晩夏──⑥
なにがいけなかったのだろう。
どうすれば彼を説き伏せられたのだろう。
なぜわたしはこんなにも頭が悪いのだろう。
エコは中央市場からの帰り道、悶々と自問自答を繰り返していた。
三日月はついにエコの言葉に折れてはくれなかった。彼も生活がかかっているのだろうし、人間との取引をおいそれと反故にできないことはエコにもわかっている。しかし、人間たちに迷惑をかけてまで、どうしてあんなにも金を欲しがるのか。
エコにとって金とは、最低限度の生活ができればそれでよい、多くても少なくても構わない、その程度の存在であった。だからこそ、金銭にこだわりを持つ人間やケダモノの価値観を理解できずにいた。
さきほどまで紫色の空を覆っていた霧はすっかりと晴れ、西の山脈に夕日が暮れようとしていた。気だるさを感じる暑さがマリアヴェルを包み、野道に咲く蓮華はすでに花弁を散らせ始めていた。この街に本格的な夏が訪れようとしているようだった。
ふと、翼の羽ばたく音が聞こえたかと思うと、エコの眼前に漆黒のドレスをまとった美女が、険しい顔つきのまま背中の飛翼を翻して夕闇の空から舞い降りてきた。
リィラ・カルマールだった。
エコは息を飲むと、すぐに彼女に対して頭を下げた。リィラは教会でメーチェに脅かされたのだ。事情はどうあれ謝らなければならなかった。
「リィラさん、申し訳ありませんでした」
「悪かった!」
アルトとソプラノの声が絶妙に重なり、葡萄色の空に反響した。
エコが顔を上げると、リィラもまたエコに対して下げた頭を持ち上げるところであった。
「え? え? あれ? どうしてリィラさんが謝るんですか」
「きみに悪いことをしたからさ。留守のあいだに勝手に家へ入って悪かった」
どうやらリィラは本気で謝罪をしているようだった。彼女が深く腰を曲げた拍子に、腰まで伸びたブロンドがドレスの肩から夕日を弾きつつ流れていく。
完全に出鼻をくじかれたエコは、あたふたしながら首を横に振った。
「いえ、その、リィラさんが謝られるようなことは……教会はいつなんどきでも民のために開かれている場所ですし、リィラさんに非はまったくありませんよ。それよりこちらのほうこそ」
うちの子が……といいかけて、さてどのようにメーチェについて説明すべきかエコは迷った。まさか「人間の幽霊をかくまっていて」などと真実を打ち明けるわけにもいかないし、かといって適当なウソをついて場を切り抜けるような器用な真似がエコにできるはずもない。ましてやエコの宗教では偽証は罪とされているのだ。
さてどうしようかと五秒間ほどエコが押し黙っていると、不意にリィラが冗談めかして笑いかけてきた。
「まあ、怒ってないならよかった。きみ、難しい顔をしてたから、相当に頭にきているのかと思ってさ」
「いえ、わたしは怒ってなんて……」
エコは話題を変えようと思い、
「そうだ。先日リィラさんとお約束した植物──オナモミでしたっけ。たくさん種子を収穫できそうですので、後日にお引渡ししますね」
「おっ本当かい、そいつをきけてよかった。あの種だけど、もう残り少ないみたいでさ。繁殖に成功したことをきいたらあの研究者も喜ぶだろうさ。追加の報酬に関しては後日また改めてということで……それはそうとシスター・エコ。次の仕事のオファーを持ってきたんだけど、引き受けるつもりはないかい」
「次の仕事……ですか。また絶滅危惧種の育成でしょうか。それでしたら喜んで」
「いや、ちょっと……というかだいぶ違うのよ。きみはワサビって知ってるかな」
また妙な名前が出てきた。
ワサビ。
きいたことがある。娯楽の少ないケダモノシティにおいて料理は日常的に営める楽しみのひとつであるため、エコもワサビに関しては少しばかり知識があった。
「たしか、高価な調味料のひとつにそんな名前のものがあったような……」
「そうそれ。そのワサビなんだけど、たしか教会の裏手に小川が流れてたよね」
「ええ。西地区の上流から湧き出た岩清水が教会の敷地まで流れてきています。飲料水としても利用できますけれど、それがなにか?」
「そこでワサビを育てるっていうのはできるかな」
唐突な提案にエコは面食らった。
「あの……どうしてわたしがワサビを育てる必要があるのか、うかがってもよろしいですか」
「ワサビは高級品であると同時に、綺麗な水源のある土地でしか育てられない。希少な調味料を大金積んでも欲しがる好事家はどこにでもいるからね。大昔の人間たちのキャラバンも似たようなことをしていたらしいわよ。当時は黒胡椒だったそうだけど」
その言葉をきいたエコの胸に重い雨雲が垂れこめた。
また金の話か。エコは、いい加減、うんざりしかけていた。
エコは、薮から棒にこういった。
「リィラさんも、お金が好きなんですか?」
「あん? どういう意味」
「いえ、ここ最近、金銭に関わる会話ばかりしているような気がしますので」
「ん~。そうねぇ……っていうか、リィラさん〝も〟ってのが気になるんだけど……まあいいか」
リィラは深紅の瞳を細めて、じっとエコの大きな眼を見つめた。返答を間違えたら仕事を引き受けてもらえないかもしれないと悟ったのかもしれない。リィラは、彼女にしては真摯な口調で言葉を紡いた。
「そりゃ金はだれだって必要だろう。欲しいものを買うためには、どうしてもお金が必要になるからね」
「リィラさんの欲しいものってなんですか」
切り込むようなエコの質問に、珍しくリィラが口を閉ざした。が、一瞬のことであった。
「きみになら話してもいいかな。とあるジャンルの本と、映画のデータが欲しいのさ。それを読むのを密かな楽しみにしててね」
「本と映画、ですか。どんな内容ですか」
と素直に問いただすあたり、エコはやはりあまり知恵が回らないタイプのケダモノなのかもしれない。サキュバスが欲しがる本や映画など推して知るべし、と他のケダモノであれば考えるであろう。
しかし、リィラは極めて真面目な面持ちで、こういった。
「恋愛ものよ。とくに純愛ものを好んでいるの」
「恋愛もの、ですか……え? 恋愛もの?」
「シスター・エコ。きみは、恋をしたことがある?」
「恋って、恋、ですか。いえ、わたしはまったく……」
「あたしも、ない」
そういってリィラは肩をすくめてみせた。エコにとってはかなり意外な答えであった。
「リィラさんほどの器量をお持ちのかたなら、男性にはまったく不自由していないのでは? 図書館にもたくさんの男性が訪れているようですし、好みのタイプの殿方はいらっしゃらないのですか」
「うーん。なんていえばいいのかしらねぇ」
リィラは少しだけ言葉に詰まったのち、肩にかかるブロンドを手のひらですくいつつ語りだした。
「サキュバスにとって男っていう存在は宿主であり、ボディーガードであり、餌であり、パートナーなのよ。生後すぐに男を悦ばせることを本能的に経験し、他のメスを寄せつけない術を学ぶの。そうやって男の機嫌を取り、気に入られることで自分を守ってもらうわけね。おかげで他の弱いケダモノやメスからは売女呼ばわりされたり寄生虫扱いされたりするんだけれど、まあそれは置いておいて……ねえ、ちょっと話が長くなりそうだから、どこか休めるところへ移動しない?」
リィラに諭されて気づくと、もはや夕暮れ時というにも遅すぎるような時間帯になっていた。雲の切れ間から月明かりが煌々と夏の街を照らしている。人間が去ってからマリアヴェルには電気が通っていないため、夜は突き抜けるように澄み渡っている。人工の灯りが途絶えた小さな世界では夜空の星の輝きが美しさを主張し、地面の照り返しによって十分な明るさを保っていた。
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