仲夏──③
エコの財布はいつだって軽い。
清貧生活が極まっているわけではない。青空市場の雑多な品揃えに目移りしてしまい、余計なものまで買ってしまうことを防ぐためだ。
中央区の青空市場は今日も盛況だった。あらゆるケダモノが種族を問わずに顔を寄せるマリアヴェル最大のマーケット。夏の青菜や果物、魚類などはもちろんのこと、人間の街から卸してきた日用品や、かつて工業地帯だった北地区の工場や倉庫から発掘してきたオイルや燃料といった掘り出し物までが露天に並んでいた。
今日は暑苦しい修道服を着ていないにもかかわらずエコの汗は止まらなかった。額を拭いたばかりのハンカチはすでにぐっしょりと濡れそぼっている。純血のドライアドは気候の変化に強く暑さなど苦にしないそうなのだが、人間とのハーフであるエコは人並みに猛暑に弱かった。いまは薄手のスカートにブラウスというシンプルな外装である。メーチェにちょん切られた髪は三日で腰まで伸びたけれど、いつものヴェールはしっかりと頭にかぶるようにしていた。日差しよけにもなるし、基本的にシスターはヴェールを脱がないものとされているためだ。
財布はこんなに軽いのに、肩に担いだリュックサックが重い。リュックの中身はプチトマトがみっちりと詰まっている。
今日は青空市場の卸業者である三日月へ野菜を届ける約束をしているのだった。帰路では財布が多少なりとも重くなっていることを願うばかりである。
いつものようにエコを先頭にして働きアリたちが隊列を組んで荷車を引いていたが、今日は虫たちも数えるほどしかいなかった。荷車も一台しかなく、中身はエンジェリックテイル(アスパラガスの亜種)で統一されている。
狐人の三日月は『虎屋』の前で銀縁メガネを拭きながら、鹿爪らしい面持ちで使用獣たちに指令を発していた。全身を黒い体毛で覆われた猿型の小柄なケダモノたちが細長い手を伸ばして猿のごとき俊敏さで商品を掴んでは腰のポーチへと突っ込み、市場のあちこちへと散らばっていく。彼らは三日月の従者らしかった。
彼らの作業が一段落した頃合を見計らってエコが挨拶をすると、三日月は人好きのする柔和な笑みを浮かべて彼女を歓迎してくれた。
「やあ。今日はどういった農作物を出荷してくれるのかね」
「これで全部です」
「……ん? いつもよりずいぶんと少ないじゃないか。不作だったのかい」
冗談めかして三日月が尋ねた。樹木の精霊であるエコの畑で不作などありえないことは互いに知っている。
「いえ。畑からは普段とおなじくらいの量が採れたのですが、三日月さんのほかにわたしの農作物をご入り用のかたがいらしたので、そのかたにお譲りすることになりました」
「譲る? それはまた……珍しいこともあるものだねえ。いったいだれに?」
「友人です」
隠すことでもないため、エコはさらりと答えた。彼女が信仰する宗教において、サキュバスは姦淫の象徴として忌み嫌われている。けれど、おなじケダモノの血を引くエコにとっては、そんなのは些事に過ぎなかった。
キツネの三日月は鋭い目をさらに細めてエコを見つめた。
「へえ、それは興味深いね。今度紹介してくれないかな」
「機会がありましたら。今日の農作物はプチトマトとエンジェリックテイルです。肉食中心のかたも召し上がれるよう甘く柔らかく育てました」
「なるほどねえ。ちょっと拝見」
三日月は品定めを始めた。商品を取り扱う際の彼は真剣そのもので、気軽に声をかけられないような張り詰めた空気を纏わせている。色艶や柔らかさ、サイズなどをじっくりと鑑定した彼は、腰に携えたポシェットから電卓を取り出した。
「普段よりも数も種類も少ないから、そうだね。三百ドルくらいかな」
「三百ドル、ですか。それでお願いします」
安くはない、とエコは思う。三日月の提示する相場は概してこのくらいである。
が、リィラ・カルマールが提示した額は、この四倍はあったはずだ。
リィラが必要以上に下駄を履かせてくれているのだろうか。それとも……。
ふと、リィラが口にした『帳簿』という単語が一瞬、エコの思考に暗い影を落とした。
しかし、それも一瞬のことだった。すぐにエコは気を取り直して三日月との取引へ移ることにした。帳簿のことは忘れよう。それを三日月さんに見せてもらったところでエコにはチンプンカンプンだし、意味もなく彼の手を煩わせたくなかった。
電卓を叩いていた三日月がエコを見上げた。
「ふむ。今日はホエホエミツバチの作ったハチミツはなさそうだけれど、品切れかな」
「それもそのひとにお譲りしたんです。なんでもすごく気に入ったらしくて」
「なるほど、そういうことか。次は是非ともこちらに引き渡してもらいたいものだね」
「? あの、ハチミツがなにか」
「いやいや、あの品はあちこちで引く手あまただからねぇ。いまのご時世では砂糖も人間を介さないと入手しにくいもので、甘い液体はそれだけで人気があるんだよ。ところでランチェスターさん。今日は少々、個人的に頼みたい仕事があってね」
涼しげな顔でヒゲを撫ぜる狐人は、ふと神妙な面持ちでエコの顔を見上げた。
「とある植物の花を咲かせてほしいのだけれど、できるだろうか」
「花、ですか」
「うん。ここに用意した種をなるべくたくさん育ててもらいたいんだ」
そういうと三日月は腰につけたポシェットから小さな茶色い種の詰まった小ビンを取り出して、エコに手渡した。
見たことのない種だった。ゴマ粒ほどのサイズでコロコロと丸い形をしており、押しても潰れそうにない硬さである。
千粒ほどあるその種子をエコは手のひらで転がしながら不思議に思った。植物に関する仕事ならエコの専売特許である。しかし育ててほしいものが農作物ではなく花とはどういう風の吹き回しか。
「なんの花の種ですか、これは」
「もうすぐ母の命日でね。俺の母親がこの花を好きだったんだ。だから、彼女の墓にたくさんの花を添えてあげたいと思ってね。できることであれば、その種からよりたくさんの種を栽培して、もっと花を増やしてもらえると嬉しいんだ」
「……そうだったのですか。わかりました。わたしでお役に立てるのであれば。お母さまの命日はいつですか」
「再来週の頭さ。それまでにお願いできるかね。お代は……」
エコはやんわりと首を横に振った。三日月さんが母親を悼んで捧げるための花にお金など受け取るわけにはいかないと思った。
三日月はエコの厚意を遠慮することなく、彼女の手を握ってありがとうと告げた。
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