晩春──⑥

 リィラの先導を伴って、エコは本棚の森をすり抜けていく。ラウンジとは異なり、図書館の深部は年季の入った書籍たちのほろ苦いにおいに包まれていた。人間たちがいなくなったあとも、だれの手に取られることがなくてもひっそりとそこにある本たち。

 案内された会議室の扉には「カルマールの部屋 男子禁制」と書かれたホワイトボードがかけられていた。

 もしかして、会議室を私室として利用しているのか。贅沢な話だなぁとエコは思う。

 会議室に踏み込んだエコの視界に映ったものは、まず本棚である。〝児童小説〟と看板の下げられた本棚や〝歴史コーナー〟と書かれた小さな書棚などが整然と並べられている。代わりに会議室にあるべきテーブルや椅子がほとんどない。部屋の隅には質素なベッドがあり、枕元にはクマのぬいぐるみが横たわっていた。リィラ・カルマールの私物だろうか。

 雑多な書類や新聞紙の山が積まれたデスクは、かつてこの図書館で職員たちが利用していたものだろう。ほこりの積もったデスクには、いまとなっては懐かしさを覚える紙製の書類とノートパソコンが置かれている。

 部屋の片隅には人間の子供サイズの鉄製の箱が置いてあった。かつてエコも利用したことがある、図書の検索システムである。よく見ればコンセントが刺さっており、まだ電源が生きているらしかった。画面にはなにも映されていないところもみるに、スリープモードに入っているようだ。

 エコは不思議に思う。やはり会議室はリィラ・カルマールの私室として使われているらしいのだが、机や本棚といったケダモノの生活とは縁遠いものが多い。生活するにあたって邪魔ではないのだろうか。

「ふうううぅぅぅっ」

 と、エコを会議室まで案内したサキュバスが背後の扉を閉めるや、唐突にそのふくよかな胸を手で押さえて盛大にため息をついた。

 なにごとかとエコがリィラを見ると、彼女はひたいの冷や汗を黒いドレスのそでで拭いつつ、小さく身体を震わせていた。薄化粧を施したその端正な顔には、ほのかに恐怖の色が浮かんでいた。

 彼女は両手を腰に当てつつ、眉間にしわを寄せてエコに詰め寄った。

「あー、怖かったぁ。ったく、いきなりハチやらアリやらが大挙して押し寄せてくるもんだから、こっちは死者が出るのを覚悟したよ。ほら見てみな、この冷や汗。まず、やることが大げさでいけないね、シスター・ランチェスター」

「は、はぁ」

 いったいどうしたというのか。それまで貴族然としていたサキュバスが、急に砕けた口調でぺらぺらとエコに語りかけてくる。

「おっと、まずはちゃんと謝らないとならないかな。さっきはあたしの部下がひどいことしたね。まったくあいつら、女の顔を殴るは、唾を吐きかけるは、男としてのプライドはないのかねぇ。彼らはあたしが相応の罰を与えとくから勘弁してちょうだい」

 そこまでしゃべると、リィラはエコのほほに走る傷をじっと見つめて小さくため息をついた。

「しかし痛そうだねぇこりゃ。傷跡が残らねぇといいんだけど。救急箱がたしか、人間が使ってたデスクにおいてあったはず……」

 そういって窓際のデスクに歩み寄ろうとしたリィラをエコは慌てて制した。

「あ、あの、ご心配なく。ドライアドは再生力に優れた種族なので、これくらいのケガなら一日もすれば痕も残さず完治します」

「そうかい? それならよかった。けど、念のために消毒はしておこうか。ネズミの爪はばい菌がいるからねぇ」

 長い犬歯を見せてリィラ・カルマールが振り返りながら笑い、「ほらアルコール。傷にかけておくといいよ。さて、座ろうか」とエコに椅子をすすめてきた。

 なんだか妙な流れになってきた。が、エコに断る理由もない。

 薦められるままにテーブルをはさんで腰をかけると、リィラが壁際の棚に常備してあった大きめのペットボトルを差し出してきた。中には透明な液体が入っている。アルコールは貴重品なのだが、使っていいのだろうか。

「あ、それとさっきはひどいこと言ってごめんね。シスター・ランチェスターが街の役に立ってないなんて本心じゃないから。さっきはああしてきみを牽制しておかないと、男性陣の溜飲が下がらなかっただろうからさ。男って無駄にプライドが高くてやんなっちゃうのよ」

 どことなく野暮ったい口調ではあるものの、リィラは貴族の敬礼もかくやという堂に入った身ごなしで頭を下げてきた。この女性の仕草には人を魅了する魔力のようなものが感じられる。

 エコは唖然としながらも、ずいぶんと様子の変わったリィラに対してたずねた。

「……さきほどとはずいぶんと印象が変わりましたね」

「まぁね。これがあたし本来の口調だもん。あたし、北の大地からマリアヴェルへ移住してきたんだけどさ、男は田舎くさいしゃべりかたを嫌うんだよねぇ。なんつーかな。高級感のある女を抱きたいんだって。だから男の前では毅然とした態度をとるようにしてるんだけどね。けどここなら男の目がないからさ」

 リィラは椅子にふんぞり返り、やれやれと首を横へ振った。

「そうなんですか……あ、そうそう」

 エコは本題を思い出す。世間話をするためにここへきたわけではないのだ。

「それで、取引とはどうすればいいんですか。わたし、どうしてもここで調べたいことがありまして。こちらからはなにを提供すればいいのでしょうか」

「ああ、あれね。あれ、ただの建前」

「……はい?」

「一応、あたしはここで女王様なんてやってるからさ。対面ってものがあってねぇ。〝女王様がシスターのいいなりになって無条件で図書館を利用させた〟となっちゃ、あたしも、そしてあたしを崇めている男たちの面子も潰れてちゃうんだ、これが」

「はあ……」

「かといって、きみの頼みを無碍にするのはもっとまずかった」

「どうしてですか」

 エコが小首を傾げたとたんにリィラ・カルマールは泣いているような笑っているような、なんとも奇妙な顔になった。

「そりゃきみ、断ったら蟲たちがなにをするかわからないからに決まってるじゃないの。本気で焦ったよ、ミツバチがわんさか図書館を飛び回ってるのを見たときは」

「それにしては、先ほどはずいぶんと落ち着いていらしたではないですか」

「そう見えたかい? ならあたしにもそれなりに貫禄があるってことか」

 さもおかしそうにリィラが笑う。ウェーブのかかった艶やかなブロンドのお姫様の本質を、エコには見抜けなかった。

 玉座に胡坐をかいていた姿が本当の彼女なのか。目の前でエコを相手に弱音を吐いているのが真の姿なのか。

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