晩春──④

 エコの昆虫たちはすでに殺し合いの準備が完了していた。鋭いアゴをむき出しにした軍隊アリたちがエコを中心にして広がっていく。が、こちらから男たちに襲い掛かることない。あくまで牽制と専守に準じるように命じてあるためだ。

「この蟲たちは、わたしが危害を加えられない限りはあなたがたを攻撃しません。どうか怖がらないでください」

 エコの一言は、図書館に充満していた不穏な空気を少しは払拭させることができただろうか。少なくとも、二階と三階で百科事典を投擲しようとしていた男たちがゆっくりと本を下ろす姿は確認できた。彼らも死にたくはないらしい。

 一触即発の空気のなか、くくっとくぐもった笑い声をたてて、ソファーに寝そべるサキュバスが上体を起こした。

 そして、意外な言葉を口にした。

「まさかとは思ったが、やはりきみか、ホーリースター教会のシスター」

「?? わたしをご存知なのですか」

 エコは怪訝そうに問い返した。

 自分はマリアヴェルにおいて、さして有名なケダモノではないはずなのだが。それとも彼女とはどこかで出会っているのだろうか。エコは相手の顔と名前を覚えることは苦手なほうだが、これほどきれいな女性であれば記憶に残るはずだけれど。

 サキュバスは口元に手を当ててケケケと上品に笑った。

「気づかないならいいさ。あたしはリィラ・カルマール。この図書館の主にして、東地区のまとめ役をしてる。シスター・ランチェスター……違うとは思うが、きみは北地区の連中の差し金ではないよね」

「北地区?」

 不意に意味不明な言葉を投げかけられて面食らうエコ。

 きょとんとうろたえる大きな瞳を、リィラ・カルマールと名乗ったサキュバスは穿つように見つめ、やがてにっと笑った。ルージュの塗られた薄い唇から飛び出した長い牙が薄暗がりでさえ光沢を放つ。

「なに、違うならいいさ。改めてようこそ、我が愛の巣へ」

 と告げるとカルマールは優雅にソファーから立ち上がった。彼女の一挙一動を食い入るように見守る周囲のケダモノたち。なかには嘆息するオスさえいた。

 エコは、ひとつしかない眉を器用にひそめた。

「我が愛の巣ですって……」

 聞き捨てならない言葉だった。

 ここは市民みんなの図書館なのに。エントランスに無造作に捨ててあった酒瓶も、場所を移された机や椅子も、やはりすべて彼女の仕業か。

 エコの胸に義憤にも似た熱が宿る。主人の呼吸のペースが少々早まった気配を察しても、子分の昆虫たちの氷土のような闘志に揺らぎはなかった。

 小さく息を吐いてから、

「図書館の主って、どういうことですか。図書館は街の住人みんなのものです。独り占めすることは許されないと思います」

「どう許されないのかな。ここ数ヶ月、この図書館へ本の貸し出しを目的にした利用者などいないけれど」

「そういう問題ではないでしょう。ルールには従うべきです。現に、こうしてわたしが資料を閲覧しにきました」

「ふうん。珍しいな、普通の図書館の利用客とはね」

「そうです。なのに、カルマールさんがここを占拠しているために門番をしているひとに追い返されそうになりました。一般客にもそのような対応を取られているのですか」

「ケースによりけりかな。精力の有り余った男性なら歓迎するが、きみのような世間知らずな女性は決まってあたしにたてつく。そういう場合には、入り口でお帰り願うこともあるさ。ま、もっともご覧のとおり、ここは女性は立ち入らないほうがいい場所になってしまっているけれど。門番にも忠告されただろう?」

「手前勝手なことを……ポリスへ通報しますよ」

「やってごらんよ。だれもきみの話などに耳を貸さないから」

「……なぜそういいきれるのですか」

「ケケケ。なぜなら現に〝いま〟きいていないじゃないか。そのポリスの職員が」

「え? えっと……それって、つまり……どういうことですか」

「この場に三人いるねぇ、ポリスの職員が。すごい顔できみを睨んでいるよ」

 意味が、わからない。

〝この図書館にポリスの職員がいる〟という現実は、エコにとってあってはならないものだった。街の治安を維持する、公然の組織たるポリスがサキュバスの手に堕ちているなど、考えたくないことだった。

「ポリスの重鎮はすでにあたしが籠絡している。あたしの大事な顧客のひとりであり、大事な下僕のひとりさ」

「ウソ……ウソです。ポリスがそんな」

 昂然と高笑いを上げるリィラ。エコの言い分を頭から否定しつつ、相手に現実を突きつけた上で勝ち誇る。この場のイニシアチブは、目の前のサキュバスが握っていた。

「ウソだと思うなら、いまからポリス本部へ連絡をとってごらん。きみが受付で鼻で笑われて袖にされるのが目に見えるようだよ」

「そんな……」

 エコは本棚の背後に隠れたケダモノたちを流し目で確認するも、彼らがポリスの職員であるかどうかなど判別のしようがない。

「そもそもこの図書館は、もう廃棄されたも同然だったんだよねぇ。廃棄された図書館ならさ、あたしが娼館として再利用してあげたほうが街のためってなもんだろう?」

「そんな無茶な……そもそもどうして図書館なんですかっ。人間たちが残した施設ならほかにもたくさんあるでしょう」

「ここは空調が効いていて涼しいからねぇ。人間が去ってから発電所から電気が送られなくなっただろう? ところが公共施設によっては自前の発電システムが設置されているところもあってね。この図書館もそのひとつさ。それにスペースが広いからたくさんの男を同時に相手できるし」

「そんなことのために、図書館を占拠なさったんですか……」

「大事なことだよ、空調は。汗だくでセックスをしてると体力を奪われるし、シーツの掃除だって大変になるからねぇ。男性たちだってましな環境を望むだろうしさ」

 エコは会話についていけなくなりつつあった。彼女の口から飛び出す不純な言葉の数々に耳を汚されていくような気がした。

「そもそも、どうしてあたしが図書館から出て行かなくちゃいけないのかな。あたしは東地区の住人に望まれてここにいるっていうのに」

「望まれてって……それは、男性に限ってのことでしょう。女性は」

「女性からも、だよ」

 リィラ・カルマールの口元から笑みが失せて、目元に涼やかな知性の色が浮かんだ。東地区の男を淫欲のままに貪るサキュバスとは到底思えない、理知的な視線がエコを射抜く。

「あたしがこの街を訪れたのは二年ほど前のことだ。そのころにはすでに人間たちの姿はなかったので図書館はもぬけの殻だった。幸か不幸か、向学心に溢れるケダモノは数えるほどしかいないし、識字率も高いとはいえない街だしね。あたしが図書館に根を下ろしても文句をいってくるものはいなかったさ。さて話が戻るが、なぜ女性からもあたしが認められていると思う」

「…………」

「簡単な話さ。あたしの稼業は男性から精を吸い上げて栄養にすること。精を吸い上げられた男性は性的欲求を満たされておとなしくなる。もともと東地区は男性の比率が高い場所だから、まさに入れ食いだったさ。みんなこぞってあたしの図書館へ足しげく通ってくれたよ。そして満足した殿方たちはみな、幸せな気分になって家へ帰っていくわけ。さて、ここで逆に考えてみようか。もしあたしがこの東地区にいなかったらどうなっているか。もともと女性が少ない東地区においてはどうしてもあぶれる男性が出てきてしまうね。あぶれた男が性的欲求を満たすには、自分で自分を慰めるか、ホモセクシャルに目覚めるか、あるいは手っ取り早く……」

 リィラは一息つき、至極真面目な声音で告げた。

「婦女暴行に走るかだ」

「…………」

「ポリスの顧客から耳にしたことだが、あたしが東地区に巣を張ってから強姦件数が極端に低下したそうだ。女性にちょっかいをかけるだけの余計な精気をあたしが吸い上げているため、東地区は多少なりとも女性が安心して暮らせる場所になったってわけさ。きみは中央地区から平然とこの図書館まで歩いてやってきたみたいだけど、ここへ到着するまで男たちからちょっかいをかけられなかっただろう? 女性にとって暮らしにくい東地区はもうどこにもない。男からも女からも、あたしにここへいてほしいの望まれているのさ。あたしが男から精を吸い取ることは、結果として街のためになっているんだよ……もっとも、なかにはあたしに嫉妬して牙を剥いてくる女もいるけれどね」

 リィラは悠然と両手を真横へ広げておどけて見せた。優美なるその仕草は、黒い翼を生やした天使のようだった。

 そして、その天使がにやりと口角を吊り上げる。いやな笑みだった。

「ところで……なあ、シスター・ランチェスター。きみは街のためになにをしているね」

「え? なにって……」

「いやね。人間たちが街を去ってからというもの、信奉者の数が激減したらしいじゃないか。教会の運営は滞りないかね。日曜のミサにどれだけのひとが顔を出してくれる。きみの助言を頼って告解室へ赴く信者はまだ残っているのかな」

「…………」

 話題をすりかえられている。そう気づいていても、リィラの巧みな弁舌が論旨を上塗りしていき、エコに反論の余地を与えない。

「きみの本懐はなにかね。そうそう、神の言葉を人々に伝え、迷える子羊を導くことだったかな。シスター・ランチェスター。きみは今日、なにをしていた。昨日はなにをした。明日はなにをする予定かな。あたしは知っているよ。この街ではきみの崇める神の信徒は、ほぼきみしかいないってことを。信者のほとんどは人間だったから、四年前を境にめっきりときみの教会を訪れるものはいなくなってしまった。いまのきみは、畑を耕して農作物を市場で売りさばく農夫にすぎないんじゃないかな」

「…………」

「ああ、落ち込むことはない。もともとケダモノは信仰心に薄い生き物だからね。きみが嫌われているとか、そういうわけじゃないんだ。ただ興味がないんだよ、きみの信じる神というものを。しかしね、だとしたらシスター。なぜきみはまだ聖職者にこだわっているのかな。信者のいない宗教はあたしとしても見るに絶えないんだ……みじめでね。きみがシスターを続ける意義はなんだい。きみの宗教ではたしか姦淫が罪だとされているけれど、どうだろう。象牙の塔の主を気取るきみより、罪悪にまみれたあたしのほうがマリアヴェルに貢献しているとは思わないかい」

 歌うような淀みのないリィラ・カルマールの言葉の刃物が、エコの胸を辛辣にえぐる。

「わ、わたしは……」

「そうだそうだ、いい加減にしろ、このクソ女がッ」

 轟然とした罵声が二階のテラスから降ってきた。先ほどのうろこ男がこぶしを振り上げながら、エコを悪罵してきた。

「オレは見たんだ。このシスターがネズミにハチどもをけしかけて、半殺しにしたのをよぉ。そのうえオレを拘束して、ネズミを拷問するところを見せ付けたんだッ」

 ざわり、と空気がたわんだ。怒りと恐怖の気配が図書館を支配していく。エコを非難する刺々しい空気が、あっという間に蔓延していった。

 エコが口を開こうとするより先に周囲から罵声が飛び交った。よそ者の意見など、男たちはきく耳をもたなかった。

「このウソつきが! この虫どもをケダモノに襲わせないっていったじゃねぇか」

「いますぐここから出ていけッ。オレたちの楽園にちょっかいを出すんじゃねえ!」

「カルマールさんはぼくたちの女神なんだッ。女に縁もゆかりもなかったこんなぼくにさえ優しくしてくれるんだよ」

「どんなプレイだってこなす淑女なんだぞ! おまえにコスプレができるか? SMができるか!? 赤ちゃんプレイができるってのかッ」

「生娘は帰れ!」

 メチャクチャな暴論に対し、エコは反論さえできない。唇を噛み締めて、大理石の床に立ち尽くしていた。だれもかれもがエコを一方的に非難し、怒りを向けている。いや。怒りだけでなく、ある種の優越感が態度ににじみ出ていた。リィラがエコの生業をこき下ろしたことで勢いづいているのだろう。

 ここに、エコをかばってくれる味方はいない。エコの存在は、この図書館において──いや、東地区において邪魔者でしかなかった。

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