晩夏──④

 港から教会まで徒歩一時間。配下の虫たちとともに海藻を満杯に詰んだ荷車を押してきたため、エコはヘトヘトに疲れてしまっていた。

 そろそろ黄昏が降り立とうとするマリアヴェルの空は時期外れのオレンジにも似たうっすらとした黄色に染まり、街中の木々が過去を懐かしむような物悲しい光に照らされている。公園の迷路の前で立ち止まると、いつのまにこれほど気温が下がっていたのか、目が覚めるほど涼しい日陰がエコを包んでくれた。山陰から吹き降りてきた風がエコの汗を拭う。

 紫色のフジの迷路を抜けると、開け放たれた礼拝堂の扉が目にとまった。

 エコの瞳に期待と不安の色が交互によぎった。久々に礼拝者が訪れてくれたのかもしれないという希望と、同居人が見つかってはいないだろうかという心配と。

 礼拝堂へ足を踏み入れたものの、だれの姿もなかった。礼拝客ではなかったのか、あるいはすでに帰ってしまったのだろうか。

 エコは靴の泥を落としてからリビングに顔を出した。

 ふとテーブルに目を向けると見慣れない本が置いてあることに気づいた。分厚い植物図鑑である。

 本のページにはキスマーク入りのしおりが挟まれていた。こういう真似をするのは、おそらくリィラだ。彼女が置いていったのだろう。

 いつだったか、植物の種を預かったときに「種の正体はあたしが調べておく」と告げていたことを思い出した。もしかして、わざわざ教えにきてくれたのだろうか。リィラのことは虫たちに攻撃しないよう厳命しておいたため、この部屋までやってこれたのだ。エコが帰ってくるまでのんびり待っていてくれればよかったのに。

「おかえり、エコ」

 天井から、声がした。

 度肝を抜かれて上を見上げると、どことなく得意げな面持ちのメーチェが空気の抜けた風船のようにふわふわと降りてくるところだった。

「ただいま、メーチェ。いつからそこにいたんですか」

「泥棒が逃げ帰ってからずっといた」

「え、泥棒?」

 ありえない話だった。

 教会のなかは常に蜂が飛び交っており、見ず知らずの人間が許可もなく踏み込んできたら威嚇して追い払うように命じてある。が、虫たちはいたって平和に花の蜜を巣へ運んでいるばかりである。

 というか、泥棒って。もしかして。

「……そのかた、どんなケダモノでしたか?」

「んとね、見るからに怪しいやつだった。リビングからエコの部屋へ向かおうとしてたから、階段の上から隠れて追い払ってやったよ」

「…………もしかして、いえ、もしかしなくても、ドレスを着たブロンドの若い人間の姿をした女性だったんじゃ」

「そうだけど……泥棒じゃなかったの? 追い出したらまずかった?」

 さきほどまでとは打って変わり、メーチェが怖々とした様子でうかがいを立ててきた。

 エコは本気で頭を抱えた。

 わざわざ厚意で図鑑を持ってきてくれたリィラを脅かして追い出してしまった。それも、話をきくに、かなり手酷いやり方で。

 これは早急にリィラのもとへ謝罪しにいかねばならないだろう。やむを得なかったとはいえ申し訳なさで胸が詰まりそうだった。

 メーチェは顔面蒼白になって平謝りを始めた。

「ごっごめんなさい。ごめんなさい。てっきり、泥棒かと思ってたから……あ、あたしは見られてないから。見られないようにして追い出したよ」

「うん。うん、わかっています。でもね、メーチェ」

 エコはかがみ込んでメーチェと視線の高さを合わせた。

「そういうときは、じっと隠れていていいんですよ。この教会は虫たちに守られています。礼拝堂から先へはわたしの友人や知人だけが入れるように虫たちにいいきかせていますから、泥棒さんは入れないのです。それに万一、泥棒さんが虫たちの目をかいくぐって侵入したとしても、そのひとはお腹を空かせているだけなのかもしれません。必要なものを見つけたら、どこかへいってしまいますから」

「隠れてるって……なにもしないでいいの?」

「そうです。見つからないように、じっとしていましょうね」

「なんでさ。ものが盗まれる前に追い出したほうがいいに決まってるじゃん。この家のものはエコのものでしょ。なんで知らないやつにあげちゃうの」

「わたしは、あなたのことを心配しているのです」

 柔らかく語り続ける口調に、さしものメーチェも言葉に詰まったらしい。

「泥棒さんに持っていかれたものはまた揃えればいいのです。ね。あなたが無事でよかった」

 そういってエコは幽霊少女の頭をそっと撫でた。こうすると決まってメーチェは聞き分けをよくするのだ。

「……わかった。今日みたいに入ってきたやつがエコの友達かもしれないし、エコがそういうなら」

「いい子ね。さあ、この話はこれでおしまい。リィラさんには、後日お会いしたときに事情を説明しますので」

 とはいえ、どう説明すればいいのか。頭を悩ませつつ、エコは植物図鑑を手にとった。

 それは人間の学者が愛用しそうな本格的な仕様をしており、千五百ページ以上にも及ぶ重厚さであった。現物写真の掲載はもちろん、それぞれ種の特徴や開花時期、毒の有無、花言葉に至るまで網羅してある読み応えのありそうな本である。

 エコはその本を丁重に開き、しおりが挟んであるページに目を通した。

 真っ先にエコの目を引いたのは、その特徴的な種子の形状であった。トゲトゲした細長い茶色の実。それは間違いなく図書館の主、リィラ・カルマールから預かって庭で育てている植物である。

 解説にこう書かれていた。


『種名 オナモミ

 草丈は50~100cm。葉は広くて大きく、丸っぽい三角形に近く、周囲は不揃いなギザギザ(鋸歯)がある。茎はやや茶色みをおび、堅い。全体にざらざらしている。夏になると花を咲かせる。VU指定種(絶滅危惧種)。個体数が激減しており絶滅が危ぶまれている』


 エコが裏庭に足を運ぶと、先週に開墾したばかりの畑にたくさんの植物が整然と植わっていた。

 オナモミである。

 他の近縁種に淘汰され、現在ではほとんどその姿を見かけなくなってしまった絶滅危惧種。エコが見たことのないはずだった。

 かの植物たちは柔らかな大地にしっかりと根をおろし、したたかな生命力で地中の養分を吸い上げて存分に日光を浴びている。これが、世界ではすでに希少とされている植物の姿だとだれが想像できるだろう。エコはいつのまにか、生態系の存続に一役買っていたらしい。

 そういえばリィラは、この植物の提供者は日本という国の生物学者だといっていた。その生物学者は、絶滅の危機に瀕している生物を保護することを仕事にしているのだろうか。エコにはよくわからない分野であるが、その人物の手助けができたことが嬉しかった。世界から消えゆこうとしている儚い存在に手を差し伸べられたという、自分にしかできない仕事をなし得たことが彼女の自負を快く刺激していた。

 オナモミは、そのカエデにも似た葉っぱを風に吹かれるまま揺り動かしている。あと一週間もすれば花が咲き、種子を回収できるだろう。そうすればリィラへの仕事は終了である。あるいは彼女に頼んで種子をわけてもらい、今後も継続してオナモミの人工繁殖していくのもいいかもしれない。場合によってはその生物学者さんともっと渡りをつけてもらい、この力を活用するということも……。

 そういえば、狐人の三日月から預かった花はいったいなんという名前なのだろう。

 三日月さんも花の名前を知らないという話だったから、教えてあげれば今後、花を探す際に手助けとなるはずだ。せっかく植物図鑑もあることだし……。

 エコは好奇心に駆られるまま、裏庭の反対側へと足を運んだ。

 三十分後。

 三日月から預かった種から育てた花のほとんどを腐れ穴で処分したエコは、多数の虫を引き連れて、手ぶらで中央市場へと向かった。

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