仲夏──④
帰路を辿るエコの財布は相変わらず軽いままだった。
プチトマトとエンジェリックテイルの代価として渡された三百ドルは、日用品の買い足しで大半が失われてしまった。最近はメーチェのための文房具の購入も視野にいれているのだが、子育ては存外にお金がかかることをエコは改めて思い知らされた。
メーチェは食費がまったくかからない。しかし、人間はパンのみにて生きるにあらず。なにひとつ刺激も娯楽もない部屋でメーチェを飼い殺しにすることなどできるはずもなく、気がつけば彼女のために散髪セットや裁縫セット、童謡の書籍まで収集してしまっていた。
メーチェはなにが好きなのか。なにが得意なのか、なにをしたいのか。それを見極めたかった。
メーチェがいつまでこの世界に存在できるかは判然としないけれど、〝ここにいる〟からには彼女には幸せになってもらうべきだと思っている。そのための手段を増やすために、勉強が必要だった。
が。先立つものがないままでは資料や備品を準備することもできない。
生きるためには金銭が不可欠だ。
ひとりであれば清貧を気取っていられたが、いまはふたりぐらしなのだ。これまで以上に働かなくてはならない。
せめて市から助成金が出ればとも思うが、ケダモノは概して神や仏を信じない種族が多い。神に祈ったところで腹は膨れず、病もケガも癒すことがかなわないからだ。ならば祈りを捧げる時間を狩猟や農業に当てたほうが有意義なのだと考えるものが多数派である。墓穴すら共有している彼らにとっては、死者の安息を祈る程度にしか宗教は生活の役にたっていない。彼らはただ、生きるために生きるのみだ。ある意味もっとも幸福な生き方ではあるが。
ホーリースター公園まで戻ってきたエコは思わず足を止めた。
三メートルを超えそうなほど背の高い六匹の屈強なケダモノが、公園のなかでモアイのように腕を組んで立っていた。
犬の面を持つ四本腕の巨漢や、骨太な爬虫類タイプのトカゲ。なかにはエコに見覚えのある顔ぶれもいた。図書館で見かけたケダモノたちである。だれも彼もが精悍な面持ちで、黙したまま微動だにしない。なにかの使命を背負う騎士のような気概さえ感じられた。
公園を訪れていた住民たちが遠巻きに彼らに後ろ指をさしていた。錆びたブランコを蹴って遊んでいた子供たちさえも、いまは公園の片隅で騎士たちの様子をうかがうばかりだった。はっきりいって威圧的である。夏華の咲き乱れる教会の公園にはまったくもって似つかわしくない連中だった。
面食らいつつエコが彼らに声をかけようとしたときだった。彼らのなかでもっとも背の高いシカ型のケダモノの背から、晴れやかな声音で挨拶をしてくる美女がいた。
「しばらくぶり、シスター・エコ」
東地区の首領(ドン)、リィラ・カルマールだった。コウモリに似た背中の翼を広げて優雅な仕草で草の上に降り立つと、彼女は背筋を伸ばしたまま凛とした視線をエコに向けた。今日も彼女は漆黒のドレスを身にまとっている。余所行きの衣服なのだろうか。
女主人を下ろした従者たちがエコに恭しく敬礼をすると彼女が転がしてきた荷車を引き継いで、エコが出発前に庭の入口にまとめて置いておいた農作物を荷車へ積み込み始めた。リィラ・カルマールとの契約で彼らには東地区から教会まで足を運んでもらい、こうして野菜を運搬してもらう手はずとなっていた。
エコが配達するのではなく、男性陣が運搬を引き受けてくれるのである。
エコとしては大助かりだけれど、配達サービスまでおこなってくれるのは気前が良すぎるようにも思う。
少なからず罪悪感にも似た想いを抱いたエコは、事前に農作物の傍らにチップとして小銭とチーズを六つに分けて置いておいた。よくいえば恩返し。悪くいえば貸し借りなし、というところだろうか。
と、エコの横を通り過ぎる男たちのなかにひとり、こちらを冷めた眼差しで睥睨するものがいた。図書館のエントランスでエコがドクダミのツタを操ってやり込めた、あのトカゲ男であった。
「勘違いするなよ。お前と馴れ合うつもりはない。カルマールさんの命令に従うのみだ」
そういうとトカゲ男はそっぽを向いて自分の仕事に取り掛かった。彼は過去の一件を水に流すつもりはないらしい。顔を殴られたエコとしても、あの一件をなあなあで済ますつもりはないけれど。
エコは気を取り直して、リィラに尋ねた。
「リィラさん、どうしてこちらに? 今日はこちらへおいでになるご予定ではなかったのでは」
「その前に、はいこれ。今週の農作物のお代金」
リィラは意味ありげな微笑みを投げかけつつ、そういってエコの手に封筒を手渡した。
「わ」
妙に分厚い封筒を受け取ったエコは、その重みに驚いた。硬貨が入っているのかと封筒の外から触感で確かめてみたが、すべて紙幣らしい。
封を開けてさらに目を丸くした。中身は────────────すごかった。
これはよくない。
こんなものを受け取るわけにはいかない。
「リィラさん。あの、これは」
「きみ、あたしの子分たちにチップを渡しただろう」
エコのそばまで寄り添ったサキュバスは、彼女の耳元で囁いた。さりげない善意をあっけなく見抜かれたエコは頬を赤らめた。
「それの礼も含めての正当な代価さ。それより今日はきみにひとつ頼みがあってね。これを確認してもらえるかな」
と彼女が言葉を発すると、従者のひとりがエコの足元にうやうやしく跪いて、大サイズのペットボトルを手渡してきた。
エコも反射的に跪きつつ中身を覗き込むと、小さな球状の物体がみっしりと詰まっているのが見えた。大きさは空豆とおなじくらいで、茶色い楕円形の胴体に小さなトゲのたくさんついている。
一見わかりにくいが、どうやら植物の種らしかった。エコはこのような奇妙な種子を見たことがない。
「シスター・エコにはこれを育てて種を増殖させてもらいたいんだが、頼めるだろうか」
意外な言葉にエコは目を瞠った。似たような依頼をついさっき三日月から受けたばかりだった。
「……いいですけれど、この種をどうしようというんです? あ、もしかしてお母さまの命日に備えるお花でしょうか」
「はい? なんでそうなるのさ」
「あ、いえ、なんとなくそう思って……この種はいったいなんですか?」
「名前は……なんだっけ。オナ◯ーだかタマモミだかだったけど、忘れたなぁ。とにかく金になるんだよ。人間の好事家相手に高く売れるんだ、これが」
リィラ・カルマールは親指で人差し指で輪っかを作って真っ白い八重歯を覗かせた。
「オナ……?? これが、お金に、ですか? なぜこんなものがお金に」
「人間の事情だから、あたしにきかれても答えるのは難しいね。この種子をたくさん欲しがっている人間がいるから、育てて増やして、その人間に高く売るだけ。ただ、どうやらこの植物はちょいと種として脆弱らしくて、簡単には繁殖してくれないらしいのよ。そこで、ドライアドであるシスター・エコの出番ってわけ。きみなら自在に植物を栄えさせることができるでしょう」
「できなくは、ないですが……うーん」
エコは少し肩透かしをくらった気分だった。なんだか最近はお金の話ばかりしているように思う。
お金は必要だ。けれど、それを増やすことに腐心してしまうと、大事なものを見失ってしまう気がする。
そのとき、ふたりから離れた場所にいる五匹のケダモノたちの「おっしゃー」「やったるでー」という喝采が響いた。彼らの手にはエコが用意しておいた小銭の袋がしゃんしゃんと音を立てて鳴っていた。概してサキュバスに魅了されるタイプのオスは単純にできているらしい。ただひとり、トカゲ男だけは黙々と積み込み作業を続けていた。
憮然とした面持ちのエコの肩をリィラは気安く叩き、
「まあまあ、そんな顔をしなさんな。別に悪いことをしているわけじゃないし、きみには迷惑をかけないから、ね。この小さな実を増やすだけなんだ。農作物を収穫するよりも労力はいらないでしょう」
そういってウインクをしてきた。
彼女のいうとおり、種子を芽吹かせて増殖させる程度の作業であれば手間と呼ぶほどのこともない。
しかし、この種はいったいなんなのだろう。その人間は、こんなものを、いったいなんのために集めているのだろうか。返しのついたトゲに覆われた、硬く茶色い種。悪魔の種子があるとすれば、こういう形なのかもしれない。
エコは小さくため息をついた。植物の女王でありながら、この体たらく。この種子の正体さえ知っていればと、無知な自分に嫌気が差しつつあった。
「先約がありますのでリィラさんの件は後回しになってしまいますが、構いませんか」
「構わない、構わない。あ、ただその種子、けっこう貴重なものらしいから、取り扱いには注意してもらえるかい。悪いね、助かるよ」
「それとですね」
「はい? それとなに」
「増殖させた種子をお渡しする際に、この種がいったいなんなのか、改めてお聞きします。それにお答えいただけないときには、お預かりした分の種子しかお返ししません。それでもよろしいですか」
「そりゃまたどうして」
「……すみません。どうしても気になりまして」
「種がなにに使われるかねえ。たしかにこの種を渡してきた生物学者は、微妙にはぐらかそうとしてたのよねぇ。わかった、あたしのほうでもこの種がなんなのか、きちんと調べておくから、それでいい?」
「けっこうです。それでお願いします」
「んー、ただその生物学者の名誉のためにいっておくと、その男性、悪いひとじゃないからね。そこを信じたから、あたしも深く追求せずにこの種を預かったわけだから」
「……はい。失礼を申しあげました」
「別にいいよ。それより、これからも仲良くよろしくね」
というとリィラはエコの前髪を軽くかきあげると、その狭い額に柔らかなキスを落とした。
懐かしい感触がした。子供のころに父から親愛のキスをしてもらっていた記憶が呼び覚まされる。額や頬への口づけは人間同士のコミュニケーションなのだという。それを自然体でなせるリィラの本質は人間に近いものなのだろうと思った。
荷車を引きずって公園を後にする彼らの背中を見送るエコの財布は、久々に重たかった。
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