晩春──⑦
「いまさらですが、ハチやアリたちはわたしの命令を絶対遵守します。普段からだれも襲わないようにいいつけていますので、危険は皆無ですよ。牙を剥くのは、わたしが危機にさらされたときのみです」
「あ、それいいなぁ。すっごくいいなぁ。あたしも欲しいな、そういう命令をきいてくれる家来」
「家来とは違うのですが……それにカルマールさんには、あの男性たちがいらっしゃるではないですか。お付きの」
「ああ……うーん、命令をきいてくれるっちゃくれるんだけど、自我が強い連中が多いからねぇ。纏め上げるのに苦労してさぁ。それはそうと、泥沼になる前に交渉の席を設けてよかったわ」
リィラが金色の瞳を見開いて、木造のテーブルに上体を突っ伏した。子供っぽい無防備なその仕草が、エコから毒気を抜いていく。
「シスター・ランチェスターさぁ。この図書館に踏み込んできたとき、すっごい形相だったんだからね。マジでどうなるかと思ったもの」
「……戦うことにならなくてよかったですね」
「怖いこといわないでよねー。きみの蟲たちが相手じゃ、十分も持たずにあたしたちは肉塊になっているよ。エントランスで転がってるネズミみたいに。でもまあ、ある意味では大群で攻めてきてくれたのは不幸中の幸いだったかな。あれだけの数の暴力を前にしては、こちらとしても暴力で解決するわけにはいかなかったからね」
リィラ・カルマールがふと、あごに人差し指を乗せて考え深げな顔をした。
「そうそう、交渉だったね。そんで、シスター・ランチェスターが調べたい本ってのはどれのことよ? これだけの騒ぎを起こしてでも読みたい本って、よっぽど大事なもの?」
単純な好奇心からだろう。リィラが歯に衣着せず、核心をついた質問をしてきた。
「えっと、それは……」
「あたし、ヒマなときにはいつもここの本を読んでるから、ちょっとは物知りよ。だからこうしてたくさんの本を自室に運び込ませたくらいだもん。資料なんか読まなくても、あたしで答えられることなら、答えてあげようか。ネズミ男とさっきの悪口の侘びも兼ねてね」
だから宗教学に関して造詣が深かったのか、とエコは思った。
普段は食事も兼ねて男を漁り、時間を作っては人間が残した図書を読み漁る生活。エコには想像もつかないが、ひょっとしたらそれは、充実した日々なのかもしれない。まったく真似したいとは思わないけれど。
「そうですね……どうしよう」
しかし、困った。
リィラはおそらく純粋な厚意で手助けを志願しているのだろうと思う。が、ここで、〝人間の身体についての本です〟などと告げたら、エコがメーチェをかくまっていることがばれてしまうだろう。人間がマリアヴェルに潜んでいることは周知の事実だし、彼女は頭が切れる女性だ。
かといって、ウソをつくこともためらわれた。教義においてウソは罪のひとつとされている。天の意志にそむいてまでごまかしたくはない。
エコは少し考えたあと、小さな声でこういった。
「……女の子の身体についての本、です」
その答えをきいたリィラ・カルマールは一瞬、虚をつかれたような表情を浮かべ、やがて呵呵大笑した。
「ケケケケ、ケケケケケッ。なんだそりゃ。これだけ大騒ぎしておいて探してるのがアッチの本かぁ。いいなぁ。生娘だなぁ、うん」
エロ親父のような相貌で、三日月型に唇をゆがめたリィラが顔を近づけてきた。
思わずのけぞるエコの鼻を、ふと芳しい香りが掠めた。コロンのような人工的な芳香ではなく、野道に咲く真っ赤なバラのような、心を落ち着かせるような自然な香り。
やはり美人だ、と思う。
男性でなくても心を奪われそうな整った顔立ち。ヒクイドリの濡羽のような艶やかなブロンド。なにより、その意志の強そうな眼差し。
サキュバスの瞳に飲まれそうになるエコに、嫣然とした声音でリィラがささやく。
「よく見たらシスター、なかなか器量よしだよね。彼氏とかいるの」
「え……えええっ。いません、いるわけないじゃないですか。聖職者ですよ、わたし」
「だよねぇ。ということはお腹に赤ちゃんがいる可能性は非常に低いから……わかった。性教育の資料を探しにきたんだ。近所の子供に教えるとか?」
「い、いえ……あの、その」
こういう話題になるとエコはとたんにしどろもどろになってしまう。
しかし、彼女の誤解は好都合といえた。エコは顔をうつむけて、小さな声で告げた。
「すみません。恥ずかしいので、調べ物をする際にはひとりにしていただけますか?」
「ああ、いいよ。しかし、性教育ならあたしがしてあげてもいいのにさ。あたしがきみに、手取り足取り」
「あいにくですが、お断りします」
にっこりと、しかし毅然とエコはつまらないセクハラをはねつけた。
「ケケケ。冗談、冗談だって。資料の場所なら、そこの検索システムを使うとわかりやすいよ。どの棚に本が入っているのかすぐに教えてくれるから。あるいは、その検索マシンから直接教えてもらうのもいいかもね」
「直接、ですか?」
「話せるよ、その検索機。しかし、そんな資料を持ち出すために、こんな図書館くんだりまでくるかねぇ。熱心なこと」
「…………。ショッピングモールの本屋さんにあるかとも考えたのですが、あそこはたしか、人間が街を出て行く際に、業者のかたが持ち出していきましたから」
「そうそう。で、この図書館はまるまる放置してくれたからね。あたしはラッキーだったよ。ただで本が読み放題だからさ。ほかのケダモノたちが本を読む楽しさを知らないからこうして独占してても許されるんだけどね。じゃあね、あたしは外で待ってるから、好きな本を探しなよ」
背を向けるサキュバスの背中へ向けて、エコは小さく頭を下げた。
「あの……先ほどは唾から守っていただいて、ありがとうございました」
「なんのことだっけ? 忘れたなぁ~」
リィラは右手をひらひらとなびかせながら会議室から退室していった。
会議室にひとり残されたエコは、シスター服のしわを直しつつ会議室の空気を胸いっぱいに吸った。
エコは思う。リィラ・カルマールという女性は第一印象とは違い、いいひとなのかもしれない。
──────
会議室を無事に抜け出したリィラ・カルマールは安堵のあまり床にへたり込みそうになる。
図書館の至るところでハチが飛び交う気配、アリが這いずる音がする。先ほどよりも室温が上がっているのは、ミツバチたちが羽根を擦る際に発する摩擦熱が冷房を上回り、空調が効かなくなっているせいに違いない。温度を感じさせない冷徹な複眼の群れがリィラを射すくめる。彼らの一匹一匹はさして問題ではないが、群れをなしたとき、ケダモノを死に追いやるだけの力が発生する。
心臓に悪すぎる。
よく命があったものだと思う。
事実、一つ目のシスターが身の毛もよだつ形相で、冗談みたいな数の虫たちと共に図書館へ踏み込んできたとき、リィラは「あ、今日が自分の命日になるかな」と覚悟を決めていたのだ。
事前にうろこ男からの報告を耳にしたリィラが、闖入者がドライアドであることを察して「決して攻撃を加えるな、これ以上刺激するな」と部下たちへ武装解除の指令を下していなければ、とち狂った部下がエコに本を投げつけて虫たちを怒らせ、図書館の床には死体の山が築かれていただろう。エコとカルマール家との戦力差は比べるのも虚しくなるほど隔絶していた。
可能な限りの非戦闘員を裏口から逃がしておいたのも功を奏した。人数が多いほど想定外のヒステリーが発生する可能性が高くなるためだ。図書館にはいまの三倍近い客がいたのだが、眠りこけていた客すべてを叩き起こしてこの場を離脱させておいてよかったと思う。
エコが虫たちに武装解除命令を出したあとも巧みな言葉で牽制してエコの本心を探りを入れ、交渉を成立させた。平和的に事態を解決したかったのは、リィラも同様だったのだ。ギリギリの綱渡りだった。部下たちの手前、最初から全面降伏するわけにもいかず、かといって正面から殺しあったら、待っていたのは単眼シスターによる一方的な虐殺だっただろう。
リィラがエコ・ランチェスターという名のシスターを知らないはずがない。ケダモノシティで生きていくうえで、危険なケダモノを認知しておくのは当然のことだった。
ドライアドはマリアヴェルにおける有数のA級優良種であると同時に、A級危険種でもある。蟲を従え、草花を操る植物の女王。豊穣の象徴でもある慎ましやかな彼女には「決して怒らせるな」という逸話がついて回っている。
ドライアドの恐ろしさは、普段のおとなしさからは想像もできない気性の荒さにある。彼女を敵に回すということは、マリアヴェル中の蟲や植物を敵に回すことと同意であった。マリアヴェルの教会に咲く慎ましやかな百合にこそ、触れてはならない毒があるのだ。
しかし──とリィラは思う。
第一印象こそ凄まじいものであったが、この半時間ほど話した手ごたえは噂とはまた異なるものであった。
シスター・ランチェスターは怒らせると手が付けられないが、その本質は気が優しくお人よしらしい。
女の子の身体についてだって? いいじゃないか。これできっかけは作れたというわけだ。
リィラの唇が弧を描いて歪む。
あのシスターは便利そうだ。
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