2 イシュリシア
その昔。わたくしは、王様の目を盗んでおかあさまの庭園へと訪う日々を、なによりもいつくしんでおりました。
当時リトカリタを統治していたのは、年の離れた
名を、セシャルトリエ。紫の
すべては、わたくしがまだちいさな少女であった時分のことです。正式な名前はまだもたず、ただ真昼の水面とだけの意味であるシュリアという幼名で、わたくしを呼ぶひとは、ただ三人。
ひとりは私を産んだ先代王妃の父であったひと。
わたくしが即位した時の為にと盤石な地位を求める一族の統領でしたが、彼自身は東と北の海を守護する将軍でありましたので、シュリア様と我が名を呼べども、
もうひとりは、異母兄であり養父であった先王陛下。
クルタトリエ王が退位した当時、権勢をふるっていた祇敬官がわたくしの即位までの中継ぎにとしてなかば傀儡のように王位につけたようなものでしたので、わたくしはながく、セシャルトリエ王――おとうさまから疎まれていたと信じていました。
ですがおとうさまがその祇敬官の一族を、王位簒奪画策の罪で多く排斥してからの、たった十年にも満たぬ間。
今にして思えばその日々こそが、わたくしたちが感情の糸を絡ませながらもさいわいを得た、最後の安息の日々であったのです。
その安息を語るに欠かせない、さいごのひとりは……なんと申したらよいのでしょう。わたくしはとうとう、かの方との間に
たったひとつの彼女の名を、サリュ。
古い言葉で輝石との意の、簡素な名だけを持っていたその少女は、わたくしが七つ、彼女が十六を数えた春の夜を最後に別れてしまった、わたくしのおかあさま。
……いいえ、彼女を母と慕えども、わたくしたちの間に、血の繋がりがあるわけではないのです。彼女はわたくしを産んだ人ではありませんでしたが、それでも、わたくしは確かに、その頃からサリュを母とも、あるいは姉とも慕っていたのでした。
そう、サリュこそが、この額飾をわたくしに贈ってくれた人。
サリュが――おかあさまが、どうしておとうさまの宮殿の奥、水盤庭園との名でふるくからしつらえられた離宮に、ひとり籠められていたのか。わたくしがすべての真相を知ったのは、ふたりと今生の別れを経た、その何年も後のことでした。
ですから、こうして語るものごとのはじまりは、わたくしがまだ四つか、五つか、そのくらいだったかしら。生まれた時から暮らしていた
「ごきげんよう、シュリア。おいで、お茶も淹れてあるから」
そうして跪くこともなく、ただ膝をかがめて視線を合わせてわたくしの名を尋ねてきた彼女に、心を奪われて以来と言うべきでしょう。
わたくしが水盤庭園を訪って、そっと窓辺を指先でたたくたび、笑んで出迎えてくれるひとの前でだけは……わたくしは、小さな子供でいられたのです。
生まれながらに、月下の
わたくしはそんな薄明りのたもとで、籠められた娘というわりには驚くほどに博識だった彼女とたくさんのお話をして、さまざまなことを教えてもらったのです。
顔も知らぬ生母以上に、サリュを姉とも母とも慕った日々が、『継嗣王女殿下』ばかりに跪いて、『シュリア』の言葉など聞いてはくれない王宮で生きるなかで、どれだけ輝いていたことか。わたくしをわたくしたらしめる記憶は、女王と名乗った今もなお、いいえ、この先も生涯忘れることはないでしょう。
なにせ、おとうさまは誰かがおかあさまを訪うことを、決して許さなかったからです。それほど厳しくおかあさまの存在をあかさず、宮殿の奥深くに隠し籠め、側仕えのひとりもつけることはなく、必要なものごとを
わたくしが生まれて間もなくの頃、実父クルタトリエは病により
それは夜半を過ぎた頃、時折におとうさまが、ひとりおかあさまを訪っていたからだと。
そんな理由をある夕に知ったことが、わたくしがふたりを、父と、母と慕い、またそう呼ぶようになった契機でした。
わたくしが、水盤庭園の離宮に、大切にしていた髪飾りを忘れ。そうして心細く、送り出された場所へ駆け戻った夕、陽の落ちかけた庭園で垣間見たのは、厚い肩掛けをヴェールのように
思いもよらなかった人の姿に、呆然と立ちすくむわたくしに気づいた彼の方からすれば、遭遇は望ましくはなかったのかもしれません。
おとうさまはおかあさまの肩を抱いて強引に離宮の内へ身を入らせ。
誰もいなくなった庭園には、どうしてか留まってはいけない気がして、髪飾りの事も忘れて足早に継嗣宮へと帰ったことは、今でもよく憶えております。
「あれは、シュリアがここに来るのを許せと言ったけれど。それで、シュリアはどうなの」
おとうさまが夕暮れよりも前に水盤庭園を訪って、そのように告げたのは、その次の日のこと。
「サリュは、わたくしのおねえさまよ。わたくしのこと、大好きよって、言ってくれるわ」
「……そう思うならあれのことを、姉だなんて呼ぶのは、やめな。名前で呼ぶのも許さない」
「……嫌よ。わたくし、サリュのこと大好きだもの。それにサリュのこと誰にも言っていないわ。だから、サリュに会いにくるの、わたくしだけなの。わたくしがサリュの名前を呼ばなくなったら、わたくしもサリュも、誰にも名前、呼ばれなくなっちゃう。いくらおとうさまが閉じ込めているからって、そんなの絶対に嫌よ!」
わたくしはその時、怯えながらも必死だったのです。
なにせ、宮殿でたったひとり、しあわせをくれた人なのです。おとうさまに刃向うようにすら、言葉を紡ぎました。
しばらくの沈黙の後、おとうさまは不機嫌そうに、おおきく息を吐いてわたくしへ言ったのです。
「おまえが私の娘だなどといって、不満を振りかざして噛みつくのなら……あれの、サリュのことは、母とでも呼べばいい。代わりに、私が名を呼ぶから」
わたくしが、家名もなくして、おとうさまに籠め隠されていたサリュを。母と呼んだのは、それからでした。
ただ、両親と娘。そんな家族の形ができたように錯覚し、離宮へ駆け入った心中を満たした暖かさを隠さずに、わたくしがおかあさまと呼ぶことになったひとへと抱きついた時、確かにわたくしはしあわせを手に入れたのです。
もちろんその時ふたりは、夫婦であったわけではないのです。
籠める者と籠められる者。彼らは、最後の一瞬を除いては、終生そのような関係でしかなかった。
ですけれども、互いに気にかけてはいたようですね。いつだって、誰にだってきつく冷たい表情しか向けないおとうさまが、弱ったように笑いかけたのは、後にも先にも、おかあさまに対してだけでしたし、感情をあらわしているのを見たのも、水盤庭園においてのみでした。
けれどもそのようなさいわいの日々は、その後、片手の指ほどの年月も続きはしなかったのです。
影で傀儡王と称されたおとうさまが、即位して間もない頃に、王位簒奪を企てた時の後見、祇敬官カラフ一族に反旗を翻し、一族もろとも廃した当時。
計画に関わった可能性のある者たち、特にカラフの本家ならびに分家に連なる者たちは、家長のことごとくが首を落とされ、また近縁は罪人の烙印を額に刻まれ、国外へと追放。そして一族は連座で西海の孤島へ流刑と処されていました。
それは厳しい処罰となったと、当時読み書きもままならない年頃だったわたくしとて、話には聞いていました。
ですから、その報せを聞いた時、納得もまたいったのです。
曰く、カラフ廃族事件の残党、西海流刑島にて蜂起せり。
かくて戦支度を整えた王軍は、カラフ本家の四男であったものの、当時隣国クストルの重鎮のもとで養育されていたため連座を免れたカナルゼン・カラフ。その温情から少年王に篤き忠誠を誓った若い家臣を副将とし、リトカリタ王セシャルトリエの名のもとに親征を行いました。
そう、数えてみればおとうさまが十七、おかあさまが十六。そしてわたくしが七の齢を迎え、そしてこの身が女王として即位する、わずか二月前の晩冬のことでした。
「西海鎮守征、というと。それではセシャルトリエ陛下は」
「ええ。……それが、
それがわたくしたちの運命の分かれ目でした、と。口ずさみながら脳裏によみがえる、懐かしいひとの記憶に、イシュリシアはライゼへ語る言葉へ、よりいっそうの感情を籠めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます