晩夏──⑤

 血の雨が降りそうなほど真っ赤な夕焼けに支配された空の下で、商売に勤しんでいた中央広場のケダモノたちは店じまいの準備を始めていた。

 銀色の月が東の空から登りつつあった。昼過ぎに降った小雨が霧となって立ち上り、小さな世界を白乳色で覆っている。

 中央市場のバラック小屋のひとつである虎屋の軒先に、狐人の三日月の姿があった。彼は金色の毛が生えた短い指を忙しなく動かしてソロバンを弾いていた。三日月の周囲では黒い小人のような影がちょこまかと走り回っており、物品を並べたり運んだりしている。どうやら低額で雇っている丁稚かなにからしい。

 そんな彼のもとへ、ゆっくりとした足取りでエコ・ランチェスターが訪れた。普段、彼女がこの市場を訪れる際にはなにかしらの物品を持ち込んで金品へと変えていったり、日用品を買い込んでいったりする。しかし、いまはそういった気配はなかった。

 三日月は肉食系ケダモノ特有の鋭い瞳をさらに細め、予期せぬ来訪者を見つめた。

「ああ、ランチェスターさんかい。こんな時間に訪れてくるとは珍しいね。なにか用事かい」

 金色の毛並みを持つ狐人は、先日注文しておいた例の花をエコが持参していないことを見抜いたらしいが、それを表情に出さずに淡々と尋ねてきた。

 エコは深呼吸をしつつ話を切り出した。

「先日、三日月さんからお預かりした種子を教会の庭で育成しました」

「ほう。塩梅はどうだったかな」

「よく育ちましたよ。どうやらマリアヴェルの気候と風土があの植物と適合したようです」

「それはなにより。それで、いつごろあの花を持ってきてくれる予定かな。ああ、急がなくていい。あんたにはあんたの都合があるだろうからね。暇ができたときで……」

 エコは三日月の言葉をどこか哀しげな面持ちで受け流し、修道服のポケットにしまっておいた小瓶を取り出した。小瓶の中には、三日月から手渡された種が、元と同じ数だけ詰まっていた。

「これをお返しします」

「……? どういうことかな」

「わたしは、その植物の花をあなたにお渡しすることはできません。あの植物はすべて腐れ穴で処分しました」

「……おいおい、そりゃまたどうして」

 エコは小瓶を三日月へ手渡しつつ、ひたいに手を当てて告げた。

「これは、ケシですね。人間の世界では麻薬の一種として高額で取引されている植物ですよね。植物図鑑で調べましたから間違いありません」

「…………」

 三日月の瞳に動揺の色はうかがえなかった。

「そうそう、そういえばそんな名前だったかな、俺の母が好きだった花の名前は」

「三日月さん。どういうおつもりですか。どうしてわたしに、あの植物を育てさせようとしたのです」

「説明したろう。あれは母の命日に墓へ備える花だと」

「……あれからずっと考えていたんです。わたし、あなたのお母さんを食べた記憶も、埋葬した記憶もありません。三日月さんのお母上はどちらのお墓でお眠りなんですか」

「国外さ。母はマリアヴェルの外で亡くなり、国外に葬られたんだ。だから墓はここにはない」

「その土地の名前をお聞きしても」

「なあ、ランチェスターさん」

 三日月の口調は、聞き分けのない子供をあやすようなものだった。

「たしかにその花はケシだ。人間たちのあいだで高値で取引されているし、精製すれば麻薬になる成分が含まれているね。だがそれとはなんの関係もなく、俺の母はその花が好きだったし、俺はケシを母の墓前へ供えてやりたい。それのどこが悪いというのかね」

「この花はっ」

 エコは珍しく声を荒らげた。

「……この花は、人間社会で育てると厳しく罰せられます。それほど危険で違法な植物だと本に書いてありました。あなたはそれをご存知の上で、わたしにケシを栽培させたのですか。わたしは、それを知りたいのです」

「ほう、そうだったのかい。だが、マリアヴェルは治外法権の街だ。人間社会の法律の及ばない土地なのだから、なにをしようと違法にはならないさ。あんたも俺も清廉潔白。無実の身だよ」

「……違法でなくても、罪は罪です」

「神職者の考えることはわからないねぇ」

 三日月は深くタバコを吸い込んだ。その口元にはなにかを面白がるような笑みが浮かんでいる。

「それで、あんたは約束を違えるというのかね。『三日月の母が好きだった花を育てる』なんていう出来もしない約束をしたと」

「わたしは、この種の正体を知りませんでした──あれはアンフェアな約束です。知っていれば、わたしはその種を育てることはありませんでした。ですから、あの約束は破棄します」

「約束を破るっていうのは神に背く罪のひとつだったと記憶しているがねぇ。そうかい、そりゃ残念だ。俺の母も悲しむだろうなぁ」

 毒にまみれた言葉を受けてエコが押し黙っていると、三日月がくくくと喉の奥で笑い声をたてた。

「なんてね。いやぁ失敬。あんたの反応が初々しいんでからかっただけさ。あんたの見立てはほとんど正解だよ。俺の母親がケシの花を好きだったことはウソじゃない。しかしあんたから受け取るはずだった花の大半は横流しする予定だったんだ。マリアヴェルの正門からキャラバンに運んでもらうつもりだったんだよ」

 いままで以上に饒舌になった三日月の様子を見ながら、エコは言葉を失っていた。

 彼は、わたしに、ウソをついていたということか。ウソをついて、麻薬の原料となる花を栽培させようとしていたというのか──いや、ウソではない。騙しているわけではなく、黙っていただけなのだ。でも……。

「つい最近のことだが、人間とのあいだにようやく売買契約のパイプを作れてね。食料品などの商品を取引していたら、麻薬も取り扱ってみないかと持ちかけられて、先日ついにケシの花を売りさばくためのルートを確保できたところなのさ。これでまた大金が俺の懐に転がり込んでくるという寸法だ。それにしてもまだ麻薬などという前時代的なものが幅をきかせているのは助かるね。おかげでケダモノにも裕福になるチャンスがあるというものだから」

「三日月さん。あなたは……あなたは、売りさばいたケシがどのようなことに使われるのか。それを使った人間がどうなるのか、ご存知ではないのですか」

 エコは小学校の授業で教わった。

 麻薬や覚せい剤といったドラッグが使用した人間の人生をいかに狂わせるか、いまでも鮮明に思い出せる。歯が抜け落ち、視点が定まらず、ベッドに縛りつけられて暴れる人間性を失った未成年の患者の姿。

「もちろん知っているさ。ただね、それと天秤にかけても圧倒的に利益のほうが上回るんだなぁこれが。なにせ、あんたに渡した種がすべて売りさばければ、あんたに渡している報酬の半年分の金が得られる予定なんだから」

「半年……分」

「半年分のお金が入手できたなら自由になる時間も増えるだろう。あんたも本業である聖職に本腰を入れることができるんじゃないかね」

 詭弁である。彼はエコの厚意につけこんで、無料でケシを育てさせようとしたのだ。三日月は、エコに報酬を渡すつもりなどなかったに違いない。

 いや、エコにとっては報酬などどうでもよかった。

 深呼吸をして気持ちを落ち着けようと努めるエコに対して、三日月は平然といってのけた。

「人間がケシをどう使おうと、俺は知ったことではないのさ。農作物や民芸品で外貨を稼ぐのは容易ではないし、人間とのつながりを保つためにも金が必要なのでね。人間社会の物品を仕入れるのにはどうしても金がかかるんだ。あんたにいってもわからんだろうがねぇ」

「……残念です、三日月さん」

「俺だって残念さ。せっかく大金を稼げるチャンスだったのになぁ。まあいい。あんたの力を借りなくても自力で栽培させてみよう。うまくいくかは微妙なところだが」

「考え直してはいただけませんか、三日月さん。人間たちに迷惑をかけてまで、どうしてお金が欲しいのです」

 エコの声音は、すでに隠しようがないほどに、みっともなく震えていた。

 三日月は、さも心外だというふうにピンと伸びた髭をつまんで扱いてみせた。

「俺には、どうしてあんたは金に執着がないのか不思議だねぇ。金があれば豊かな生活ができるじゃないか。寒さに凍えなくて済むように薪も準備できるし、栄養のあるものも食べられる。病気になれば薬も買えるし、ケガをしたら医者の手当を受けることもできる。逆にききたいんだが、金のないあんたはどんな生活を送っているというんだい。いつも似たような服を着て、食べるものだって粗末なものばかりじゃないのかな。そんな生活をしていていざ身体を壊したときには、金のないあんたにだれも手を差し伸べては」

「もういいです。もうけっこうですから」

 主人のその言葉を合図にしたかのように、市場の周辺に隠れ潜んでいたエコの配下の虫たちがぞろぞろと姿を現し、ふたりを囲むようにして煙のように忍び寄ってきた。その剣呑な気配にあてられた黒い小人たちは、我先にとその場を離れていった。

 しかし、当事者である三日月はあくまで飄々とした面持ちで、

「おや、俺に下僕をけしかけようっていうのかな。それはやめたほうがいい。あんたのためにならないからね」

「…………」

 エコがなにかをいおうとするより先に、三日月が和服の懐から巾着袋を抜き取り、中からタバコとライターを取り出し、無造作に火を点けた。

 ただそれだけの仕草で、エコは顔をこわばらせて後ずさった。三日月は知恵の回る狐人だ。ハーフとはいえドライアドの血を引くエコが火に恐怖心を抱いていることを知らないはずがない。紛れもなく、ケンカを売っているのだ。

 彼は大仰に鼻から煙を吐いて、

「わからないかね。あんたは生きていくために食料も衣料も必要としているだろう? それを買うための金はどうやって入手しているのかな。そう、この俺を通じて得ているのさ。あんたは生産者であり野菜や果物を大量に実らせることが可能だが、それを金に買える術を持っていない。対して俺は交易者……どんなものでも金に買えるパイプを持っているのさ。つまり、あんたは俺なしではまともな生活を送れなくなるというわけだ。理解したかな」

 エコの未来の手綱は三日月が握っている──そういいたいのだろう。それは悔しいほどに事実であった。

「だいたい、あんたの生活を四年間も支えてきたのは俺だということをわかってほしいねぇ、シスター・ランチェスター。市からの助成金を打ち切られたあんたが、俺の助力なしでどうやって今日まで〝人間らしい〟生活を送ってこれたというんだい……まあ、今日のことは互いに水に流そうじゃないか。ケシのことも、蟲をけしかけられそうになったこともなかったことにしよう。これからも狐とドライアドが手を取り合って生きていきたいと俺は思っているんだよ、皮肉ではなくね」

 もううんざりだった。エコは唇を噛み締めながら踵を返した。

 エコは最後まで下僕の虫たちをけしかけることはなかった。

「シスター・ランチェスター。今後もご贔屓によろしくお願いしますよ」

 そう告げた三日月がふと空を見上げると、紅色の雲が潮風に吹かれて山の方へと運ばれてくところだった。稜線には薄く霧が掛かっている。空気も湿っており、近々、雨が降るかもしれなかった。

 三日月が一本目のタバコを吸い尽くそうとしていたタイミングで、物陰に隠れていた黒い小人がひとり、彼の足元へと駆けてきた。

「あー。三日月さん。ちっとよろしいですかい」

「ん?」

「あのシスター相手に、なにか奥の手でもあったんですかい」

「なんだい、奥の手って」

「いやだって、あれだけの数の蟲を前にしても三日月さん、まったく動じませんでしたし。三日月さんなら、ドライアドを一蹴できるような武器かなにか持ってたのかなぁって思いまして」

 三日月は酷薄な笑みを浮かべ、

「あの程度で動じていたら商売人などやってられないねぇ。そもそもあの場では圧倒的に俺のほうが優位だったからさ。現に言葉をなくして帰っていったのは彼女のほうだろ」

「え、じゃあ、武器もなにも持ってなかったんで? それじゃ、蟲をけしかけられたら三日月さん、死んでたんじゃ」

「死んでただろうねぇ。でも俺をあの場で殺したら、彼女もマリアヴェルじゃ生きていけなくなるからね。実際、彼女のライフラインは俺が握っているも同然だし。金がないと文化的な生活を営めないのは人間もケダモノも同じってことさ。昔とは違うんだ」

「はあ……なら、あのシスター、なんであれだけ強いのに、腕ずくで中央市場の商品を分捕っていかないんですかね。オイラならそうするのに」

 それを聞いた三日月は、ゆるりと紫煙を吐き出した。

「だからお前さんはいつまでも丁稚なんだよ。いいかい。力ずくでこの市場から物を強奪したとして、そのあとどうする」

「どうするって、そりゃ奪ったものを腹いっぱい食べて、適当に金を使って遊んで……」

「そうこうしているうちに、お前さんの住処にポリスがやってきて、強奪の件でお前さんをしょっ引いてしまうぜ」

「ポリスなんざ大したことないでしょうや。あれだけ蟲を使えるんなら、マリアヴェル中を敵に回したって怖かないでさ」

「そう思うかい」

 三日月は二本目のタバコに火を点けた。タバコは人間にしか制作できないためマリアヴェルではプレミアものの嗜好品である。

「お前さんはわかってないんだな。すべてを敵に回すってことがどれだけ恐ろしいか。孤立無援の状況ってのが、いかに心細いかを」

「はあ」

「まあ、そんな話はどうでもいいんだ。いずれにせよ、彼女が俺から離れられないのは今後も変わらないだろうよ。さあ、仕事に戻った、戻った」

 タバコを足の踵で踏み潰した三日月が指を鳴らすと、黒い小人たちはふたたび作業へと戻りだした。

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