晩夏──①

 肥料が不足してきたのでマーメイディア海岸まで海藻を買いにいくことにする。

 しっとりとした潮風を浴びた修道服の裾が静かにそよいだ。

 波音。

 中天も半ばを過ぎた太陽が薄い雲に隠れ、湿ったコンクリートに群がる埠頭のフナムシたちが、白い波の跳ね返りを受けて一斉に散らばっていく。

 海産物の宝庫たるマーメイディアの埠頭は相変わらず盛況であった。中央市場ほどではないにせよ、ケダモノたちが物々交換にて生計を立てる海の市場はケダモノの往来が激しい。この南地区もケダモノシティで暮らすケダモノたちにとって不可欠の場所である。

 しかし、今日はどこか張り詰めた空気が流れているのはなぜだろう。通り過ぎるケダモノたちはみな一様に口数が少なく、視線を落として歩いたり飛んだり這いずったり地中に潜ったりしている。入り混じる雑音のなかに紛れて「市長が視察に……」という声がエコの耳に届いた。

 ああ、市長がここにきているのか──とエコは悟った。

 市長が各地区を訪問することは珍しくない。それぞれの地区の代表と意見を交わしあったり、地元の住民たちの生活を見て回ったりするのが市長の職務のひとつだ。かつての市長には、その役目さえ放棄して執政室で遊びほうけていたものもいたときくから、現市長は律儀であるといえるだろう。

 そして同時に、市長は市民にとって畏怖の対象でもあるのだから話がややこしくなってくる。

 コロシアムでの市長選──という名の殺し合いを乗り越えた果てに得られる肩書きである『市長』。すなわち、そのケダモノはマリアヴェルにおいて最強の生物であることを証明しているのだ。

 逆らえば殺されかねない怪物がこの地区にいる。それはケダモノたちを喉元に牙を喰い込ませられているも同然の心境にさせていた。

 現市長が罪のないケダモノを惨殺したという話などきいたことはないし、サボることなく巡視もおこなっている。

 しかし市長選での彼の血なまぐさい戦いぶりが、ケダモノたちに消えない恐怖を植えつけているのだった。

 現市長である狼男はたいてい、対戦相手をひと思いに瞬殺する。その鋭い爪で喉の動脈を切り裂くか、鍛え上げられた豪腕で心臓をえぐり抜くか、眼窩から指を突っ込んで脳を穿るか──いずれにせよ、そのケースで果てたものは幸運である。見るに堪えない事例になると三時間近く一方的にいたぶられたあげく、すべての関節を捻じ曲げられた上でコロシアムの舞台上に放置され、餓死させられたとか。その不幸な相手はカニに似た甲殻を持つ海洋類のケダモノで、葬儀人であるエコのもとに遺体が届けられたときには、吐き気を催すほどの腐臭──エコにとってはこのうえなく食欲をそそる芳香──を発していた。

 エコも市長と出会ったことは十回に満たない程度ではあるが、経験している。ほとんど喋らず、静かな銀色の瞳でケダモノシティを見て回る狼男の姿は、どこか触れてはならないような高潔な雰囲気をまとわせている。今日は早めに引き上げよう、とエコは思った。

 いつもの砂浜までたどり着くと、先日の人魚の少年が心なしか晴れ晴れとした笑顔でエコを歓迎してくれた。

 エコが海藻の追加をお願いすると、人魚少年は快く入江へと飛び込んでいった。エコは不思議に思う。以前と比べて彼は妙に元気というか前向きになったような印象を受けるが、気のせいだろうか。

「ねえねえきいてよ奥さん。あの子ったら、とうとうプロのかたに筆おろししてもらったんですってよ」

「あらいいじゃないの。初めてで失敗したらトラウマになって女が苦手になっちゃうってこともあるらしいものねぇ」

「あの子ももうそんな歳なのねぇ。ならうちの娘たちのお相手をしてもらおうかしら。そろそろ孫の顔を見たくって」

「アテクシももうひとりくらい子供が欲しかったのよぉ。んもう、アテクシも声をかけちゃおうかしら」

「いやぁだわ、奥さんったらぁ」

 ほーほほほほほほと人魚のマダムたちが波打ち際で談笑している光景を、エコはぼんやりと眺めていた。

 人魚は女性に対して男性が占める割合が非常に低く、オスの遺伝子を求めてメス同士の奪い合いちぎり合いが発生するケースが多い。地域によってはオスの人魚を拉致監禁し、生涯、種の存続に貢献するだけの奴隷にするところもあるという。そのため、オスはメスに対する恐怖心から不能に陥ることもあるのだとか。

 対し、マリアヴェル海岸ではすでにオスを中心としたハーレムが形成されつつあるようだった。あの人魚の少年も、いずれは同種の群れを率いるリーダーとなってこの海岸に君臨するのかもしれない。

 時間が空いたので、人魚の少年の戻りを待つあいだ、エコは砂浜に並べられている商品を物色することにした。リィラ・カルマールから報酬として渡された紙幣がいまも財布のなかにいっぱい蓄えられているのだった。マリアヴェルでは紙幣の輪転機がすでに稼働していないためドル札は人間社会から取り入れなければならず、地味に希少品であったりするのだが、リィラはどうやら人間社会とのパイプを密接に維持しているらしい。

 砂浜に敷かれたブルーシートの上に、南の島よろしくヤシの実が並んでいる。ワカメやコンブといった海藻がカーテンのように干されているその隣は漂着物のコーナーだった。ラベルの剥がれたペットボトルは雨水と溜めておくのに重宝するし、発泡スチロールの束をベッドとして流用するケダモノもいる。人間にとってはただのゴミに過ぎないそれらの代物も、ケダモノたちにとっては生活に役立つグッズである。

 そんななかでエコの目を引いたものがある。白い貝殻の装飾品だった。陽光を反射する角度によって七色に輝いて見える、風変わりな貝。どこか、遠くの海岸から流れ着いてきたのだろうか。手に取ってみると意外なほどに軽く、まるで大きな魚の骨のような感触だった。

 メーチェのブラウンの髪に似合うだろうかと思う。

 いまのメーチェが身につけているものといえば、暫定的に洋服タンスから選んだ聖歌隊の白ワンピースばかりで、それ以外の子供服などほとんど持っていなかった。かといって人外ばかりのケダモノシティで子供服が入荷される機会など滅多にない。エコでさえ、すでに二年間もおなじ靴を履いているほどなのだ。

 そんな清貧生活にも、リィラ・カルマールの助力によって光明が差してきた。

 人間の衣服は希少ではあるが、市場に出回る機会を見逃さなければいまのエコにも買えないことはない。

 現在の家計状況なら、メーチェにオシャレをさせてあげられる。先だっては、この貝殻をプレゼントしてあげたかった。これなら髪飾りにしてもいいし、ネックレスとしても似合うだろう。安くはないだろうけれど、これくらいの贅沢は許されるだろう。神さまだって許してくださるはずだ。

 人魚の少年に価格をきかなければ──そう思っていたエコの尻が恐ろしい勢いで叩かれた。痺れるような痛みと衝撃。その弾みで白い貝殻が砂浜に転げ落ちた。

「……!?」

 呆気にとられて振り返るエコの眼前で、小さな白い影が動いた。

 雪女豹の男の子だった。粉雪のような純白の体毛を全身に纏わせたネコに似た二足歩行のケダモノである。知能は奮わないものの肉体的には一般的なケダモノより秀でており、なにより俊敏さは他の追従を許さない。野生動物の狩りを生業とする雪女豹がマーメイディア漁港にいるのは珍しいことだった。

 彼は呆気にとられるエコの顔を空色の瞳でちらりと流し見ると、しなやかな足首の腱を樫製の長弓のごとくしならせて、柔らかな肉球で白砂を弾きつつ一目散に埠頭へ向かって走っていった。

 頭上で待機していたエコのミツバチたちが色めき立った。いまのエコへのお尻タッチを攻撃とみなしたのだろうか。

「待ちなさい、相手は子供ですよっ」

 エコが慌てて諌めると、従者たちは水を打ったように静まった。

 そのあいだに雪女豹の少年はすでにエコの手の届かない場所まで跳躍していた。道すがら、彼は数匹のケダモノと接触しつつ、身体のどこかを右手で叩いていった。いったいなんのいたずらだろうか。お尻を触られたショックがいまになってエコの胸に沸き起こり、顔を火照らせてきた。

 彼の駆け抜ける先々で小さな悲鳴が上がっている。悪ふざけを見とがめたケダモノたちが少年を捕まえようとするものの、彼はときに身をかがめてやり過ごし、宙返りをして追っ手を撒き、波間を泳ぐ白魚のごとく器用に追跡をかわしていった。俊敏すぎるのだ。

「捕まえろっ」「いやあ、どこ触ってんのよお!」とあちこちで悲鳴があがり、海岸に動揺が広がっていく。

 そのとき、余裕の笑みさえ浮かべて逃げ去ろうとする少年の細く白い腕を掴んだケダモノがいた。すらりの背の高い、宵闇に輝く銀月のような静かに燃えたつ毛並みの狼男。

 マリアヴェル市長だった。

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