晩夏──③

 結論から書こう。

 二階にいたメーチェがリィラ・カルマールを殺さなかったのは、エコが暮らす教会に死体を転がしたくなかったからにすぎない。


 エコがマーメイディア海岸でひと悶着を起こしていたそのころ、人魚少年の童貞を美味しくいただいたばかりのリィラ・カルマールは上機嫌で空の散歩を楽しんでいた。

 漆黒の翼を広げて潮風を皮膜いっぱいに受け、きりもみダイブしながら南地区から中央地区へと急降下していく。青空を切り裂いて滑空していく先には、穏やかな緑に包まれたホーリースター教会があった。屋根と裏庭をフジで覆われた教会は上空から観察すると、まるで紫色の花畑だ。

 健康的に日焼けした彼女は分厚い植物図鑑を抱えていた。シスター・エコへの手土産である。なんのかんのでハチミツや農作物を報酬に上乗せしてくれるエコのために、リィラは図書館から植物図鑑を探して持ってきたのだった。

 コウモリの皮膜を広げて華麗に着地した場所はホーリースター教会の公園であった。フジが邪魔をして庭先に降り立てないため、ここからは生垣で作られた迷路の中を歩いていくしかなかった。

 日差しを遮る緑の迷路の中はひんやりと涼しく、洞窟内にいるようだった。フジの淡く甘い香りが心地よくリィラの鼻腔をくすぐっていく。

 彼女の耳元を数匹のホエホエミツバチが忙しなく行き交っている。花の蜜を採取したのち裏庭の養蜂箱へと運んでいくのだ。この教会はすべてが生命のサイクルとして効率よく組み込まれているらしい。そのなかにリィラの周辺を盛んに飛び回っている個体もいたが、彼女がエコの友人であることは周知であるらしく、警戒音を発したりはしてこなかった。

 それにしてもなぜシスター・エコは迷路など作ったのだろうか。片側の生垣に右手を付きながら歩くこと、はや二分ほどが経過したものの、なかなか出口までたどり着けない。迷路の頭上を覆うフジも、まるで教会そのものを覆い隠すかのようにして育てられているのが気になった。

 迷路を抜けると巨大な木陰に覆われた教会が見えた。虫と植物たちの女王であるシスター・エコの住まいには、相変わらずケダモノの気配がなさそうだった。マリアヴェルで暮らすほとんどのケダモノたちにとって、この教会は視界にすら入らない存在なのかもしれない。

 軽く息を吐き、リィラは聖堂の扉をノックした。

 返事がなかった。

 シスター・エコは不在なのだろうか。だがせっかくここまできたのだし、せめて図鑑だけでも置いていきたいのだが。

 ほんの少しだけ逡巡したリィラは、まあいいかと思い直して、おもむろに礼拝堂へ通じる玄関の扉を開いた。教会とは何人に対しても開かれているべきものだと、どこかの本に書いてあったらこれくらい許されるだろう。

 礼拝堂は驚くほど涼しかった。巨木の陰になっているおかげで教会周辺は気温が低く過ごしやすい環境が維持されているらしい。ステンドグラスに映る木陰がそよ風のさざめきに乗ってワルツでも踊っているかのように揺らめいている。

 リィラは鼻歌交じりに礼拝堂を突っ切って教会の居住スペースへと足を運んだ。

「シスター・エコ? 入ったよ」

 念のために訪いをいれてから、リィラはリビングへ通じる扉を開いた。

 リビングはもちろんもぬけの殻であった。

 リィラはテーブルの上にホコリが積もっていないか確認したあと、植物図鑑にキスマークつきのしおりを挟んで見えやすい位置に置いておいた。これでエコが帰ってきたとき、だれが本を置いていったのか一目瞭然だろう。

 さて、もう用事は済んだのだが──。

 彼女の悪いクセがうずうずと鎌首をもたげつつあった。

 リィラ・カルマールはサキュバスでありながら向学心と好奇心が旺盛で、気になったことは一渡り調べておく主義である。

 はたして一つ目の修道女、エコ・ランチェスターの私生活はどんなものなのか。

 彼女が人間であればきっと色気も素っ気もない、ありきたりな日常の一辺が垣間見えるだけだろう。

 だが、エコは人間とドライアドのハーフである。

 リビングを見渡しただけでも床や天井に走った亀裂からは巨木の根が顔を出しており、エコの依代たる巨木が縦横無尽に教会中を包み込んでいることが見て取れた。彼女の下僕であるハチたちも所狭しと天井付近を飛び回っているし、天井一帯に生えた光苔からは淡い碧光が投げかけられ、リビングをランプのように照らしている。

 そのほかにも、マリアヴェルの固有種であるホエホエミツバチが集めたハチミツの瓶が、整然と棚に並べられているのを見つけた。まだエコには教えていないが、このハチミツは人間社会では超がつくほどのプレミア食品のため、冗談みたいな高値で取引されている。リィラが教会のハチミツにこだわる理由はそこにあった。

 リビング一室でさえこの有様なのだ。ほかの部屋にはいったいなにが眠っているのか気になって仕方がなかった。例えば寝室にはなにがあるのだろう。ちょっと覗くくらいなら許されてもいいのではないか。

 リビングの扉を抜けると、廊下はさらに教会の奥へと続いていた。手前には二階への階段。その向こうに古びたドアがふたつあった。左側はドアのマークから懺悔室であることが推測できる。そして右側のドアには『エコ』と名前の入ったプレートがあった。ここがシスターの私室だろう。

 階段を横切ろうとしたときだ。二階の暗がりから階段を転げ落ちてくるものがあった。

 六つのサイコロだった。

 ふわふわの毛玉でできた、リンゴくらいのサイズの十面ダイスである。それぞれの面にアルファベットが記されており、それらを組み替えることで特定の言葉を作る、子供が言語を覚える際に遊びで使われるものだった。

 なんでこんなものが二階から落ちてくるのか──音もなく転がってきたそれはリィラの足元でひとつの言葉を作って動きを止めた。


『 G E T O U T (で て い け)』


「…………」

 すごい偶然だなぁとリィラは思う。たまたま転がり落ちてきたサイコロがきれいに並んで意味のある言葉を成すとは。

 リィラは六つのダイスを拾い上げるとくるくる手のひらで回転させて、すぐに興味を失ったようにそれらを放り投げた。

 さて、疑問。なぜこんなものが階段の上から落ちてきたのか。

 首を上に向けると、二階の暗がりに白く細いものがぶら下がっているのが見えた。このまま階段を登っていけば、ちょうど頭の高さでそれとぶつかるだろう。

 首くくりのロープだった。

 人間が死刑執行する際に用いる、絞首刑のひも。

 先端が人間ひとりの頭を通せるサイズで輪っかになっており、それが天井からぶら下がっている。よく見ればロープはシーツを細く繋げたものらしい。それは、風もないのにゆらゆらと揺れていた。

 リィラ・カルマールは目を細めて口元を引きつらせた。

 なんだあれは。教会に相応しくないモノが、どうして階段にぶら下がっているのか。シスター・エコはどうしてあんなものを階段に……。

 あれは、シスターがぶら下げたものなのか? このサイコロを落とした存在は、二階にいるのだ。

 リィラは、一歩あとずさった拍子に毛玉のサイコロを蹴飛ばしてしまった。それが壁に跳ね返り、不自然な動きを見せて転がった。

 下を見る。


『 R O B B E R (ど ろ ぼ う)』


 一度目なら、ただの偶然だ。

 二度目なら、百万歩譲って偶然といえなくもないだろう。

 ぎこちない動きでふたたび上を見上げた瞬間、二階の暗がりから、猛烈な負の気配が雪崩のようにリィラ・カルマールにぶつかってきた。

 怨念。憎悪。激憤。殺意。おぞましい情念が津波となってリィラの心をかき乱していく。

 全身の毛が逆立った。

 リィラ・カルマールは勘がいい。これまで男社会を無傷のまま大手を振って生きてこられたのも引き際を弁えていたからだと自負している。

 その勘が「一秒でも早くここから逃げろ」と絶叫していた。

 足元で、サイコロが勝手に転がり出す気配がした。三度目──。


『 Y O U D I (く た ば  )』


 リィラにはもう、それを最後まで確認する余裕などなかった。

 即座にきびすを返すと、リィラはホーリースター教会の廊下を駆け出していた。エコ・ランチェスターの私生活を探ろうとしていたことなど、とうに頭から消し飛んでいた。

 礼拝堂の出口へ向かう途中、入室したときにきちんと閉じておいたはずの扉が、すべて大口を開けていた。不気味すぎるその現象さえ、いまのリィラにとってはこの教会から一秒でも早く逃れるための福音にしか感じられなかった。

 屋外へ転がり出た瞬間に浴びた陽の光が、自分を現実の世界へと戻してくれるように感じる。

 すぐさま翼を広げようとし、しかし頭上を覆う枝葉の天蓋のせいで大空へ飛び立てない。まずは迷路を抜ける必要があった。もどかしすぎて気が狂いそうだった。

 一目散に迷路へと駆け込みノーミスで出口へとたどり着くと、リィラはすぐさま全力で大地を蹴った。

 生ぬるい風にあおられながらコウモリの翼を羽ばたかせるうちに、ホーリースター教会は見る見る視界から遠ざかり、小さくなっていく。そのときになってようやくリィラは、先ほどのまとわりつくような邪気から開放されたことを悟った。

 全身にねっとりとこびりつく冷や汗を拭いながらリィラは思う。

 あのシスターは、いったい教会で、なにを飼っているのだ。

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