晩夏──②

 ざわついていた砂浜が一瞬にして静寂に侵食された。

 よりにもよって少年は、市長に取り押さえられてしまったのだ。

 少年を捕まえようと身構えていたケダモノたちは痙攣したようにその場に釘付けになり、まもなく訪れるであろう惨劇に色を失った。

 冷えた眼差しで雪女豹の少年を見下ろしながら、マリアヴェル市長は淡々と少年に命じた。

「口のなかに隠しているものをすべて出せ」

「…………」

 衆目の集まるなか、視線をそらしたまま少年が押し黙っていると、市長は彼の華奢な身体を片手で持ち上げた。狼男の太い指が少年の右腕に食い込んだ。骨が軋むような痛みに少年の顔がゆがむ。

 市長の手のひらが少年の頬に添えられた。そのままミカンでも握り潰すかのように握力が加えられていく。少年の牙だらけの口が徐々に歪んでいく。観衆のなかにいたウサギに似た若い女性が口元を押さえて目をそらした。

 そのまま握りつぶされるかと思われた少年の口のなかへと、市長の毛むくじゃらの指が強引に突っ込まれた。力任せに開かれていく唾液まみれの牙と牙の隙間から、いくつかの固形物がペッと吐き出された。

 七色に光る珊瑚。綺麗な貝殻。そして財布。

 勘のいいケダモノは気づけたらしい。みずからのバッグを調べて素っ頓狂な声を発した。

「あっない!」

「こっちもだ。まさか……」

 みんなの様子を見てようやく感づいたエコは、まさかと思いつつも自分のバッグを確認してみた。

 なかった。

 さっきまでたしかに入っていたはずの財布が姿を消している。まさか、さっきお尻を触ったスキをついてスりとったというのか。速すぎてまるで気づかなかった。

 いよいよ観衆たちが死んだように静まり返っていく。人魚の娘たちのなかには、盗人の少年に同情するものさえいた。

 これはもう、いらずらでは済まされない。スリやカッパライは立派な犯罪だ。とくにマリエヴェルにおいては金銭に関するトラブルは御法度とされており、人間社会よりも厳しく罰せられることが多い。指を切り落とされたり、腕を折られたりといった処罰がくだることさえあるのだ。それも市長に見咎められては……。

 まさに死刑執行も同然の状況において、それでも少年は市長の腕にぶら下げられたまま悪びれもせずにいってのけた。

「こうしないと、オレの家族、生きていけない」

「……」

 市長は少年の言葉には反応せず、彼の瞳をじっと見据えながら尋ねた。

「親はどうした。お前のような子供は、親に養ってもらうものだろう」

「父さん、狩りができなくなった。だから、こうしてオレが稼いでくるしかない」

「なぜ狩りができなくなったのだ」

 少年の瞳によぎる、叢雲のような影。

「父さん、狩りの最中に足の骨を折った。足の折れた狩人じゃ獲物なんて捕まらない。家族はみんな腹ペコ。お金、ほしかった」

「だったら母親はなにをしている」

「死んだ。弟を産んだとき、身体がもたなかった」

「……そうか。父子家庭で一家の大黒柱が働けなくなっては、生活に窮するのも無理はない。しかし、罪は罪だ。罪に対しては、相応の罰を受けなければならない。わかるな」

 市長の銀色の瞳がゆっくりと細められていく。

 その刹那のタイミングで少年の左腕が動いた。

 視力のいいエコでさえほとんど目視できない速度で、少年は市長の胸元をこぶしで叩いていた。その衝撃で市長の巨躯が小さくよろめき、前のめりになった。

 いつのまに持っていたのか、雪女豹の少年の手のひらには銀色に光る刃物が握られていた。人間が創造したナイフと呼ばれる凶器。

 市長の手の内から体をひねって逃れるや、白毛の少年は両足で砂地を踏みしめてナイフに全体重をかけた。

「あんたのせいだっ」

 憎しみに染まる雪女豹の少年の眼差しが市長を射抜いた。口から泡を吐きながら、雪女豹の少年が絶叫する。

「あんたが人間をこの街から追い払った。だからまともな医者がいなくなった……そのせいで、父さんの治療をできるやつがいなくなったんだ。ケダモノじゃ、医療の知識を持ってるやつなんていやしない。父さん、必死でケガを舐めた。オレも、弟たちも、一緒に舐めた。でも、父さんの脚、普通に治らなかった。父さんの脚、いまも曲がったままだ。父さんはもう、走れない。全部、あんたが人間を街から追い出したからっ」

「……骨折は応急処置を間違うと、骨が曲がったままくっついてしまうことがある。骨折には添え木を当てるのは、狩人として当然持つべき知識だろう。お前の親父さんは、応急手当の知識も持ち合わせていなかったのか」

 地を這うような低い声。ナイフで胸を刺されたはずの市長が、ひどく落ち着いた声音で言葉を発していた。

 ぎょっとする少年の右腕を市長の手が掴むと、彼は少年の襟首を持ち上げるなり力任せに手首を捻った。

 腱がねじ切られるほどの激痛に耐えかねた少年は、砂地を蹴って逆上がりするかのように空中でくるりと一回転し、市長の関節技を解こうとするも、そこに市長の固い膝が待っていた。

 したたかに臀部を蹴り上げられた少年の身体は海のほうへと吹っ飛びかけて、しかし市長の太い腕によって尻尾を掴まれて勢いを殺され、そのまま垂直に砂地へと落下した。

 すまし顔の市長が左腕を上げると、彼の脇の下から銀色に光るナイフが現れ、砂へと落ちた。

 ナイフで刺される一瞬のあいだに市長は身体を捻って切っ先をかわし、突き出された少年のナイフを脇の下で挟んでいたのだ。市長は傷ひとつ負わずに少年を無力化していた。だれの目にも止まらぬほどの早業だった。

「惜しかったな。人間が生み出した道具などに頼ろうとするからそうなる」

 砂浜に膝をついた市長は少年の頭部を鷲掴みしたまま、ふたたび悠然と立ち上がった。

「死ね、市長。人間さえいてくれてれば、父さんは!」

 切り札を封じられた少年は、それでもありったけの殺意を乗せた呪詛を市長に浴びせ続ける。その言葉のすべてを、市長は悪い夢でも見ているかのような面持ちで聞き流していた。

「……いいたいことはそれだけか。ならそろそろお仕置きを始める」

「お待ちください」

 エコは見ていられなくなり、思わず声を上げた。聴衆の視線が市長からひとつ目のシスターへと集中した。

 市長はエコに背を向けたまま、器用に長いケモノ耳だけ振り向かせた。

「なんだ」

「その少年はまだ子供です。あまりひどいことはなさらないでください」

「子供だからこそ、窃盗という罪の重さを知っておかなくてはならない。大人になってその罪の重さを知らないと、より大きな犯罪を犯すことになる。そうならないようにしつけるのが大人の仕事だろう」

 教会の裏の畑に、先日も何者かが忍び込んで野菜をもぎ取っていた形跡があったことをエコは思い出した。防犯用の柵を破壊し、エコが育てた農作物を略奪していく無頼漢の足跡はイモの蔓を踏みにじり、畑はメチャメチャになっていた。

 あれが、少年の未来の蛮行だとしたら──市長はそういっているのだ。

 言葉に詰まったエコを無視して、狼男の市長は右腕を振り上げた。

「子供を教育するには体罰がもっとも効果的だ」

 その場にいる半数のケダモノが固唾を呑んだ。市長の命を奪おうとした少年へのお仕置きが決行される。腕を折られるか、足を砕かれるか。いずれにせよ五体満足ではいられないだろう。残る半数のケダモノは、哀しげな面持ちでことの成り行きを見守っていた。

 心が凍えそうな空気のなかで市長は、雪女豹の少年の尖った耳を両側からかなり強い力で引っ張った。少年の毛深い顔がみよーんと横へ引き伸ばされ、豚のような顔になった。

「い、痛い、痛いぃぃぃぃ」

 市長は少年の腕も脚も奪わなかった。ただ、耳を引っ張っているだけだ。雪女豹の少年が泣き声をあげる姿を、エコは呆然と見守っていた。

 いったい、彼らは、なにをしているのだろう。

 と、エコのそばでことの成り行きを見守っていたタヌキのような面立ちの老婆がぽつりと呟いた。

「体毛で皮膚を守られているタイプのケダモノをお仕置きするには、ああするのが手っ取り早いからねぇ」

「お仕置き?」

 エコが問いただすと、全身を茶色い毛で覆われた老婆はもったいぶってうなずいた。

「耳を引っ張る……傍から見れば大したことのない行為であっても当人からすればたまったものではない、耳という鍛えようがない器官を容赦なく引っ張られるのだからねぇ」

「あの……あれは、お仕置きなんですか」

「ほかにどう見えるってんだい? あの市長が子供相手にひどいことをするはずないだろうに」

 老婆の声音にはどこか沈鬱な響きがあった。気持ちに余裕を取り戻したエコが周囲を見渡してみると、ハラハラした面持ちでことの成り行きを見守っているのは若いケダモノばかりで、年配のケダモノたちは落ち着いた様子で市長と雪女豹の少年のやりとりを見守っている。

「雪女豹は体中に体毛が生えているため、軽く叩いたくらいでは痛みを感じない。そこでつんととがった耳を引っ張ることで、人間でいうところの〝尻を叩く〟行為の代わりとしているんだよ。お嬢ちゃんも覚えておおき。相手にものをいいきかせるときには痛みが必要になるときもあるのさ」

 それはすでに、エコも日常のなかで自然と覚えていったことだ。平穏に日々を過ごすには最低限の武力が欠かせない。持たざるものは奪われる一方だからだ。エコには、その武力をあえて使用しないときもあるけれど、代わりに恐怖を与えて相手を牽制することもある。図書館でリィラにしたように。

 市長の腕は長く、少年の爪は空を引っ掻くばかりであった。少年が抵抗を見せるたびに市長は容赦なく耳を引っ張る力を強め、少年の泣き声が大きくなる。

 冷徹なしぐさでお仕置きを続けること数分間。ついに少年が白旗を上げた。

「わかった、わかった……痛いよ、やめろよお……」

「なにがわかったんだ。自分の口でいってみろ」

「もう、ケダモノのものを盗んだりしない……」

「それだけか」

「……」

「盗んだケダモノたちに、なにかいうことがあるんじゃないのか」

「……謝る。謝るから。盗んだケダモノたちに謝るから、離せよおお」

「よし」

 長身の狼男が腕を下ろすと、ようやく雪女豹の少年が自由を取り戻した。すぐさま体勢を立て直して脱兎のごとく逃げようと思ったのか、白毛の少年が大きく尻尾を降って踵を返し、

 その尻尾を市長が風のように掴んだ。逃走を企てていたことを察していたに違いない反応速度だった。

 ひっと息を呑んで凍りつく少年の手に、市長はさきほど取り上げた盗品の財布を握らせた。きょとんとする少年に向けて、市長は無慈悲に告げた。

「盗んだ相手全員に直接返して謝ってこい。ここで見ているぞ」

「……」

 財布を受け取った少年は、ふんと鼻でせせら笑ったあと、市長に背を向けて被害者たちのもとへ歩いていった。今度は彼も逃げようとはしなかった。彼らのやり取りを見て、エコの隣に佇むタヌキの老婆は「甘いねぇ」とやるせなさそうにつぶやいた。

 ひとりひとりに軽く頭を下げて財布を渡していく少年。盗まれたもののなかには彼は殴り倒したいケダモノもいたであろうが、市長の手前、できようはずもなかった。せいぜいが悪態をつくくらいだ。

 やがて少年は単眼シスターのもとへとぶらぶら歩み寄ってきた。不遜な態度のままエコに近寄った彼の姿が、三日月の形に細められたシスターの大きな瞳に映りこんだ。

 エコと、少年の、目があった。

 そのとき少年はなにを感じたのだろう。毛を逆立て、微動だにできなくなった彼と背丈をあわせるようにかがんだエコは、小さな声でこういった。

「メーチェへのおみやげを買ってあげられなくなるところでしたよ」

 市長相手にさえ不遜な態度を貫き通した雪女豹の少年の顔に、真の恐怖の色が浮かんだ。

 これまで一言もまともな謝罪の言葉を口にしなかった彼が、頭を垂れて声を絞り出した。

「……ご、ごめんなさい」

 恐怖に捻れた少年の瞳をエコは下から覗き込んで「んー?」と目を細めると、少年の体臭を嗅ぐようにくんくんと鼻を鳴らした。狼や雪女豹のような肉食獣に似たケダモノにとって、相手の臭いを嗅ぐという行為は「あなたを忘れないようにする」という意思表示である。

 ──お前のことは覚えた、次に会ったら覚悟しとけよ、というに等しい行為であった。

 顔中に恐怖を撒き散らした少年が、ついに裏返った声で叫んだ。

「ごっ。ごめんなさい!」

 正面から覗き込んだエコは、ようやく自然な笑顔を浮かべて「もう悪いことをしてはなりませんよ」と諭した。彼らの様子を遠目で見ていたタヌキの老婆が「そこまでやるかい……」と伏し目がちにつぶやいた。なんとでもいうがいいとエコは思う。この子には畑荒らしのような悪事を働いてほしくないのだから、必要なら恐怖を植えつけることだってしよう。

 シスターへ無事に財布を渡し、それでもなお緊張のほぐれない少年に向けて、エコは救いの手を差し伸べた。

「お腹が空いたときには、中央地区にあるホーリースター教会へおいでください。日曜日はミサを開催しておりますので、参加してくださったかたにはひと切れのパンを配布いたします」

 そこまできいた少年はようやくほっとした表情を浮かべつつ、エコの元から一歩退いてぼそりと呟いた。

「腹が膨れたって、父ちゃんの足は治らねえ。この街には人間がいなくちゃ……」

 少年の声が空虚にエコの耳に響く。少年はそのまま、次のケダモノへと財布を返しに向かった。生きるための金銭を得られなかった彼の今日の食事はいったいなんだろうかと、ふと思った。

 少年がすべての財布を返し終わったことを確認した市長は、最後にひとつ少年に問うた。

「名前と住処を教えろ」

「……マクック。西地区」

「近いうちに西地区の監査へ向かう。それまでこいつで糊口をしのいでおけ」

 そういうと市長は雪女豹の少年に向かって金色に光るコインを投げ渡した。マリアヴェルにおいて金貨は紙幣よりも価値が高く、少年はしばらく食うに困らないだろう。

 唖然とする少年に一瞥をくれたのち、市長は広い手のひらをぽんと叩いてからその場の全員に号令を発した。

「さあ、見世物は終わりだ。市民たちよ、生活に戻れ」

 市長の言葉を待っていたかのように、ケダモノたちは各々やるべきことを思い出し、ばらけていった。エコも後ろ髪を引かれるようにして、人魚の少年が待つ会計所へと向かった。

 この街で暮らすケダモノたちには自分の生活があり、それを守るために懸命に生きているのだ。エコも自分のすべきことをしなければならなかった。

 いつのまにか、すでに陽が暮れかけていた。

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