初夏──②
「では、ちょっとだけここでお待ちください。すぐに海藻を持ってきますから」
そういうと人魚の少年は持ち場を離れてスイスイと磯場のほうへと泳いでいき、あっという間に姿が見えなくなった。さすがは海の王者と呼ばれるケダモノだけあり、その泳法は優雅の一言である。
空から舞い降りてきたカモメが小魚を咥えて逃げ去っていく。エコのかぶる修道服のベールが夏の日差しを受けて熱を持っていた。人間であれば熱射病を起こしそうな日照りであるが、ドライアドのエコにとって日光はなくてはならない天からの贈り物である。彼女の髪には葉緑素が含まれており、植物の葉と同じように陽光を浴びることで多少の栄養を摂取することができるのだった。彼女が少食で生きていける理由のひとつである。
優しい陽の光に当たる彼女の体内に、黒髪を通じて甘い味が広がっていく。人気のない砂浜に座り、ふと幸福感を覚えるエコ。ベールを脱ぎ去ると髪に当たる日光がさらに強くなり、彼女の身体に力がみなぎるようだった。涼やかな海風が彼女の全身を包んで北の山脈へと吹き抜けていく。穏やかに揺れる水面には小魚たちが跳ねている。砂浜で潮干狩りをするケダモノの家族たち。寄せては返す波の音を聴きながら、メーチェにもこの風景を見せてあげたいと思う。
そのとき人魚の少年が、信じがたいほどの悪臭を放つ黒ずんだ海藻の詰まったカゴを背負って海面へと姿を現した。潮干狩りをしていたケダモノが顔をしかめて距離を置くほどの異臭を放つそのカゴの内容物は、すべて腐敗したアオサであった。
すみません、すみませんと周囲のケダモノたちに頭を下げながら、エコはカゴいっぱいに積み込まれたアオサを調べた。これだけ量があれば十分だろう。
人魚の少年がおずおずと尋ねてきた。
「あ、えっと……これ、本当に持って帰るんですか」
「ええ。みんな~」
代金を払ったエコが頭を垂れて手を叩くと、地面に待機していた十匹程度の軍隊アリたちが我先にとカゴへと駆け寄ってきた。彼らの口にはヒモが結えられており、ヒモの先端はエコが用意してきた台車に結ばれていた。エコがカゴを持ち上げて台車の上へ乗せると、台車の後ろに回って手すりを押した。従者の虫たちがそれにならい、一斉に台車を引っ張った。
茹だるような日差しの下を鼻歌交じりに歩いていくエコ。ホーリースター教会からマーメイディア海岸までは徒歩で一時間ほどの距離にあった。こうして街を散歩するのはエコの楽しみのひとつでもあるし、ドライアドのエコにとってはアオサやワタの腐敗臭もさして気になるものではない。怪力自慢の軍隊アリたちは黙々と彼女に付き従い、己の任務をまっとうしていた。この任務が終了次第、エコから報酬(クッキーのお菓子)をもらえる手はずとなっているため、彼らの足取りも心なしか軽い。
彼らは道中で進路を変更してマーメイディア海岸からさして離れていない場所にあるマリアヴェル河へと向かった。肥料として用いるアオサには少なからぬ塩分が含まれているため、そのまま庭の土に埋めてしまうと塩害が発生してしまうのである。エコは河のほとりでアオサのカゴを台車から降ろして緩やかな流れの真水に漬けると、ふたたび家路を辿り始めた。
夏の生命たちが花開くホーリースター公園。ケダモノたちは涼を取るため、あるいは食事を取るためにこの公園を訪れる。咲き乱れる花々には食用花も多く、草食系ケダモノにとっては格好の餌場となっている。丸々と美味しそうに太り肥えた虫たちの姿も多いが、彼らには決して手出し無用とされている。蟲たちの女王であるエコ・ランチェスターの逆鱗に触れれば命の保証はないものとまことしやかな噂が立っているためだ。
虫と植物の楽園と化した公園を抜ければ、エコの我が家であるホーリースター教会の庭へとたどり着く。庭先には春までとは異なる花々が植えられており、レンゲやアブラナといった地面に咲く草花から、朝顔やキュウリといったツル植物へと様相を変えていた。庭と公園との境界にはたくさんの紫陽花が植えられており、それぞれが青や紫といった色とりどりのボリュームのある花を咲かせて見るものの心を潤してくれる。
肥料の詰まったカゴを台車から持ち上げたエコは、従者たちに解散を命じてから教会の庭へと足を踏み入れた。敷地内にはいたるところに木製の細い柵が建てられており、それは教会まで続く石段に沿って並んでいた。地面には小さな塹壕のような浅く細長い穴が掘られており、それらは網の目のごとく庭のあちこちを走っていた。
エコは背中のカゴからアオサを掴んで、その長穴へとまんべんなく投げ入れていった。エコは街のケダモノたちの排泄物以外にも、このように海産物を肥料として使うことがある。教会中に腐臭が漂うこととなったが、教会主であるエコ・ランチェスターは素知らぬ顔であった。どうせ数時間後には土へと還り、臭いは霧散するのだから。
ひとわたりアオサを庭にぶちまけたエコはその場にカゴを置いてから石段を渡り、教会の正面の扉を開けた。
静謐な空気に包まれた礼拝堂にはステンドグラスからカラフルな光が差し込んでいた。閉ざされた空間に舞う小さなホコリが光を反射してキラキラと輝いている。
エコが小さな声でメーチェの名を呼ぶと、彼女は長椅子のあいだからひょっこりと顔を出して、一冊の本を手に持ったままエコの元へと足音を立てずに忍び寄ってきた。どうもこの少女、気配を殺して移動をする癖があるらしい。
「ただいま、メーチェ。その本は読めましたか?」
「ん。えっと……」
小さな声でメーチェが答えて、その小さな顔をエコから預かった本で隠した。その長方形の薄い本は、エコが子供のころに愛読していた絵本である。
ともに暮らし始めてから一ヶ月ほどして知ったのだが、メーチェはほとんど文字が読めなかった。人間社会ではほとんどの子供が文字の読み書きを覚えるはず──マリアヴェルにさえ人間用の学校は存在している──なのに、もっとも簡単なアルファベットの読み方が辛うじて読める程度の智学しかなかった。エコでさえ聖書を半分ほど読み解けるというのに、彼女には一ページも理解できなかったのだ。驚くべきことに、メーチェは学校にすら通ったことがないという。
驚きと哀れみを覚えたエコは、彼女に簡単な絵本を使って文字を覚えてもらうことにした。まずは基礎となるアルファベットと単語を教えて、それを何度もノートに書き写させるというオーソドックスな学習法。文章を読めるまでに力をつけたところで、絵本の物語を自分で解読するように指導していた。結果は……。
「ごめん、エコ。わかるような、わからないような、そんな感じだった」
「……そうですか。でも大丈夫、慌てなくていいです。じっくりと理解していけば。時間はたっぷりありますからね」
エコの経験上、あやふやな理解とはすなわち〝わかっていない〟のだ。メーチェに教鞭をとってくれる教師が欲しかったが、一般的なケダモノは学がないし、メーチェ以外の人間はすべてマリアヴェルから追い出されている。せめて教え方の指針となる本でもあればいいのだが……。
ステンドグラスから差し込む光に橙色が混じり始めた。そろそろ夕刻である。食事の準備の前に、終わらせなければならない作業がエコにはあった。
この時刻に教会を訪れるケダモノはいない。エコは大きな瞳で白衣の少女を見下ろしつつ尋ねた。
「メーチェ。しばらくのあいだ庭で作業をしてきます。よろしければ、ご一緒しませんか」
「いいよ。どこでもいくよ」
エコは準備しておいた植物の種を礼拝堂から持ち出すと、庭へと踵を返した。そのあとを小さな白い影がついてまわる。
ビー玉程度の大きさの茶色い種子を、柵のそばに均等な間隔で植えていく。フジの種だ。
秋になると紫色の花を茂らせるマメ科の植物で、細い木製の柵を支えにして庭全体を覆うようにして茂らせることにしたのだ。
すべてはメーチェのためである。
この数ヶ月ほどのあいだ、ケダモノたちの目を避けるべくメーチェは教会内で息を殺して生活してきた。
幸いなことの幽霊である彼女には食費がかからないためホーリースター教会の財政が圧迫されることはなかったものの、陽の光すら浴びず、日陰で隠れて暮らすことが心身の健康にいいとエコには到底思えなかった。せめて教会の庭くらいは自由に散歩させてあげたかった。
とはいえここマリアヴェルでは、空からの視線にさえ油断がならない。上空を活動の拠点とする鳥人たちからしてみれば、マリアヴェルはいつでも眼下から一望できてしまうのだ。教会にエコ以外の女性が暮らしているなどと知られるわけにはいかなかった。
そこで一計を案じたエコは、背よりも高い場所に緑のカーテンを敷き詰めることに決めた。空からの目をごまかせる間隔で設置された木棚いっぱいに茂らせる。エコが考案した天然の隠れ蓑である。
エコは瞳を閉じて、肥料まみれの臭気を放つ畑に手を添えた。
横穴にそって撒かれた種子が身震いし、発芽する。白い根が地中へ潜り込むと、事前に撒いておいた地中の水を吸い上げてその柔らかな茎と葉がむくむくと成長していく。腐敗したアオサやワタが土壌の糧となり、新たな植物を育てるという、植物の精に祝福を受けた土地でのみ許された奇跡の時間だ。植物の成長促進は人間であるメーチェには刺激が強い光景であるらしく、感心しきりに命が育まれるさまを見届けていた。
西の丘陵に日が沈むころには、紫色のフジの花がホーリースター教会の中空からぶら下がっていた。庭の入口にはフジでできたアーチがかかっており、ちょっとした秘密の花園といった様相を呈している。背の高い紫陽花のおかげで公園から教会の庭を覗き込むことは困難であり、いまやホーリースター教会は人目にさらされることのない深緑の隠れ家と化していた。裏庭の畑ばかりは日光を遮るわけにいかないため手付かずのままだけれど。
小さく息をつくエコ。柵を立てたり穴を掘ったりと力仕事に時間を費やしたため、疲れが生じていた。大掛かりな改装を終えたばかりで痛む腰をとんとんと叩きつつ、エコはメーチェにいった。
「これでメーチェはいつでも庭で遊べるようになりました。裏庭の畑まで足を運ぶことは構いませんが、その先にある墓所にはケダモノが訪れる可能性がありますので、なるべく顔を出さないようにお願いします。それと、庭のアーチをだれかが潜った際にはミツバチが知らせてくれますので、そのときは教会のなかへ戻ってくださいね」
「あ……うん」
どこかぼんやりとした面持ちで生返事をするメーチェ。エコはその様子が気になった。メーチェは時折、このように心ここにあらずという風情になることがある。もしかして、一度にいろいろと説明しすぎただろうか。それとも規則でがんじがらめにされたことが快くないのか。フジに囲まれた教会の庭でエコが問うた。
「どうしました? ……もしかして、フジがお気に召しませんでしたか。朝顔やカロライナジャスミンのほうがお好みでした?」
はっとした顔でメーチェがエコを振り仰ぐと、その折れそうな細い首をブンブンと大きく横に振った。
「ううん。嬉しい。この花もとてもきれいだし、自由に外に出られて嬉しいよ。けど、庭じゃなくっても」
それから、ちょっと言いづらそうに彼女は打ち明けた。
「あたし、エコがいるところなら、別にどこでもいいし」
エコは、その言葉の意味を理解するのに少々手間取った。
〝エコのいるところにいたい〟
単純にそういう意味だと悟ったエコの胸に、不意に胸のなかに熱いものが生じた。
メーチェのほほにそっと手を添えると、彼女もそれを嫌がらずになすがまま受け入れた。
幽霊であるメーチェのほほは、悲しいほどに冷たい。
──────
先日、エコはメーチェの死亡を役所に届け出た。
カバンに詰めた少女の骨を受付に提示すると、あっさりと指名手配されていた人間の死亡が確認された。エコは指名手配の人間の死を確認したケダモノとして相応の報酬を受け取る権利を得たが、即座に辞退した。市からの補助金ももらえないエコにとって、その金額は決して安いものではなかったけれど、メーチェを餌にして汚れた金を得るような気がしたのだ。
ほどなくしてメーチェの死はマリアヴェルに周知され、彼女への指名手配も解かれる運びとなった。これで人間の影を探してうろつきまわる無頼の輩も少なくなることだろう。
しかし幽霊であるとはいえ、メーチェの存在がまだこの世に存続していることが知れたら人間狩りが再開されるだろう。メーチェの安否も大事だが、街のムードが刺々しくなってしまうことは避けたかった。
いまエコにできることは、教会の庭をたくさんのフジで迷路状にカモフラージュして、教会の敷地内を外から見えないようにすることくらいだった。
元々来客はほとんどない教会であるが、さらに念を入れてミツバチたちの巣を目立たぬよう迷路の入口付近に配置して、だれかが訪れた際にはすかさずエコのもとへ報告を入れるように命じた。来客があればメーチェはすかさずホーリースター教会内部へ駆け込み、姿を隠すことができる手はずである。
が。
もちろんこれは事態の根本的な解決にはなっておらず、メーチェはいまも教会の敷地外への外出を許されていない。
暦は六月。雨に恵まれる季節が訪れようとしていた。
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