで歩いてきていた。


 ホームに停まる普通の電車から、透明で灰色な電車のシルエットがスッと飛び出て走って行く。音も無く加速するそのシルエットを、あたしは呆然と眺めていた。普通の電車は停まったまま。それは、あたしが、どこにも行けないことを端的に示している。


 あたしは、ロータリーにあるベンチの一つに腰掛けた。


 もう全てがどうでも良かった。


 あ、泣きそう、と思って、慌てて目を擦った。恐る恐る顔を上げる。目の前を、透明で灰色なシルエットたちが歩いていて、彼らはあたしに気付かない。涙を留めておく意味は無かった。そう思ったら、涙が溢れてきた。嗚咽も漏れた。誰にも気付かれないまま、あたしはわんわん泣く。わんわん泣いたって、気付いてくれるひとはやっぱり誰もいないのに。


 あたしは、死んだのだ。あのバスの中で。交通事故か何かを起こしたバスが、ガードレールを突き破って崖から落ちたのだろう。びゅんびゅん景色を通り過ぎるスピードを保ったまま。最後の瞬間の浮遊感を思い出す。あたしの貧相なお腹の中にぴっちりと収まった内臓たちが、僅かな隙間の中で浮き上がるようなあの独特の気持ち悪さ。あたしは手を伸ばした。陰キャの向こうにいる明科さんに。明科さんはあたしに気付かなかった。気付いて欲しかったのだろうか、あたしは。


「明科さぁん……」


 なぜか、あたしは明科さんの名前を呼びながらわんわん泣いた。生前の最後の記憶っぽい(自分で考えてて全然意味がわからない言葉だ)映像に感化されたからだろうか。あたしには自分の行動の理由もわからない。ただ、明科さんと連呼しながら泣いた。それで何が紛れるどころか、余計に寂しくなるってわかっていながら。


 ひとしきり泣いて、カーディガンの袖でぐいぐい目元を拭って、そうして大きくため息を吐いた。


 さて、これからどうしようか、と、ようやく前向きな考


「広丘さんって私のこと好きなの?」


 隣に座ってる明科さんが、興味なさげにあたしを眺めている。


 あ、あたし今死んだ、と、あたしは思った。


 明科さんは、透明で灰色なシルエットじゃなくて、ちゃんと明科さんだった。

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