仲夏──②
「メーチェ。まずはわたしの髪に触れてください」
「う、うん……」
メーチェはおっかなびっくりという風情でシスターの黒髪に触れた。
エコのきめ細やかな髪がメーチェの細い指をかいくぐって滑るように流れていく。
ドライアドの髪質はもともと人間のものと酷似しているが、エコの髪はさらにしっとりと湿っていて肌に吸いつくような質感をしており、クシを通しやすい。
エコはメーチェへハサミとクシの使い方を説明していった。すでに一メートルを超えた黒髪の先端に何度もハサミを走らせることでメーチェに刃物の扱いを慣らしていく。
「……なんか、人間の髪と似てるね」
「ええ。わたし、ドライアドと人間とのハーフですから、髪質が人間のものとそっくりなんです」
メーチェがきょとんとした面持ちでエコの顔を覗き込んだ。
「ハーフってなに?」
「まだお話していませんでしたっけ。四年前に亡くなったわたしの父は人間だったんです。リビングに父とわたしが一緒に写っている写真があるのですが、覚えていますか」
「……あの、白ひげのおじさん?」
「それがわたしの父です」
「エコのお父さんは、人間なんだ。じゃあ、お母さんは?」
「母については、わたしも知らないんです。わたしの樹がこの土地に根付いたときには……えっと、言い方が悪いな。わたしが物心ついたときには、すでにそばにいませんでしたから。父もなぜか、母のことについてはあまり話したがらなくて。わかっているのは、わたしが人間の父とドライアドの母の血を継いでいることです」
「……ふうん」
すこしの沈黙のあいだ、メーチェはひたすら、取り憑かれたようにエコの黒髪にクシを入れ続けた。
「人間は、この街にはいられないんだよね。なのにエコはここにいる。エコは人間なの。それともケダモノなの」
「両方です。この街には人間追放令が敷かれていますけれど、ケダモノの血も混じっているということでわたしはケダモノシティから追い出されることもありませんでした。そもそもこの街から去ることはわたしには不可能でしたし」
「どういうこと?」
「わたしは、この樹からあまり遠くには離れられないんですよ」
そういうとエコはそっと、自分が椅子代わりにしている大樹の根を愛おしそうに撫でた。
「ドライアドは樹の精霊です。依代にしている樹と離れ離れになってしまうと身体が弱ってしまい、いずれ死んでしまいます。わたしがこの樹から離れられるのは、せいぜい十キロメートル程度。わたしは、生涯この街から離れられない身体なんです」
子供のころ、エコは飛行機に乗るのが夢であった。
人間が開発した空を飛ぶ乗り物──何百人という人間を乗せて、何百キロという長距離を空路で移動することが可能という、人類が夢に描いた科学の結晶。
根を張った大地で一生を終えるドライアドにとって、それは未知なる世界への方舟に等しかった。人づてや書物、テレビの向こう側にしか存在しない、この街の壁の外側の世界──エコにとっては、決して手を触れる機会のない境界線。
「わたしにとってこの街は故郷でもあり、生涯を共にする大地でもあるのです。だからこそ、自分にできる範囲で、この街に貢献できればと常々考えているのです……では、そろそろヘアカットをお願いできますか」
「あ……うん」
「道具の使い方はさきほど説明したとおりです。もし失敗しても三日もすれば元通りになりますので、気兼ねなくカットして大丈夫ですよ」
「う、うん。やってみる」
かくして、付け焼刃の幽霊美容師による一つ目シスターのヘアカットが始まった。
エコは雨合羽を身につけているため服についた髪の掃除を気にする必要もない。切り落とした黒髪はあとでまとめて腐らせ、畑の肥料にしてしまう予定だった。
メーチェがエコの髪をそっと指でそろえてハサミで切込を入れていくと、むき出しの地面に黒髪が撒き散らされていった。
しゃらららら……ぱさっ。
しゃらららら……ぱさっ。
ゆっくりと、ゆっくりと散髪は進んでいく。ゆっくり……というよりはのんびりというほうが正確だろうか。
ハサミを閉じるスピードは十秒に一回程度で、エコでさえあくびが出るくらいにクシを入れる回数がかさんでいる。
メーチェはとことん慎重だった。労わるようにして髪を指先でつまみ、そこへ慎重にハサミを走らせていく。エコの身体を丁寧に扱いすぎている様子が手に取るようにわかった。ドライアドは頑丈な種族なのだから、もっと乱暴にしてもらってもかまわないのだけれど。
エコが手鏡でそっと背後を覗き込むと、ほとんど切られていない自分のヘアスタイルが見えた。あれっすでに半時間は経過しているのに、まだ十センチも切られていないではないか。
「メーチェ。もっとざっくばらんに切っても……」
メーチェはそれどころではなかった。
ハサミを持つ手が震えているし、目は宙を泳ぎまくっている。あげく、
「あたしごときが……あたしごときがエコの髪を……」
とかつぶやいていた。
さすがに不安になったエコは振り返らずにたずねた。
「メーチェ。大丈夫ですか」
「……う。うん、平気」
「もっと、こう、大雑把に切っていいですからね。髪の長さを半分くらいにしてしまうくらいで」
「わかった」
メーチェは大きく深呼吸をすると、ふたたびハサミを構えた。
エコは心のなかで応援をした。声援を送ってもいいのだけれど、メーチェの集中を害することは避けたかった。
メーチェは髪留めを用いてエコの髪を生え際で結え、いわれたとおり、すげえ大雑把にハサミを入れた。
シャァァァァッという乾いた音を立ててエコの髪が肩口から切断されていく。
不意に頭が軽くなった。
エコはこれまでの経験から「あ、失敗したな」という瞬間がなんとなくわかる。いまがまさにその時だった。
恐る恐る手鏡で前髪を確認したところ、悪くない感じで揃えられていた。ほっとしつつ後ろ髪を見ると──────エコはヘアスタイルにこだわりを持っているわけではないため、大したショックは受けなかった。
うん、大丈夫。
ベールをかぶれば大丈夫。
「ありがとうございました、メーチェ。今日はここまでにしましょう」
エコは自分の頭を撫でてみた。
肩よりも上の位置にハサミを入れたことがなかったため、とても新鮮な感触を指先に覚えた。
うん。すごく頭が軽くなった。これはこれでいいかもしれない。夏だから風通しもいいし。数日後にはまた腰まで伸びるだろうけれど、そのときにはふたたびメーチェに切ってもらおうか。
「エコ」
メーチェの手には一メートルを越える黒色の艶髪がひと房、握られていた。たったいま切り落としたばかりのシスターの長髪。
もじもじしながら、メーチェは口を開いた。
「あのね。髪を切る練習をしたいから、これ、もらってもいい?」
「ええ、かまいませんよ」
エコがにこやかに答えると、メーチェはハサミも返さずに光の速さで自室へと飛んでいってしまった。
呆気にとられるエコの短髪に木漏れ日のシャワーが降り注ぎ、銀色に乱反射した。そんなに髪切りが気に入ったのだろうか。
なににでも興味を持つのはいいことだと思う。
リィラさんには次の機会までに、ヘアカットの教本を持ってきていただいてもいいかもしれない。わたしもヘアカットに興味が出てきたし、メーチェに新たな道を拓くきっかけになるかも。
エコはカッパを脱ぎ捨てて裏の畑へと向かった。リィラへ譲渡する農作物を明日までに育てあげる約束をしているのだ。
夏は野良仕事も書き入れ時である。リィラ・カルマールも新鮮な農作物をたいそう気に入ってくれたし、彼女との契約で渡される報酬でメーチェに新しい靴と筆記用具も買ってあげられた。だれかのために働くことは、想像していた以上に気持ちのいいことだとエコは知った。
孤独だったシスターの生活は徐々に変化の兆しを見せていた。
なお、固くドアの閉じられたメーチェの私室から「くんかくんか。すーはーすーはー」と猛烈な深呼吸を繰り返す気配が漏れているのを窓辺の小鳥だけが知っていた。
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