晩春──③

 図書館の自動扉をくぐったとたん、ひやりとした風がエコの髪をすくった。図書館内は空調がきいているらしく、本の森は五月の室内とは思えないほどに涼しい。

 同時に、エコの鼻をくすぐる奇妙な臭いがあった。季節はずれの栗の花のような生臭さ。少なくとも図書館に似つかわしい臭いとは思えない。生花でも飾ってあるのだろうか。

 左右へ開かれた自動ドアからエコの従者たちが隊列を組んでエントランスへ突撃していく。軍隊アリがカーペット床を扇状に拡散していき、ゾゾムカデがそれに追従する。ホエホエミツバチが盾となりエコの周辺を渦を描くようにして囲んでいた。有事の際、即座にエコの安全を確保できるように日ごろから訓練のされた動き。

 図書館のエントランスには大小さまざまな足跡があった。泥まみれの靴から馬の蹄と思しきもの。どうやら中にいる連中はきれい好きではないらしい。

 受付カウンターには酒類と思しきグラスやビンが転がっており、床のカーペットには泥や血痕などが染みとなって残っている。並列に設置された天井の白色ライトはいくつかが接触不良を起こしているらしく、カーテンを閉じられた薄暗い図書館で虚しく点滅を繰り返すばかりだった。

 エコの胸中に走る小さな軋みは、取り戻せない過去への悼みである。在りし日の図書館はどこへいってしまったのか。人間が暮らしていたころはもっと賑やかで、平和な街だったのに……。

 エコの脇をすり抜けて軍隊アリたちが進む先は、図書館の中央に位置するラウンジである。雑誌や新聞などをメインに配置され、読書用の椅子とテーブルが並ぶ広いスペースとなっている──はずなのだが、すべてのテーブルと椅子が撤去され、代わりに床を埋め尽くさんばかりの数のベッドと毛布が所狭しと並べられていた。ベッドの枕元には謎の液体が入った小瓶や、しわくちゃのタオルが畳んでおいてある。エコの脳裏にかつて映画で見た野戦病院の光景がよぎった。

「みんな、静かに」

 エコが命じると、従者の蟲たちは最寄の床や壁で羽を休めた。

 図書館のいたるところから息遣いが聞こえる。前方と、横と、そして上から。

 見上げると、数十ものケダモノの瞳がエコを見下ろしていた。人型や四足タイプのオスを中心にした屈強な男たち。敵愾心をむき出しにした血走った眼でエコを睨みつけるものもいれば、次から次へと踏み込んでくる軍隊アリたちを呆然と見下ろすだけのケダモノもいる。二階と三階の吹き抜けには二十名以上のケダモノが待機しているらしい。

 エコの耳元に斥候のホエホエミツバチが止まり、報告する。どうやら一階ラウンジの周辺の本棚の影には三十人近いケダモノが潜んでいるという。それぞれが辞書や百科事典といった鈍器を手にし、エコの様子をうかがっているそうだ。それらはすべて固い皮膚や体毛に覆われた、毒針が通りにくいタイプのケダモノだそうだ。エコの周辺を飛び交うミツバチの密度が増し、飛び道具に対する煙幕の役割を果たす。

 総勢、五十人ほどのケダモノが図書館のいたるところで戦闘態勢を維持したまま、エコを取り囲んでいるということになる。一触即発の気配をエコはびりびりと肌で感じた。

「招かれざるお客さまなんて、いつぶりかねぇ」

 凛と透き通る美声が図書館に響いた。

 たくさんの並んだベッドの果てに本棚を横倒しにして作られたステージがあり、その上に玉座──おそらく人間の遺産である家具量販店から失敬してきたのだろう。ふんわりした茶色い団子状の、かっこよさより実用性を追求したカジュアルソファーのようだ──があった。

 その座り心地のよさそうなソファーに背を預けて不敵な笑みを浮かべる少女がいた。

 真冬の月を連想させる金色の瞳。軽いウェーブのかかった艶のあるブロンドには黒いバラの髪飾り。熟達の絵師が描いた人物画のように整った顔立ちは、男性でなくても心を奪われてしまいそうなほどに美しいものだった。透き通る白磁のような肌には一点の染みもほくろもない。年齢は十六歳くらいか。彼女は悠然としたそぶりでソファーに寝そべっていた。エコには彼女が人間にしか見えない。

 真っ黒いレース編みのドレスは中世の魔女を真似たものだろうか。背はエコよりもやや低く、ソファーに寝そべったままでもプロポーションの均整がうかがえる。切れ長の瞳に鋭い眼光を宿し、きゅっと引き締まった口元には薄い口紅が塗られている。孤高の狼──エコは彼女をそうイメージした。

 彼女の背中には両手を広げたよりも大きく黒い翼があった。こうもりの翼に酷似した、皮膜と骨で構成されたおぞましくも勇猛な空を舞う力。彼女の金色の瞳が、猫の瞳孔のように細まった。氷柱のようなその視線が、容赦なくエコを突き刺してくる。

 サキュバスだ、とエコは感づいた。

 〝夢魔〟とも呼ばれ、美しい女性の姿をしているケダモノ。その魅惑の容貌を武器にして男性に取り入り、彼らの精を吸い上げて糧にするという。時に男たちを従えてハーレムを形成し、愛の巣をこしらえて定住することもあるときく。聖職者たるエコ・ランチェスターと対極をいく生きかたである。図書館に漂う生臭いにおいは男たちが放った体液によるものだったらしい。

 彼女の玉座の両サイドには、筋骨隆々とした二匹の鬼人と牛男がひざをついて座っている。おそらく彼女のボディーガードだろう。入り口の男たちの様子から図書館を占領しているのはマフィアだと連想していたが、どうやらサキュバスが囲うただのチンピラの集団らしかった。

 一階のチンピラたちはサキュバスを守るようにして扇状に散らばり、それぞれが包丁や分厚い本といった得物を携えている。が、高度な統率がとれているわけではないらしい。各々の判断でサキュバスを守るにふさわしい行動をとっているようだった。二階と三階からの飛び道具が懸念されるが、すでに図書館のいたる場所をホエホエミツバチが飛び回っていた。不意を打とうとするケダモノにはホエホエミツバチの針が先んじて襲い掛かるだろう。状況はエコへ有利に働いていた。

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