晩春──⑪
マリアヴェルに夕暮れが訪れる。
山間に沈む夕日から差し込んだ光が空をエメラルド色に染め上げ、紫色の雲が湿った風に乗って北へと流されていくのが見える。春は南風に乗って遠方へ旅立ち、もうすぐ長い夏が訪れようとしていた。
エコは東地区の街道を歩いていた。さきほど招集した蟲の兵隊たちは図書館の前で解散させた。残っているのはエコの親衛隊である百匹前後のホエホエミツバチのみだ。少数精鋭である彼らにかかれば、数匹のケダモノ程度であれば問題なく無力化するほどの力がある。有事の直後であったが、物々しい昆虫たちを引き連れて出歩くのはエコの本意ではなかった。
まもなく宵闇に支配される東地区の町並みは、中央地区ほどの賑わいを見せていない。粘体性のケダモノたちが隊列を組んで街道を南下しているのを見かけた。おそらく職場からの帰りであろう。手も足もないスライムのような形状で地べたを這いずる彼らは、いったいどのような職についているのだろうか。
図書館からの帰路、エコは荒廃したビルの手前で歩みを止め、足元をじっと見つめた。
薄暗いビルの陰に腐乱した黒猫の死骸があった。往路でエコが冥福を祈った骸だ。
エコはしばらく黙したままその死骸を見つめていたが、おもむろに屈んでその冷たい骸を胸に抱き、ふたたび帰路を辿り始める。猫の形をした腐肉には少なからぬウジがたかり、ハエが周辺を舞っている。虫たちはエコの姿を確認すると腐肉を喰む作業を中断して大人しくなったものの、エコが疲れたような笑顔を向けるとふたたび肉を貪りだした。
すれ違うケダモノたちが一様に、猫の亡骸を抱くシスターへ奇異の眼差しを投げかけてきた。が、だれも彼女に声を掛けようとはしない。彼らには彼らの生活があり、エコにかまっている暇などないのだ。
中央広場に到着するころには西の空が藍色に変色していた。小鳥の群れが南風に逆らって力強く海へと羽ばたいていく。儚い光を放つ星々の祝福を受けた世界のなかで、ホーリースター教会は月明かりの反射を受けて銀色に照らされていた。
神聖な静寂に支配された礼拝堂の片隅にメーチェはいた。エコ以外のだれの目にも触れられることのないように長椅子の下に身を隠して、彼女は朝からずっと身を潜めていたのだった。
「エコ」
教会主の帰還を察するや、メーチェが礼拝堂の赤い絨毯を這いずるようにして姿を現した。夕刻になるまで帰宅しなかった彼女を責めるでもなく、彼女は無表情のまま訪ねてきた。
「おかえ……なにそれ。その、ほほの」
メーチェが目ざとくエコのほほに走るかさぶた痕に目をやった。ネズミ男に引っかかれてからすでに数時間が経過しているため、すでにかさぶたは剥がれてピンク色に盛り上がった肉が残るばかりである。明日になれば痕も残さずに完治するだろう。
心配げなメーチェの手をとり、エコは優しく微笑んだ。
「あなたが心配することはなにもありませんよ。今日はいい子にしていましたか」
「うん。あ、あのね」
メーチェは口ごもって身体をくねらせた。彼女が背後に隠そうとしているビニール袋には、黄土色の液体が溜まっていた。
「ごめんね。その……早く元気にならなくちゃって思って、エコが用意してくれた食事をなるべく食べるようにしたの。でも、どうしても戻しちゃうの。エコの料理はすごく美味しいのに、どうしても気持ちが悪くなって吐いちゃうの。せっかくあたしのために作ってくれたのに、ごめんなさい」
エコの胸が鉛でも注がれたかのように熱くなった。
もっと早く気づいてさえいれば。
どれほど苦しかっただろう。食事をとっても嘔吐してしまうと本に書いてあった。嘔吐する際には相応の苦しみを味わうとも。どれほど食べても、もう生き返ることはできないのに。もっと早く調べていれば、無駄に苦しませることもなかったのだ。
罪悪感に喉をつまらせながらエコが告げた。
「メーチェさんに大事なお話があります……が、その前にこの子を土に還そうと思います。しばらくお待ちいただけますか」
「いいけど……なにかするの? 一緒にいてもいい?」
「ええ、かまいませんよ」
喋らない骸と化した黒猫を抱え、エコはメーチェを連れて礼拝堂から裏庭へと移動した。
黒猫の体内にはさきほど以上に白いイモムシが大量に湧いているようだった。ともすれば崩れそうな黒猫の死骸を丁寧に腐れ穴の底に横たえると、エコは白いイモムシたちに退去を命じた。
腐れ穴を形成する柔らかな壁から大樹の根が姿を現し、黒猫の遺体に巻き付いた。根にびっしりと生えた白い根毛が、優しく労わるような滑らかな動きで黒猫の身体から肉片をむしり取り、水分と養分を吸い上げていく。骨にこびりついた筋繊維さえも愛おしそうに引き剥がし、貪っていく。
見る見るうちに黒猫の死骸は骨と毛皮ばかりとなった。猫の血肉が大樹の隅々まで行き渡り、ドライアドであるエコの養分へと変質していく。エコの肉体に健康的な力が湧いてくる感触があった。
このグロテスクな光景を、メーチェは押し黙ったまま見つめていた。水晶のようなその瞳の奥底に眠る感情を、エコは読み取ることができない。
メーチェが口を開いた。
「エコ」
「……なんでしょうか」
「木が、猫を、食べちゃったけど」
「そうですね。さきほどの黒猫の肉体は、いま、わたしが食べました。黒猫の肉はわたしが吸収し、わたしのなかで栄養になりました」
エコは訥々と言葉を紡いだ。
「こうして、命は次の命へと受け継がれていきます。たとえだれかに食べられることなく終えた生命も、微生物に分解されて土へと還り、植物たちの栄養になります。その植物たちは大地に根を張って動物に食べられたり、さらに数を増やしたりします。そうやってたくさんの命が成り立っています。無駄な死というものは存在しないのです」
「……」
「メーチェさん。あなたの肉体も、わたしが食べました」
「……」
「あなたに、話さなくてはならないことがあります」
エコがメーチェの右手を取った。黒猫の死骸を掴んだため腐敗臭を放つエコの手を、メーチェはいやな顔ひとつせずに受け入れた。
エコは自分にできる限りショックを与えないよう言葉を選んで、メーチェに訪れた不幸な結末を知らせた。メーチェがすでに命を落としていること。いまのメーチェは魂のみの存在であり、一般に幽霊と呼ばれていること。人間の世界では幽霊の存在が許されておらず、見つかれば狩られてしまうこと。そのすべてを包み隠さずに。
メーチェはエコの独白に耳を傾けたまま押し黙っていた。驚くほど透明な、澄んだ表情で。
「そう、だったんだ」
「……申し訳ありませんでした」
「? なにを謝ってるの?」
「あの夜、わたしはメーチェさんの命を助けられたものとばかり思っていました……が、力が及ばなかったのです。実際には、あなたはベッドの上で……」
「え。だから、どうしてエコが謝るの。あたし、すっごい大怪我をしてたんでしょ? 助からなくて当然じゃん。むしろ」
そこでメーチェは一度言葉を切り、真っ直ぐにエコの瞳を覗き込んだ。
「あたし、死ぬ前のことは覚えてるよ。エコがベッドまで運んでくれて、痛みや寒気を和らげてくれたでしょ。そのあと、あたしのことを抱きしめてくれて……すごくほっとしたんだよ。本当に、すっごく安心できたの。だから、エコは謝らなくていいんだよ」
エコの喉に熱いものがこみ上げてきた。まぶたが重くなり、視界が滲む。夜空から降り注ぐ柔らかな星の光に包まれて、幽霊の少女の輪郭が霞んで見えた。
エコはメーチェの命を救えなかった。その事実が重い痛みとなり、図書館からの帰路の途中、エコの心を激しく苛んでいた。
拭えない無力感と罪悪感。メーチェに真実を告げることが途方もなく恐ろしかった。絶望に打ちひしがれるメーチェの顔を想像しただけで、教会へ戻る足取りが重くなった。
「はい……はい」
エコは目尻を拭うと、メーチェの瞳を見つめ返した。
「メーチェさん。あなたをマリアヴェルの外へ安全に脱出させてあげられる方法を考えていましたが、いまはもう、人間たちの世界のほうがあなたにとって危ないようです」
「そんなの、生きてるときからそうだったから。いいよ、別に」
あっけなく、メーチェはそう言い放った。
エコはメーチェの言葉の真意が汲み取れなかった。生きているときから危険だったとはどういう意味か。彼女は人間社会に未練はないのだろうか。
メーチェがなぜマリアヴェルに忍び込んだのか、エコはまだ聞いていない。
メーチェが腐れ穴を覗き込み、抑揚のない声できいた。穴底に転がる遺骨は黒猫のものだろう。ガラス玉のような少女の瞳は、蟲と根に食い散らかされた亡骸を見つめている。
「あたしも、こんなふうにしてエコに食べられたんだよね」
「……ええ。あなたの遺体は、わたしが食べました」
「美味しかった?」
「はい。身体の内側がじわっと暖かくなるような、不思議な美味しさでした」
「……よかった」
メーチェが目を細めて口角を歪ませた。泣いているような笑っているような、見ているものの胸を締め付けるような物悲しい笑み。
ふたりだけの庭に、少女の声が響く。
「あたし、エコに食べられてよかった」
メーチェが空を見上げた。天へ枝葉を広げるようにしてそびえ立つ大樹の隙間から、銀色の月光が優しく降り注いでいる。
「あたし、生きていたころはよく目が見えなかったんだ。だけど死んでから、エコの顔も、遠くの山も、庭の花もきれいに見えるようになった。見えないより、見えるほうがずっといいもん。あたし、死んでよかったって思うよ」
「……」
──死んでよかったなんて。
エコは叫びたかった。どうしてそんなことをいうのかと。幽霊になって平気なのかと。
命を失ったということは、もう人並みの生活を送れないということにほかならない。食事の楽しみも、眠る喜びも、子供を作って育てる幸せからも永遠に遠ざかり、羨望の眼差しで命ある存在を眺めることになるかもしれないのだ。
あの日のベッドの上で、メーチェは助からなかったほうが幸せだったというのか。そんな悲しいことが許されるのか。死んだほうが幸せだなんて。
しかし、彼女の声からにじみ出る諦念がはっきりと証明していた。これは、メーチェの偽らざる本心なのだ。
死んでよかった、と。
「あのね。この身体になってから、お腹が空かないの。のども乾かないし、寒さや暑さも気にならない。これってどれだけ嬉しいことかわかる? もう飢えることがないし、飲み水の心配もする必要がない。寒さに震えて、暑さにうなされることもないんだよ。あたし、こんな大きくて立派で綺麗な樹に食べられて、よかった。こうして苦しみを感じない身体になっただけじゃなくて、エコの一部になれたんだもん。そうだよね。あたしが死んだのって、無駄じゃないんだよね」
銀色の月をスポットライトにして、メーチェはふわりと身体を翻した。真っ白なワンピースのスカートが遠心力で舞い上がる。若葉の香りたつ大地を舞台に、幽霊の少女は軽やかなステップを踏んだ。体重を感じさせない頼りない足取りで、しかし転ぶこともなく飛び跳ねる。
メーチェの身体はいつしか中空を舞っていた。靴が地表を離れたまま、蛍の化身を連想させる不思議な軌跡を描いて、彼女は空を飛んでいた。地表から数センチほど離れた位置を水平に滑空し、やがてメーチェはエコの大樹を靭やかに駆け上がると小鳥のように枝に止まった。あらゆるしがらみから解放された彼女の顔には、泣いているかのような苦笑が浮かんでいた。
春ももうすぐ終わりを告げる。
季節から取り残されようとする菜の花の香りに包まれながら、エコ・ランチェスターの胸中に奇妙な炎が灯っていた。
メーチェにどのような背景があってケダモノシティへ忍び込んできたのか、エコは知らない。が、死後に幽霊となって蘇るほど不幸な人生を送ってきたのは想像に難くない。メーチェ自身の口から事情を語ってくれるときがくるまで、触れずにおくべきだと思う。
問題は、彼女に居場所がないことだ。
ケダモノシティで見つかれば住民から通報され、街の外へ追放される。
人間社会で発見されれば多大な苦痛とともに電気で分解される。
自分の死を喜ぶほど凄絶な人生を送ってきた少女が、死してなおなぜ狙われなければならないのか。理不尽だ。
メーチェの痛々しい姿を思い出すと、エコの胸中で冷たい炎が火花を散らした。
まだ、遅くない、と、思いたい。
メーチェとはこうして意思の疎通ができる。手も触れ合えるし、言葉を交わせる。
たしかに命を落としてしまったけれど、幽霊として復活したじゃないか。それも本に書いてあるような悪魔じみた存在にならず、普通の女の子として。
これは、最後のチャンスではないかと思う。
幽霊化とは、生前に幸せを得ることができなかった少年少女たちがこの世界で幸福を感受するため、神が最後のチャンスを与えてくださったのではないか。そう考えなければ、あまりに救われないではないか。
幽霊が消滅する条件がふたつしか見つかっていないのであれば、エコがみっつめを見つければいいのだ。
エコは腹をくくった。
メーチェが幸福のうちに天国へ旅立てる日がくるまで、本腰を据えて教会でかくまおう。
──夏へ続く。
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