亡き王、あなたと夜明けに臨む
篠崎琴子
1 ライゼ・ルタ・クーリフ
王権がまったき形で甦るまで、のこされた時間はもう、わずかだった。
クストル国王戴冠の儀式、王位継承典礼の準備に追われてあわただしい王城へ、異国人の王太子妃イシュリシアが到着したのは、もう幾日も前のことだ。
しかしながら、ながらく王城を空けていた彼女は到着後、その身があく暇などなかった。式典の衣装合わせに、変更が出た予定の調整に、そして王太子即位の後を見越したいくつかの取り決めの最後の確認にと、故国から伴ってきた臣下団を率い、多忙の日々を極めていた。
三日後にはその頭上に王冠を戴くことと定められている少年が、実に半年ぶりに年上の妻とまみえた午後。ふたりがそれぞれに座した客間の窓辺からさしこむ光はやわく、硝子越しに垣間見える庭は、しなやかな雨に満ちていた。
「ほんとうは、もっと早くの入国がかなえばよかったのですけれど」
腰まで波打つ長い黒髪をすくい、両の耳元からきちりと結いあげた少女は、落ちついた声音でそう微笑した。困ったようにほそめられた眸の紫が、わずかに焦げたなめらかな肌の色に似合いだ。
「いいえ。大丈夫、です。あなたには、あなたの
「そう遠くはありませんでしたよ、ライゼ様。波風が、私たちに味方してくれました」
「あなたは、変わらず神にあいされておいでだ」
世辞めいたところなく、王太子が安らいだ笑みを返す。少々日に焼けている乳色の肌は、いささか丁寧すぎる言葉を交わしあう彼の妻とは、その色合いを異にしていた。
クストル王太子ライゼ・ルタ・クーリフが、いとけないとしか称せぬ時分に娶ったのは、異国の女であった。それも女王である。西大陸の端にしがみついた小国と揶揄されるクストル王国とは、海を隔てた隣国――諸島王国リトカリタの、たったひとりの女主人。名をイシュリシア。諸島王国の伝統に倣い、生来、生涯、家名は持たぬ。即位したばかりだった当時、
当然、白い結婚である。それゆえか、あるいは夫妻といえども、普段から海を隔ててそれぞれの故国に暮らし、まみえることも年に数えるほどであるからか。もう八年もの時間を夫婦として生きてきたというのに、ライゼがイシュリシアにおぼえるのは、親しみよりも淡々と落ちつききった、他国の女王に対する敬慕であった。
その女王に、つりあう身分と称号を。ようやく、彼は得ようとしている。
今とて、ふたりのかたわらにはそれぞれ家臣が控えているが、即位の後に彼らが新王に向ける目は、自然、厳しいものとなるだろう。そこに、いまだ十二という王者の
わずかにあおざめた少年に、イシュリシアが「ご不調ですか」と尋ねた。
「医師を呼びましょうか……でも、それだと大事になってしまうかしら」
彼女のいたわりは、あきらかに本心からとわかるものだった。背中越しに侍従が案じてくる気配を察してとっさに伏せた、ライゼ焦げた茶色の
「わたくしの家臣は、医術も修めております。多少でもお役にたてるかと――カナルゼン・カラフ」
さいごの一言は、少し視線をずらして、側近くに控える従者へと発せられた。彼女の即位当時からその右腕として、クストル王国にも折々に姿を見せている、若い長身の男だ。
イシュリシアが呼んだとおり、名をカナルゼン・カラフ。彼以外にそう名乗る者を見ない、珍しい家名を持つ女王側近の文官。
聞けば、年少の時分をながくこのクストル王国の名家に預けられ、種々の学問に励んでいたらしい。長じて後は、当時リトカリタを統べていた王に忠誠を誓い。クストルのみならず、西大陸の国々との通商を本格的に樹立させたその先王亡き後も、
カナルゼンはつまり、亡き先代王の側近が、そのまま次王を後見として支えるというリトカリタ独特の慣習を体現する、いうなれば若年の統治者の摂政にも似た立場の者であった。
「いえ」
ゆえに反射的に、ライゼは己の不調を否定する。一歩さがり控えていた件の文官が、礼節にのっとり伏せていた視線を、イシュリシアの
先王崩御後ながく、ライゼの母が摂政王妃として国を統治してきた王国クストルにおいて、摂政の意味は否応なく重い。自国とリトカリタでは、その摂政の意味も違うことはわかっていながら、すこしばかり、あわててすらいた。
「その、緊張しているだけなのです。王位継承は僕の国にとっても、あなたの国にとっても、大切な節目となるものですから」
妻の臣でありながらも、彼は他国の権威者である。そうやすやすと使うのは、気がひける。ライゼは膝の上で、ぎゅっとこぶしを握った。
臣下をふたたび自身の側に身を控えさせるかたわら、イシュリシアはかるく瞬くと、すこしだけ間をおいて、わずかに表情を変える。そして両の手指を、ゆっくりと膝上で組んだ。いたましげな、誰かを懐かしむような。窓の外に降りつづける、雨音に似合いと言えるような仕草だった。
「ライゼ様は、即位を不安に?」
「……その、やはり心穏やかであるとは、言えません」
自信があるとは言えないと。そう認めることははばかられたが、他国の女王でありながらも、常々、己の妻としても在ろうとしてくれているイシュリシアの誠意に報えたらと、少年は反射的に答えた。
息子を産み落としてそう経たぬうちに、直系の姫君の婿として王位を継いでいた夫を看取り、先生代の王女として、先代の王妃として、そして生まれたばかりの王太子の生母としてとして国をまとめあげ。惑乱期の西大陸において、既に亡き彼女の父と夫に代わり、未だ幼い息子の名代として己が民を守り抜いた、ライゼ・ルタ・クーリフの偉大な母。数々の政治的な思惑だけを重視せず、自身も正真の王統でありながら、息子の為にと座さずして王座をあたため続けた、先代王妃。いったいライゼは彼女に託されるもののどれほどを、とりこぼさずに受け継げるだろうか。
「王権を抱く意味を考えず、微塵のためらいも覚悟もなく冠を戴く者のもとで、いったいどれほどの人々が安寧をうたえるでしょうか」
イシュリシアは、口元をきつく結んだライゼへと、ゆっくりとささやいた。
そうして「カラフ」と、再び臣下を呼ぶ。側近は心得ていたように、侍女から小さな宝石箱を受け取り、女王へ差し出した。真珠のあしらわれた黒檀のそれを、彼はイシュリシアの傍らの小机へ丁寧に置く。カナルゼンが名残惜しげに宝石箱から指先をはなして、もとの位置に身を引いたのを見届けると、イシュリシアは宝石箱を丁寧に、己の膝元に置いた。
なにごとかと少年が視線をあげれば、少女の紫の双眸は、まっすぐに彼を見つめている。
「ライゼ様。お願いがございます」
その声の強さにおもわず、ライゼが言葉に窮すると、イシュリシアは宝石箱の蓋をひらいて、その中身を明らかにした。絹の台座の上に横たわるのは、華奢な銀製の
「イシュリシア様、それは?」
「わたくしの、持参石です」
ライゼが尋ねると、イシュリシアはかるく、紫色の輝石を指先でしめす。
持参石。諸島王国リトカリタにおいて、母が嫁ぎゆく娘の為に用意し、そして娘自身もまた母になった時に、己の娘へ贈る品。普通は宝飾品に加工して、もっとも華やかに嫁ぎゆく女を飾るものであると、ライゼも以前に聞いたことがあった。
花の象られたその飾りは、確かに焦げた南方人の肌にも似合いだろう。けれど、これが女王の持参石であるというには、ずいぶんと寂しい細工であったし、また石自体も見慣れぬ淡さの紫である。
「この飾りを、王位継承典礼の披露目にて身につけたく思うのです。もちろん、見目の寂しくならないよう、他の宝飾を工夫します」
「こちらで用意した品は、ご不満でしたか」
王位継承典礼は、通常、大衆には秘されて執り行われる。その後の披露目は対するように、新王自ら、妃を伴って民衆の前に姿を見せるのだ。
その折に身に着けるべき服飾は既に決まってはいたが、確かイシュリシアのそれは、白いレースのヴェールととりどりの宝石をあしらった花冠で頭上を覆う手筈だったか。
「いいえ、そんなことは。素晴らしいものばかりでした」
けれど、と。イシュリシアは、少しばかり声をとどめてから、言葉を繋げた。
「この石は、ながく人に見せずにまいりました。わたくしと、亡きおかあさまだけの宝物でした。それでも、今となってはそう頑なにしがみついてもいられない。ならば、この機会にこの石を、陽のもとに明かせればと思ったのです。――王位継承典礼が終わりましたら、その瞬間からわたくしは、正式にあなたの妻となるのですから」
今度は、ライゼが呼気をつめる番だった。
確かに、彼が王として即位すれば書類上に留まる婚姻は、取り交わされた白い結婚の契約は終わる。事実はどうであれ、名実ともにイシュリシアはライゼの妻となる。少なくともそうみなされる。
「いうなればこれは、わたくしの、我儘なのです。すぐに答えをとは申しません。それにね、このお願いをしようとあなたを訪ったけれど。今日ライゼ様にお会いできて、ほんとうによかったわ」
なぜ、いまさらになっての我儘なのか。それに今日の対話に、どうしてこんなにもこだわるのか。怪訝そうに瞬いたライゼへ、イシュリシアは
「ライゼ・ルタ・クーリフ様。昔の話を、聴いてはいただけませんか。わたくしの大切な人たちが、もういない人たちが、小さなシュリアへ遺してくれた思い出を。語らせては、もらえませんか」
あまりにも真摯な彼女の言葉に、しばしの後にライゼは頷く。
どうやら、女王の予定外の独断であるらしかった。リトカリタの臣カナルゼンが、礼節も忘れ驚いたように顔を上げる。
常より表情の薄いと聞く彼にしては珍しいが、イシュリシアの昔話とはそれほどのものなのだろうか。即位を控えた幼王太子は、妻の語る優しい声に、興味深く耳を傾けた。
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