仲夏──①
ホーリースター庭園の木々の隙間を涼しい風が梳いていく。教会裏の畑には何羽かの小鳥が集い、野菜についた青虫や木の実を我が物顔でついばんでいた。公園の北側は小高い丘になっており、地下水が湧き出して清流が溢れている。小川のせせらぎの上を吹き抜ける風が公園から蒸し暑さを奪っていた。
陽だまりの庭で、エコは大樹の根に腰をかけて自らの髪にハサミを入れていた。
夏のドライアドは頭髪の伸びが極端に早くなる。つい三日前に肩で揃えておいた髪の先端がいまは腰の位置にあった。ドライアドハーフの髪は人間のそれと同様に、放っておけば際限なく伸びていく。修道女である手前、伸びっぱなしにしておくわけにもいかなかった。
丹念に水洗いしたカラスの濡羽のような黒髪に陽の光が反射して艶やかな輝きを放つ。エコは髪を鷲掴みにし、胸のあたりで髪留めを使って束ねた。サビひとつない銀色のハサミは雑貨屋で購入した品で、人間たちが散髪専用に製造した特別な型だそうだ。
さて、今回はどんな髪型にしよう。夏のあいだにのみ許されたイメージチェンジの機会である。普段はセミロングに落ち着くのだけれど、失敗しても三日もすれば髪はふたたび腰まで伸びるのだし、今回は思いきった髪型に挑んでみてもいいかもしれない。ボブカットとか。
無造作に黒髪を掴んで肩のあたりからバッサリやろうとしたとき、頭上から「なにしてるの」とメーチェの声がした。
ホーリースター教会の二階の窓が開け放たれ、吹き込む風が室内のカーテンを揺らしている。ホーリースター教会の居候である幽霊の少女が、窓枠に体を預けるようにして上半身を乗り出していた。彼女の白いワンピースが木漏れ日を反射してきらきらと眩く輝き、裾のたなびきが小川のせせらぎを思わせた。
隠者であるメーチェが屋外に姿をさらけ出しているところを見ても、エコは慌てることなく手を振った。巨大樹に巻き付いたフジの葉が天蓋となって空を覆っているため、上空からの目を気にせずに庭へと出られるようになっていた。天然のカーテンに守られた、ここはふたりだけの庭である。
メーチェが教会の二階の窓から無造作にジャンプした。幽霊である彼女は落下速度を自由自在にコントロール可能だった。風にたゆたうパラソルのような重みを感じさせない身のこなしでふわりふわりと空から舞い降りる。その気になれば、彼女は空だって飛べるのである。
靴を履いていないことを遠慮してか、メーチェは地表から数センチすれすれの位置で滑空しながらひとつ目シスターの元へと擦り寄ってきた。
が、エコはメーチェを手で制して低い声を出した。
「メーチェ。窓から飛び降りてはいけません」
「えっ。でも危なくないし、どこも痛くないし」
「そうではなく、お行儀が悪いといっているのです」
「おぎょうぎ?」
「そうです、お行儀です。窓からお部屋まで戻って、改めて玄関からここまでおいでなさい」
「はぁい」
わかったようなわからないような様子でメーチェはいわれたとおりにした。ふわふわと二階の窓へと浮遊していき、しばらく姿が見えなくなったと思ったら玄関から子供用の靴を履いて庭へと降りてきた。彼女は不満そうな素振りも見せず、ただ無表情でエコに付き従っている。
ことほど左様にエコはメーチェの素行に関して指導をする機会が増えていた。
学校へいったこともなければ礼儀作法も教わったことがない彼女は、気がつけば靴を履いたまま教会を歩き回ったり、破けた服のままでも平然と室内をうろつきまわったりすることがあった。きいたところ彼女の育った環境では、食前に手を洗う習慣もなく、衣服を不潔にしたまま一ヶ月ほど過ごすことさえあったという。
もちろんエコがそのような野風俗を許すはずはなかった。
行儀という側面からももちろんであるが、ここケダモノシティでは衛生観念のケアを怠ると思わぬケガや病気にかかるケースがある。普段から不潔にして過ごしているケダモノが些細な切り傷を化膿させたり、微熱がいつまでも続くということも珍しいことではないのだ。最悪のケースは先日のシイロ少年のように正体不明の感染症にかかってしまうことさえある。
エコはなにかにつけてメーチェを叱り、諭した。していいことと悪いこと。いっていいことと悪いこと。それらを、ケダモノであるエコの倫理観と常識に照らし合わせてではあるものの、懇切丁寧に伝えていった。
メーチェは貪欲にエコの教えを汲んでいった。するなと命じられたことはせず、命じられたことには従順にしたがう。子供にしては少々過剰なほどの素直さであったものの、素行の悪さが改善されていることに違いはないためエコはさして気に留めなかった。
「それで、エコはなにをしてたの」
「髪を揃えているんです。夏になるとすぐに伸びてきてしまいまして」
幽霊少女にエチケットを指導しつつ、エコはふと思いついた。
髪の毛は自分で切るよりも、ほかのひとに切ってもらったほうがきれいに仕上がるのではないか。床屋にかかる経費を考えてこれまで自分で散髪を済ませてきたけれど、やはりどうしてもザンバラな髪型になってしまうし。
もちろんメーチェはプロの美容師ではないから、理想通りのヘアスタイルへと整えるのは不可能だろうけれど、なにごともやってみなければわからないだろうと思う。
メーチェも女の子だし、ここはひとつお願いしてみようか。
「メーチェ。少々頼みたいことがあるのです」
「なぁに」
「髪の毛が伸びてきましたので、メーチェに散髪を手伝っていただければと思いまして」
「散髪? いいよ。あたしはなにすればいいの」
「このハサミでわたしの髪を肩のあたりから切っていただきたいのです。自分できれいに切るのは限界がありまして」
「……」
メーチェは言葉を失ってエコの瞳を見つめたのち、ハニワのような面持ちで自分の顔に人差し指を突き立てた。
「切る?」
「そうです」
「あたしが」
「はい」
「エコの」
「ええ」
「髪を!」
「……あの、もし不都合がありましたら、無理をなさらなくてけっこうですので」
「あ……う、ううん。平気。大丈夫だし!」
異様なテンションでメーチェが返事をした。気のせいか彼女の頬はバラ色に紅潮しているようだった。
「はい、これがハサミとクシです。使い方はわかりますね」
「んえ……わからない」
「わか……えっ、ハサミとクシですよ」
「うん」
「使ったこと、ありますよね」
「ない」
「…………」
嘘のような話だとエコは思う。
人間であればだれしも──エコでさえ毎日髪を梳かすのに──ハサミもクシも使ったことがあるはずだと思っていた。
そういえばメーチェのブラウンの髪はいつもエコが梳かしており、メーチェ自身がクシを使っているところを見たことがない。てっきりひとりでもクシ入れしているものだと思っていたが、よほど身奇麗にするのが苦手なのだろうか。それにしてはエコがクシを入れる際にはおとなしくしているのに。それともクシやハサミの使用法さえ、これまでだれにも教わったことがないなんて……、
エコは首を振った。
過去は過去。これまで使ったことがないのであれば、これから使えるようになればいいのだ。
これはいい機会だと考え直す。髪のセットさえしたことがないメーチェに女の子としてのたしなみを習得してもらうチャンスだと考えよう。クシの使用法やハサミの入れ方、髪のいじり方をここで覚えてもらうべきだ。
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