初夏──①

 ケダモノシティの夏季は渡り鳥の来訪とともにやってくる。

 潮の香りを運んでくる海風。暦の上では六月だが、マリアヴェルに漂う湿った空気にはすでに梅雨の気配が漂っていた。

 ケダモノシティ南地区に位置するマリアヴェル港。マーメイディア海岸の半分の面積を占める人口の港は、かつて人間が暮らしていた時代に建造されたものだ。錆止めコーティングの施された鋼の埠頭にはカキやフジツボがびっしりとこびりつき、海底の岩場にはカキやウニが我が物顔で繁殖している。少し離れたところにある入江は海藻と軟体動物の宝庫で、ナマコやカニといった生き物もわんさか漁れる。南地区を囲うようにして建設された堤防は三日月の形に海へ張り出しており、内湾は波も穏やかな海洋生物たちの楽園であった。

 そのマリアヴェル港を根城にしているケダモノたちがいた。

 人魚である。

 上半身は人間、下半身はウロコが生えた魚類というオーソドックスなハーフタイプのケダモノである。

 絵本の世界から抜け出してきたかのような彼らであるが、空想上のそれとは異なりオスが存在する。筋肉質の日焼け兄貴や禿頭の小太りオヤジの人魚が波打ち際で引網漁業を営んでいる光景も珍しくない。マリアヴェルを訪れた人間は、美女ばかりで塗り固められたおとぎ話とは一線を画す現実に打ちのめされることだろう。が、オスの人魚はメスと比べて圧倒的に個体数が少なく、全体から見ればやはり女性の園であることには違いない。

 そして、人魚は臆病である。

 海を寝床とする生物たちは基本的に騙し合いの世界を生きている。擬態や寄生など当たり前。ふと油断すれば背後を取られ、毒を盛られ、悲鳴をあげる暇もなく狡猾なハンターの栄養になってしまうのだ。愚者は長生きできないというのが、海中における前提のルールである。

 そんな修羅の世界を生きる海生動物たちのなかでも、人魚はその優美な外見と同様に気が優しく、小心者である。海藻やオキアミ、貝といった小動物を主食とする彼らは強靭な消化器官と体力を有している。腕力に劣る代わりにその独特な泳法でもって捕食相手をかく乱し、見事に逃げおおすのが彼らのサバイバル術だ。人魚たちの住まいであるマリアヴェル港では養殖業が盛んで、ハマグリやアサリなどの貝類から始まってイワシやイシダイ、メバルなどの小魚が繁殖しやすいよう磯辺の環境を整えている。

 さて、彼女らは陸の住民たちとマリアヴェル港で海産物のトレードをおこなっている。魚の干物や貝の日干しを目当てとしたケダモノたちは、貨幣や野菜、民芸品などをカゴにつめて南地区へと足を運ぶこととなる。丘に上がることのできない海の女王たちも、こうして陸の野菜や肉類、乳製品を手に入れられるという寸法だ。

 そんな人魚たちの縄張りであるマーメイディア海岸に、一つ目のシスター――エコ・ランチェスターが訪れていた。

 夏用のシスター服は生地が薄く風通しがいい。長めの黒スカートが微風に揺られて彼女の細いふくらはぎをあらわにした。今日は日差しを避けるために頭にヴェールを被っている。白雪のようだった彼女の肌は、いまはほんのりと健康的に日焼けしていた。

 春から夏へと季節が移り、彼女の髪は透き通るような緑色から艶光する黒色へと変色していた。ドライアドの髪質は季節に合わせて変質していく。六月を過ぎてから髪の伸びも早くなり、三日に一度は散髪をしないとならないほどだった。

 エコはその大きな緑色の瞳を見開いて、浜辺に並べられたたくさんの海藻を吟味していた。時折、その細い指でコンブやテングサをつつき、ヒジキをいじっては小首をかしげる。視線を移しながら横へ横へと移動していくと、エコの革靴の裏で細かな砂粒が湿った音を立てて崩れていった。強烈な日差しであるにもかかわらず沖合から吹き抜ける風は涼しい。陽光が白波にきらきらと反射して、まるで白ウサギが踊っているかのようだった。

 食用海藻の物産展は海岸のあちこちでおこなわれていた。が、砂浜は比較的閑散としており、客として訪れた多くのケダモノたちは人工港のほうへと集っている。腕っ節の強い人魚たちがマグロやカツオ、イルカにクジラといった普段食べられない珍種を抱えて遠洋漁業から戻ってきたためだ。どうやら大漁だったらしい。当分のあいだ、マリアヴェル港はケダモノたちで賑わいそうである。

「うーん……」

 エコは砂浜のあちこちを探したものの、なかなか目的のものが見当たらなかった。毎年夏頃になると大繁殖するあのクズクズな海藻。今年はすでに廃棄されてしまったのだろうか。

 と、エコのすぐそばの波打ち際でひとりの少年が漣に洗われるようにして座り込んでいる姿が見えた。彼の手前には真っ平らな岩があり、その上に革の袋が置いてある。おそらく袋の中身は硬貨と紙幣だろう。この砂浜で会計をおこなっているのはこの少年に間違いなさそうだ。

「あのぉ」

 とエコが声をかけると、彼は「ひっ」と息を呑み、すぐさま波間に身体の半分を隠してしまった。水中へ逃げ込む最中、彼の下半身が水面から姿を現した。きれいな銀色の鱗がびっしりと生えた尾びれ。彼は数少ないオスの人魚のひとりのようだ。日焼けした肌に面長の顔立ち。日光に当たって色素の抜けた短い茶髪のよく似合う、十歳くらいの大人しそうな少年である。

 エコはシスター服のすそを曲げて岩の上へ座り込み、彼に尋ねた。

「すみません。今年はアオサは取れなかったのでしょうか」

「ア、アオサ……ですか」

 海から半分だけ顔を出したまま、人魚の少年はひどく赤面しながらエコの応対をした。

「アオサは、えっと……あまり食用としては向かないうえに毎年必要以上に繁殖しちゃうから、あっちの磯辺にまとめて廃棄して……あります」

「ああ、今年は磯辺に置いてあるんですね。えっと、それをカゴいっぱいに買取りたいのですが、お値段はおいくらほどですか」

「えっ。で、でもだって、あれは廃棄用のアオサですし……値段なんて特についてないんですが。それに、食べられなくはないですが、あまり美味しくはないですよ」

 正直な少年であった。少年の口元と切れ込みの入った胸元からボコボコと泡が吹き出している。まだ肺呼吸とエラ呼吸とをうまく使い分けられず、陸で会話することに慣れていないのかもしれない。

「食べるつもりではありませんよ。畑の肥料にしようと思っておりまして」

 想像もしなかった答えだったのだろう、少年が小さな栗色の瞳を見開いた。そんな彼の様子を微笑ましく見守りながら、エコがいう。 

「それと、干物を作る際に廃棄されたお魚のワタもいただけたらありがたいのですが、保存してありますか」

「ワタって……はわわ、内臓ですか。た、たぶん、港の倉庫にまとめてバケツのなかに保管してあるとは思いますが……」

「ではそれもいただけませんか。もちろんお代金は支払いますので」

「は、はい。あ。でも料金はどうしよう……アオサやワタにお値段なんて指定されてないや」

「適当につけていただければ大丈夫ですよ」

 あまり高すぎる値段だと困ってしまうが、その際には大人の人魚と渡りをつければいいだけである。ホーリースター教会の主である彼女は、この時期になると畑や公園のガーデニングの肥料として、廃棄予定の魚の内臓や採れすぎた海藻を求めてこの地を訪れるようにしている。事情を知る大人の人魚たちにとって、エコはお得意様のひとりであった。

「えーっと……では、これくらいで」

 そういって少年が提示した料金は中型の魚一匹分ほどの価値であった。磯辺の肥やしと化しているアオサに対してつけていい金額ではない。人魚である少年は算数が得意ではなく、適当に計算した値段なのだろう。

 が、エコはこの少年へのお駄賃と手間賃の意味も込めて快諾した。

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