晩春──⑤

 ぴんと張り詰めた空気のなか、リィラが問う。

「ときにシスター。暴力は戒律で禁じられていると思ったが、この騒動はどういうことだい。ハチにアリにムカデ……きみはこの図書館で蠱毒の儀式でも始める気かな」

 蠱毒の儀式なるものがなんなのか理解できないまま、エコは沈みがちな声で答えた。

「すみません。その……粗暴な方々が図書館を占拠なさっているのかと思い、こちらも武力を示させていただきました」

「粗暴ときたか。まだどうしてそう思った」

「先ほど、図書館の入り口で門番のかたとお話をしていたとき、いきなり殴られたからです」

「ふむ」

 ぴくりとサキュバスの眉が蠢いた。彼女はおもむろに吹き抜けの二階へ目を向けると、美声を張り上げた。

「トカゲ。彼女の言葉に相違はないのかな」

「は、はあ。そのクソシスターが図書館へ入れろとダダをこねてたらネズミがキレまして……」

「それで殴ったのか」

「へい」

「あちゃあ……それを先に言ってくれよ、まったく」

 それまで飄々とエコをからかっていたリィラがこめかみを指で押さえて考え深げにうつむいていたが、やがてブロンドの髪をいじりながらさらに質問を重ねてきた。

「そのほほの傷はネズミが先につけたものかい」

「はい」

「なるほどねぇ。きみんとこの教義じゃ〝右のほほを殴られたら左のほほを差し出せ〟とあったはずだが。愉快なことに、右のほほを殴られたらこうして全面戦争ふっかけてきてるじゃないか。シスターの分際で聖書の教えを守らなくていいのかい」

 エコは先ほどから違和感を覚えていた。このサキュバス、妙に博識だ。サキュバスが宗教学に精通しているという話はきいたことがないのに。

「戦争をするつもりはありません。ただ、父から聖書を盲信するなと言いつけられております。左のほほを差し出すつもりは毛頭ありません」

「ふうん。万物の宗主よりも自分の父親のほうが位が高いと」

「わたしは天の父も地の父も、等しく愛しております。わたしにとって、どちらが上ということはありません」

「ふむ。父親のいいつけなら、ケダモノをいたぶっても良心が痛まないということかな。ほほを殴られた腹いせに、相手のほほの肉をえぐるとは。顔を傷つけられたとはいえ、過剰防衛とは思わないかな」

「いいえ、まったく」

 エコはなんの気負いもなしに即答した。

「先ほども申し上げましたが、彼から先に殴ってきたのです。わたしは殴られたら、その十倍は殴り返す主義ですので」

 そしてエコは淡々と、決定打になるセリフを口にした。

「わたしに害を成すかたには、なにをするかわかりませんよ」

 周囲のケダモノたちが色めき立った。エコを面罵していたときとは異なる、ねじれた恐怖のようなものが図書館の床から二階、三階へと侵食していくようだった。

 実際ひとり、ミツバチによって半殺しにされたのだ。

 このシスターならやりかねないという恐れが図書館を席巻しつつあった。

「ケケ。ケケケ」

 リィラ・カルマールがさも楽しげに哄笑を上げた。人を小馬鹿にするような笑いが、図書館へなお美しく響く。

「なるほど、なるほど。面白い。まとめると、こういうことかい。殴られたときだけ殴り返す……つまりきみは自分が危害を加えられない限り、こちらへ手を出すことはないと」

「おっしゃるとおりです」

「なら、あたしらがきみにここからの退去を命じた場合にはどうなるかな。あたしたちは暴力を使わない。ここをやすやすと明け渡すつもりもない。ポリスはあたしの言いなりだ。さて、シスター・ランチェスターはどうするね」

「どうもこうもありません。あなたを説得するだけです」

「……ほお」

「どうかお願いします。ここにある本を調べさせてはいただけないでしょうか」

 そういうとエコは足跡まみれの床にひざをつき、見ているものの心を癒すような洗礼された仕草で深々と頭を下げた。

 一瞬、白けたような空気が流れた。図書館内のケダモノたちは呆気にとられたように、地に伏せるエコを見つめている。

 リィラが意外そうに片眉を吊り上げたと思いきや、両手を叩いてはしゃぎ始めた。

「ケケケ、ケケケケッ。ずいぶんと下手に出たね」

 さもおかしそうにサキュバスが笑うと、堰を切ったように図書館中に野卑な嘲笑が爆発した。

 このシスターは暴力を誇示しているだけで乱用はしない──そう察したチンピラたちが調子に乗り始める。

「ははは。はははは。なんだおい。これだけ蟲をかき集めておいて土下座かよ」

「そりゃこっちは男が五十人いるんだ。一斉にあのシスターに襲い掛かれば瞬殺に決まってるぜ」

「なにやってんだ、土下座だけじゃ足りねぇぞ! カルマールさんの靴を舐めろっ」

「うらっ、これでもくらえ」

 二階から罵詈雑言を浴びせる男のひとりがエコに向かって唾を吐きかけてきた。

 泡立った汚液がエコの背中にかかる瞬間、リィラの黒い翼を広げてエコの頭上へと差し出した。悪魔にも似た翼の皮膜が傘となって生臭い唾液からシスターを守った。

「えっ」

 驚愕に顔を歪ませる男たち。エコはゆっくりと頭を上げて、真正面からサキュバスの瞳を覗き込んだ。

 王座に腰をかける少女は二階を見上げて「バカめ」と小さくため息をつき、

「まあいいわ。きみはネズミに殴られたから数倍にして殴り返した。それで殴られた件はチャラでいいのか」

「え……はあ、まあ、そうですね。わたしはもう怒っていませんよ」

「それはなにより」

 一瞬だが、サキュバスは心から安堵したような面持ちになり、

「しかしこの図書館の実効支配権はすでにあたしのものだから、はいそうですかと資料を閲覧させるのはあたしの面子にかかわるね」

「……そう、ですか」

「かといって、ここまでしてもらってお引取り願うってのもねえ。どうだろう。きみがこの図書館で資料を閲覧したいってんなら、ここはギブ&テイクっていうのどうかな」

「はい? ギブ&テイク、ですか」

 予期せぬことにエコは交渉を持ちかけられた。

 この期におよんでエコにはサキュバスの目論見がまるでわからない。が、メーチェの体調を直す手立てが見つかるかもしれないという希望がエコの胸にほのかな熱を灯していた。

「ええ。ええ、かまいません。それでお願いします。ところで、わたしが資料を閲覧させていただく代わりに、カルマールさんはなにをお望みと……」

「それについては、だ」

 リィラ・カルマールは茶色いふわふわソファーから腰を上げると黒ドレスをふわりと翻して、本棚の森の奥深くを親指でくいと指し示した。

「ここじゃあ男どもの目がある。あっちで話し合わないかい? 人間たちが昔に使っていた会議室があるんだ。また変な茶々を入れられたくないからさ」

「……わかりました。みんな~」

 手を叩こうとするエコをリィラが制した。

「虫はなし。あたしもボディーガードを連れていかないからさ。きみたちもわかったね。あの会議室には近づかないように」

「しかしカルマールさんっ」

 心配げに声を張り上げる下僕たちへ向けて、リィラが女王様然とした含みのある笑みを浮かべた。

「きみたちがいるから、シスター・ランチェスターも不安がるんだよ。むしろ女同士、水入らずで腹を割って話し合ったほうが手っ取り早そうだ。第一、このあたしがシスターひとりに負けるとでも思ってるのかい?」

「い、いえ……」

「なら、きみたちはとっとと全員二階……いや、三階で待機してな。話し合いが終わったら、あんたたちまとめて可愛がってあげるから、おとなしく待ってるんだよ」

「マジっすか」

 ケダモノたちの瞳が爛々と輝きを増し、我先にとこぞって三階へと階段を駆け上がっていく。

 エコは唖然とした。可愛がる、と耳にしたとたんにだれも一階にいなくなってしまった。よほどカルマールのご褒美にありつきたいのだろうか。

 しかし、彼らはリーダーの命令にしたがって武力解除をしてくれたのだ。エコも誠意を見せなければなるまい。

 小さく息をついて、エコは従者たちを振り仰いだ。

「みんな。これから大事なお話があるから、ここで待っていてね。ここにいるひとたちを怖がらせないように」

 虫たちが羽音で返事をした。彼らは命じられたことを淡々とこなすのみ。冷徹な兵隊たちは、会議室へと姿を消すふたりの娘を微動だにせず見送った。

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