3 セシャルトリエ

 名を、夜明けの水底セシャルトリエなどと。

 そのように名付けた男を、そしてその男の望まれぬ子である我が身を、終生、厭えと。嚥下する真水の量と同じほど、あるいはそれ以上に、祇敬官どもより、言い含められて育った身である。このような結末も、相応しかろう。

「陛下のお加減は、やはりよろしくないのか」

「身の内を、病が蝕んでおりますれば。まったく、どこからこのような患いが……」

「どうもこうもなかろう。戦だ。罪人どもを征伐した時の矢傷に、毒が塗ってあったらしい」

 毒矢などと。いいや、そんなものはくらってはいない。

 左腕にうけたのは流れ矢だ。いくらなんでも、王軍へと放たれた中で、やじりに毒が塗られていたと確認できたのがその偶然の一矢だけだなどと。そんなおかしな話があるだろうか。

 矢傷は、西大陸の医学を修めたからと言って手当を申し出たカナルゼンと、そして凱旋してから王宮の侍医に見せただけだ。薬を塗られ、治療を施され。戦場の天幕で、あるいは帰り来てからの床で、考える時間と、違和感を思いだす瞬間はいくらでもあった。

 矢に毒が塗られていたわけではなく、毒は直接、傷口に塗られたのだ。

 けれども、もうまことのものごとなど、口にしようとも思わなかった。

「廃族が毒を放つか。かの家も以前は代々、神祇への奉仕に、刑罰の裁きにと、権威が大きかった。厄介ですな」

「薬毒も、人も、西大陸よりの鋼も……禁制の品の商いも、嗜んでいたと聞くが、いやはや。これほどまでに禍根を残すとは」

「治療法は、やはりないのか」

「おそらくは西大陸より来た毒ですからな。試せる術はすべて試しましたが、どうにも。大陸の医学の知識は、カナルゼン・カラフが我が国の筆頭とでもいうべきですが……カラフとはいえ王に忠誠を誓った彼にも、とんと見当がつかぬようだ」

 集った臣下たちも、そして熱に苦しんだ己でさえも、もう潮時だと内心では察している。

 だから、そろそろ覚悟を決めよ。

 どこでもいい、耳を澄ませろ。

 王の命をあきらめかけた臣たちの声など、いっそ愉快じゃあないか。

 そう、憶えておけよ。おまえは、やがてこの者たちを統べる。

「なあ、だからそうみじめななりを見せて泣くな。シュリア」

「でも……どうしてこんな。おとうさまは、なんでそんなに、落ちついていられるの」

 夕暮れ時に、臥せっていた寝台からこの広間に移りきて、もうどれほどの時間が経っただろう。

 私がなんとか座す玉座のかたわらに控えて離れない、これから起こるだろうことを察しているらしい異母妹が、しゃくりあげながら問う言葉に「どうしてもなにも」と語りかけて、考える。

 ああ、そういえばこの娘は、ずいぶんと彼女に大切にされていた。かの紅夕陽の眸の彼女は、真綿にくるむように、心地よい夢物語の皮をかぶせ、幼い娘にものごとを語っていた。

 残された時間も、どうやら短い。その技を真似てこの娘に語るなら、私の生はいったい、どのように砂糖を絡めればよいのやら。

 次第に、すべての現実がいとわしくなってくる。ならばと、高熱と微熱に交互に蝕まれた身と、荒い呼吸をもってして、私は記憶をさかのぼり。

 ただ思い浮かぶままに語っても、それでもよいかと、血迷う。

 さてどのようにあまやかに、しかしいつか気づけるように、この娘に酷薄な真実を語ろうかと。全身の増しゆく疲弊やだるさを無視し、常と同じように冷ややかに笑みを深めた。




 シュリア。おまえ、祇敬官の名を見聞きしたことはあるか。セド、アクタール。当代のうち、王宮に近しい所にいるのはそのあたりの家だな。それから?

「……カラフ」

 そう、シュリア。それだ。祇敬官カラフ。

 本家の第一のカラフレシャ=カラフから、第二トタル第三シエト、そして末席第四のカラフロダル=カラフと分家があり、これらが皆、神の名のもとに慣習を説き、政を導いて、最終的には刑罰をもれていたか。

 今のように権力を削いだ姿の一世代前、権勢を誇っていた祇敬官の大半を、つまりはカラフ一族が占めていた。廃族事件については、おまえも北東海域の祖父殿あたりに、教えられているだろ。そう、私が即位後、切った後見だ。

 ……まあ、あれらは確かに後見だったよ。

 おまえのように王妃の腹から生まれはしなかった私を、慣例の通りに王宮から引き取り、十の年までを養育したのはカラフ本家だったからな。

 しかし、奴らの語る『古き伝統』から言えば、王者は愛などという感情は持ち得ぬからして、政略や、家同士のよしみでもって結ばれた婚姻の外でされた子など、その親とともに認め難いものでしかなかった。

 奴らが語るは、朝にも夕にも、我らが父王は、「愛などという俗世の毒に狂わされたのだ」と、「王者は感情などあらわに持ち得てはならぬ」と、そればかり。もしおまえがもう五年でも早く生まれていれば、王者に必要な諸々の学問すらも身につけはできなかっただろうな。

 それほど、愛情というものを恐れよと諭すばかりだった。

 よって、八年前に父上が王妃とともに花舟流しと処され、この王国より去った時。

 私を即位させたカラフ家の祇敬官たちは、この世の春と、あるいは好機の来たりとでも思って笑んだのだろう。

 その頃から、動きは派手になってきていたはず。おかげで、こちらも動きやすくなったわけだが。

 即位後一年すらも経ぬうちに、シュリアの名を出して北東海域を守る、亡き王妃の父御――おまえの祖父殿を呼び寄せた。王軍の手綱を握らせて、カラフ第四の分家を夜陰に紛れて急襲し。家長から奥方から、使用人まで身柄を押さえ。

 簒奪計画に際しての資金稼ぎの一環か。彼らは禁制のはずの人身売買を目的に、西大陸の人買いを自邸に招き入れていた。ことがことだっただけに、あの時は私も兵を率いてもろもろの証拠を確保しに奔走する羽目になった。

 なるほど、地上でも……それに地下の部屋でも、驚くべきものばかりみつかった。資金源にする手筈、だったのだろうな。

 たとえば――そう、名すらもなく、輝石と、呼ばれるものであるとか。

 どうして熱にうかされ、情に流されて、それを王宮へまで連れ帰ったのか。今なら、少しはわかるかもしれない。

 他にも数々の証拠品と、連判状と、それに武器や毒。不穏な品がこれ以上にないほど出てきたし、北東海域の将殿もこれはまずいとでも考えたか、いたく協力的に動いてくれたのだから、後は早々にかたがついた。

 関係の家々に兵を遣り、そしておおまかにことの決着がついた時に……牢獄、流刑地、諸島王国の刑罰に関わるものごとを、慣例であるからとして一手に握っていた一族が、その権威をふるうこともなく、処断されていったのは因果とでも言うべきか。

 一族郎党の死に、急ぎ帰国してぬかづいたカナルゼンを拾ったのは、その直後だった。

 カナルゼン・カラフ。たったひとりきり、生き残ったカラフ本家の第四の息子。最後のカラフ。

 あの男なりに策略を練っていたにしても、あるいは私の側に仕えて、後の時代で古きカラフ家の再興を望んでいたにしても、それはそれでよいと思った。

 ゆえにとがめだてせずに家臣とし、彼の人脈を生かさせ、クストルとの通商の樹立だの、西大陸との商取引規制の緩和交渉だの、さまざま交渉を務めさせてみたら、いつのまにやら右腕だ、懐刀だなどと呼ばれる位置さえ占めていた。

 それ以来、水盤庭園に籠めてから持て余していた――シュリア、おまえのおかあさまの望んだものを集めさせたり、届けさせたり。

 そうして侍従のように使っても、諭すかのごとく苦笑するだけで、最後はめいのとおり動くものだから、ますますその気配は強まったよ。

 いや、ある意味では奴だけではなく私もまた、彼女が知識を望む心に従う、侍従だったのかもしれない。

 なにせサリュは、年頃の娘らしからぬものばかりを欲しがる。そしてそれらを集めるには、時に自ら足を運ぶ必要さえあった。それでも、私は彼女の望みを叶えたかった。

 海図やら史書やらの書物に、世の情勢の話がその筆頭。

 幼いころあれの母親に与えられていた品だと聞くが、それにしても妙だし、いずれも手にするには困難のある品だろう?

 いや――実際、奇妙だ。サリュは。

 けれど彼女は、私がきっと持ち得ないだろう熱を、持っているから。

 純血をうたった祇敬官たちの言葉から今とて這いだせない私とは、きっと、彼女は違うのだ。

 私と同じように、めた声に囚われたはずなのに。

 あの家で育ったというのに。

 なのに彼女は熱を、温度を、持っているから。だから私は、サリュが。




 そこまで語りかけて、やめる。

 いつのまにか、今は微熱とはいえ続く不快感がわずらわしく、おもわず声高になっていた。

 ほう、とかすれた息をつけば、じっと私の声に耳を傾けていたシュリアが、そっとその手を、だらりと下がった私の手に重ねてきた。

 臣下の一堂に会した玉座の広間はしんと静まり返り、朦朧とする意識の中で、ただ、うつむいた先に広がる、床の紋様だけがあざやかで。

「おとうさま、無理、なさらないで」

 すがるようにして、ふしくれだった指を握る小さな手に力がこめられる。

 居並ぶ臣下らは、誰も、口を開くことはない。ならばこれは――やはり、葬送の為の、集いなのだろう。

「セシャルトリエ陛下」

 三人の大臣の中でも、特に高齢の老爺が、跪き、こちらを仰いでいるらしい。

「もはや我らには、陛下の御魂を、この地に繋ぐこと、叶いませぬ」

 老臣が言うのは、なんということはない。いくら若くとも、王として為すべきことをせよという、最後の宣告だった。

「花舟流しをもってして、最後の旅路へ、お発ちなさいませ。王よ」

 シュリアの指先が震えるのが伝わってくる。力をふるって顔を上げて広間を見渡しても、右腕だ、などというのならば近くに控えるべき、カナルゼン・カラフの姿はなかった。当然ながら、どうしてかさきほどから求めてやまない、サリュの姿もない。彼女のことは、己がかの庭園に籠めた。

 つまりはそういうことなのだ。いま、リトカリタ王セシャルトリエは、『毒の矢傷』でもって、この王国から追放される。ならば――カラフの復讐は、為されたのだ。

 花舟流し。

 いずれ来たると知っていたそれを、こうして早々に言い渡されることは、存外に口惜しかった。

 それは死に際した王が、あるいは病の癒えぬ王が、五体のいずれかを損ないかけた王が、死ぬ前に、その位を……ひいてはその権威と権力と神聖性を、次代に譲り渡す儀式。そして、次代にすべてを譲り渡した王自身は、その妃と、そして幾多の花とともに小舟に乗せられ、南方の海の彼方へと追放される。

 死にゆく王は、王国に留まることゆるされずに死に処される。

 それは父王クルタトリエも、その前の王も、その先代も。リトカリタの歴代のすべての王と王妃が、統べ守った王国から与えられた最期。

 利用は、互いにしつくしたつもりだった。けれどここにきて毒を盛られたということは、利用価値がなくなったのか、はたまた。

 カラフ。最初から最後まで、ずっと、この身に寄り添い続けた名。その残滓ともいうべき者は、今この時も眼前に。

「シュリア、おまえの手で、私の髪を切りなさい。ひとすじでいい」

 観念して、朗と響き渡るように、精一杯の声で告げた。

 それが、リトカリタにおける王位継承の儀式。

 控えていた臣下のひとりが、シュリアの手にそっと短剣を握らせた。

 しかしおいで、と手招いても、その歩を進める気配はなかった。

 仕方あるまい、継嗣王女とはいえ幼い少女だ。

 それでも、為させないわけにはいかないのである。

 いやだ、いやだと怯えて泣く娘を、なだめる余力も実はそう、ない。

 高熱と微熱が交互に引かずにいるだけとはいえ、回復の気配はなく、体力も徐々に奪われているのだから。

 そうやってしばしの間、問答をしただろうか。不意に広間の扉が、正面から開け放たれた。

 もはや外は陽が落ちているらしい。

 唐突に広間へ入ってきた身長差のあるふたりのうち、ひとりは常のように厚手の布で全身を覆うように隠してはいない。

「久しぶりね、セシャ」

 唯一、私が水盤庭園に立ち入ることを許していたカナルゼン・カラフにその手をひかれ、私を父と呼ぶのとおなじように、シュリアが母と呼んだ娘が、この場に姿を現したのだった。

「戦に出る前に、会って、それ以来か」

 家臣たちの奇異の目にも、カナルゼンを睨むように見据えようとする私の視線にも、躊躇せずにサリュは歩を進め。そして玉座のほど近くまで来る前に、今度はシュリアが、私のかたわらから彼女の方へと飛び出した。

「おかあさま、お願い、おとうさまのこと助けて!」

 娘を抱きとめ、なにごとか、サリュは言葉をささやいて。

 そうして、じわりと涙をあふれさせた少女の手に、紫色の輝石の嵌めこまれた装身具をそっと握らせる様子だけが、やけにはっきりと見えた。

「……やはり、ことの後ろにはおまえがいたのだな。最後の第四のカラフロダル=カラフ

 いたみをもたらした者を傷つけるように、しかし暴くことにはならないように、私はそっと、弱ったように笑みを浮かべる。

 ふたりの少女の側で、戸惑う家臣たちを制するかのように立っていたカラフ家の四男が、きつく、口元を引き結んだ。

「シュリア、王位の継承を」

 呼ばわり。そしてつよい意志で持ってこちらを見つめる、今まで掌中に籠め続けてきたひとに、私は王としての、あるいは褪め冷えたカラフの家で熱を見出したがったセシャルトリエとしての、最後の言葉を告げた。

「花舟流しの随伴を、願おう。最期のいっときだけとはいえ、おまえを王妃に迎えよう。妃のひとりも伴わぬ王など、ひとりとして居はしなかったのだから。……それで、いいだろ? サリュ」




「その時が、最期となりました」

 そしてイシュリシアはゆっくりと、語り口を閉ざした。

「わたくしは、ふたりのこれ以上を知ることは、とうとう叶いませんでした。真夜中をだいぶ過ぎた頃、用意されていた船はすばやく海に出され、同時にわたくしは女王となった」

 それでも、知りえぬ最後の旅路は、もはやだれかが語ることなくとも。

 ふたりの辿りついた海の果ての彼岸に、確かに眠り、寄り添うのだろう。

「これはあくまでも、わたくしの問わず語り。なればこそ、ライゼ様。こんなにも未練がましいほど、何の覚悟もなく冠を戴いたわたくし以上に――あなたはもういない誰かではなく、今、どこかに生きる誰かを思える王となりましょう。不安に思うことだって、恥じることはないのです」

 ライゼは、ゆっくりと一度、またたく。その変貌を見届けながら。締めくくったイシュリシアの手の中で、名もなき紫の輝石の額飾がきらめいた。

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