あたしと明科さんとシカトする世界

八神きみどり

どこか

その0:いつか

「人生は続いてしまうし、ひととひとは出会ってしまう。私はそれが、とても悲しいことだと思えてならない」


 明科さんが言う。


 あたしと明科さんは野ざらしのベンチに、隣り合って座っている。誰も通らない、バスも来ない寂れたバス停のベンチ。雪が降っている。あたしたちは、傘も差さずに座っている。


 あたしは今日も、明科さんの言うことが難しい。


 明科さんはいつも、あたしの知らないことを喋る。あたしはそれがとても嬉しいって思うし、それを知りたいとも思うし、そうしてくれる明科さんのことがすごく好きだとも思うけど、でも、今日の明科さんはなんだか寂しそう。


「それは悲しいことなの?」


 あたしは訊く。だって、人生と出会いを悲しいって言うひとはいない。あたしだって知ってる。それはきっと、みんなからは、希望って呼ばれてるものなんじゃないかって。


「うん」明科さんは頷く。「だって、人生が続いてしまうということは、今日も生き続けなければならないってことだよ。こんなにも生きづらい世界で。ひととひとが出会ってしまうということは、知りたくもないことを知らされたり、知らせてしまうということだよ。すごく窮屈な思いをしなきゃならない。だから、それは、とても悲しいことだよ」


 明科さんは言う。


「私たちは、独りでは生きられないと言われている。人間は社会的動物だから、集まって、それぞれが得意なことをすることで、課せられた役割を果たすことで、その社会に貢献して、不足を補い合って、ようやく生きていくことが出来るらしい。なるほどって、私は思う。確かにそれは社会だ。私たちはその社会を存続させることで、ようやく便利な暮らしをおくることが出来るらしい。その通りだ。私たちの生活を成り立たせることを目的にしたありとあらゆる職業に従事する人間が、それを達成するために働いている。なるほどなるほど。それはとても偉大なシステムだ。私たちは支え合って生きている。うんうん。じゃあどうして、システムを構成する部品である人間たちは、感情や欲望なんて持ち合わせているんだろう」


 雪は降り続く。深々と降り積もる牡丹雪。灰色の空から舞い降りる無数の白い塊たちは、あたしたちの頭に落ちて、真っ白な吐息に揺られて、そうして溶ける。


「例えばこのケータイ」明科さんはポケットからケータイを取り出す。「このケータイの部品の一つ一つがそれぞれに感情や意思を持っていたらどうなると思う?」明科さんが訊く。あたしが答える前に、明科さんは喋り始める。「液晶やボタンや電池が、今日は体調不良だって言い始めたらどうなる? 私は今誰かにメールを送りたいのに、あ行のボタンが熱と関節痛が酷いとか言い始めて、わ行のボタンが、や行のボタンが気に食わないから続け様に押されたくない、みたいなこと言い始めたら私はメールを送れなくなる。電池が、今日はやる気出ないから外れます、みたいなこと言って勝手に外れたりしたらもっと困る」


「うん」あたしもそうだと思うから頷く。


「ケータイの部品が感情や意思を持ち合わせてないから、ケータイというシステムは成り立っている。私はケータイに逆らわれずにメールを送れるし、ネットが出来る。私はケータイがこうで心底良かったと思ってる。でも、人間の社会というシステムは、人間の感情や欲望をほったらかしにしてるのに成り立っていることになっているらしい。私はそれが不思議でならない」


「なるほど」ってあたしは思うし、言ってる。


「人生が続いてしまうということは、そういう、ほったらかしになってる他人の感情や欲望に触れ続けるってこと。それはひとと出会ってしまうってこと。私たちは社会的動物らしいから、生まれた瞬間から社会って檻の中にいる。広くても狭くても、人間が集まればそれは社会。好き勝手に感情を発露して、欲望を剥き出しにして生きる他人と、常に一緒にいることを義務付けられた檻。それが人生であり、出会い」


 明科さんは遠くを見ている。灰色の空の向こう。あたしも見てみる。灰色の空と降り落ちる牡丹雪だけが、あたしの視界の中にある。


「例えば」明科さんは言う。「コンビニのレジに並んでたら横入りされた。満員電車で寄りかかってきたオバサンに舌打ちされて、誰かがスカート越しに私の尻を触った。道を歩いてたらよそ見したガキがぶつかってきて、謝りもしなかった。グループの子に、どうでも良いくだらない話を聞き逃したら怒られてジュース奢ることになった。牛丼屋の店員にスプーン頼んだらため息吐かれながら机に叩き付けられた。雨の日にスピード出した車に泥水めっちゃかけられた。テストの点数良かったのに、『そのレベルの高校なら当たり前だ』っておかんに呆れられた。いつも真面目に受けてる授業で、たまたま居眠りしてたら放課後呼び出されて『明科がしっかりしてくれないと困る』とかくどくど言われた。居酒屋のバイトで、酔っ払った客に理不尽に怒鳴られた。紹介された他校の男子と渋々一日遊んだら付き合ってることになってた。誤解を解くために嫌々もう一回会ったらビッチ呼ばわりされてそいつの飯代まで払うことになった。バレー部の助っ人頼まれて一回練習付き合ったら入部するみたいな流れになってた。断ったら私のせいでその後の大会負けたみたいなこと陰で言われてた。なんか図書委員の一人に、喋ったこともないのにめっちゃ嫌われてた。大学で勉強したいことがあって、その大学のパンフを親に見せたら『近くの短大にしろ』って言われた。できて当たり前の勉強の先は、私には必要無いみたいだった。それ以来おかんは私に小言を言うようになった。我慢の限界で家出したら捜索依頼出されてすぐに捕まった。警官の前で必死に良い親を演出するおかんに、私は怒鳴るのを堪えるのに必死だった。それでも私は、自分で死んでしまうことを選べなかった」


 明科さんは言う。


「これがたぶん、社会で生きるってこと。それが死ぬまで続いていくのが人生。ひとと出会うってことは、そういう他人の自分勝手に巻き込まれるリスクを背負うということ。それが本当に嫌だったとしても、社会が私の孤立を許さない。だって、その未熟なシステムの一部に組み込まれなければ、本当に、私は生きていけないのだから」


 それは、あたしにも覚えがあることだった。同じだと思った。あたしと明科さんは同じことを考えている。だったらあたしはそうじゃないことを明科さんにしてあげられるはずだって思ったけど、でも、あたしはバカだから、その方法がわからない。


「広丘さん」明科さんが、あたしを呼ぶ。「もし、この社会から二人で逃げられるとしたら、広丘さんならどうする?」


「逃げたい!」あたしは即答する。「明科さんと一緒なら大丈夫な気がする!」


「私は広丘さんと二人じゃ心配だな」


「あたしじゃ不安?」


「だって広丘さんめっちゃアホっぽい」


「アホっぽくない! なんであたしいきなりディスられてるの!?」


「だって私の言うことの九割わかってないでしょ、広丘さん」


「うん……。明科さん難しいことばかり言ってる」


「でも広丘さんはアホっぽいところがめっちゃかわいいんだよなぁ」


「あたし褒められてるの!? ディスられてるの!? どっち!?」


「褒めてるの」うりうりって、明科さんはあたしのほっぺをつんつん突く。あたしは明科さんの手、めっちゃ温かいって思ってる。気持ちいいって思ってる。だって、こんなに寒くて冷たくてしんどい中で、明科さんの手だけがこんなにも温かくて気持ちいいのは、これだけが本当のことだからって気がしてる。あたしはそうだと信じてる。


「ねぇ、広丘さん」明科さんは言う。「もし、もしもさ。そうだったら一緒に行こうよ、二人で」


「うん」あたしは答える。「あたしも明科さんと行きたい」


「私は知りたい。もし、もしも。この檻から逃げられて、それで二人でどこまでも行けて、私たち二人で完結して、それでも許し合うことが出来るのかを。そんな夢物語が、本当に実在するのなら――」


 雪が降っている。深々と降り積もる牡丹雪。灰色の空から舞い降りる無数の白い塊たちは、あたしたちの頭に落ちて、真っ白な吐息に揺られて、そうして溶けることなくあたしたちを覆い隠して、埋もれさせてゆく。


 灰色の空はもう見えない。深々と降り積もる牡丹雪はその塊をどんどん大きくし、あたしたちはその中で、ただ手を繋ぐ。繋いだ手の感触は、とうの昔に冷え切って、もうわからない。あたしは独りだ。ただ、それだけがわかる。あたしは、独りだ。ずっと、そうだったのだから。


 だって、あたしは知っている。


 社会って檻の中にいるからって、それはたぶん、独りじゃないってこととイコールじゃないって、ずっと昔から、あたしにはわかっていたことなのだから。


 目が覚める。


 夢を、見ていた気がする。とても大事な夢。あたしは考える。でもあたしはバカだから、考えることとか思い出すことが上手くできないから、すぐにそれをやめて、キョロキョロ自分の部屋を見渡す。うん、あたしの部屋。それがわかれば、たぶん大丈夫。それはたぶん、あたしがあたしをわかってるってこと。


 あたしは伸びをする。布団から出て、大あくびをして、一階のリビングへと降りていく。


 あたしは今見た夢を、もう忘れてる。


 思い出す必要も無いって、そう思ってる。

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