晩春──②
不意の暴力を受けて呆然と地面にへたりこむエコに向けて、ネズミ男が黒い愉悦を含んだ哄笑を放った。
「しつこい女は嫌われ」
言葉は最後まで続かなかった。エコの頭上で警戒態勢を取っていたエコの衛兵たちが一斉にネズミ男の顔面目掛けて殺到したからだ。五〇〇匹を越えるミツバチが隊列を組んで急降下するその様子は、空中に黄色の膜がかかったかのようだった。
麦笛にも似た耳を狂わせるほど大きな攻撃音がしたかと思うと、次の瞬間、ネズミ男の頭がミツバチに覆われて見えなくなった。
ネズミ男は、愚かにも羽音に反応して頭上を振り仰いだ。その顔に毒針が雨となって降り注ぐ。長さ一センチ、太さ一ミリを越える激痛の素が何十本もネズミ男の顔面に突き立った。続けざまに彼の頭頂部にエコの小さな兵士が群がり始める。針の毒素は瞬く間にネズミ男の皮膚を内側から侵し、細胞を溶かしていった。
「あひいいああああっ」
ネズミ男はあまりの激痛に悲鳴をあげてもんどりを打って転げまわった。ハチの群がる顔面を手のひらで叩き、指でつまんで虫を追い払おうとするが、人間と違う不器用な指ではまるでうまくハチを摘まめない。
ミツバチたちはさらにわきの下や唇、鼻の粘膜といった柔らかな箇所を狙って群がり、死にさらせとばかりに毒針で刺しまくっていく。
即効性の神経毒がネズミ男の筋組織を麻痺させた。ネズミ男は立っていることすらままならず地べたをのたうち回る。ミツバチたちはまるで容赦を見せない。
「うおっなんだこりゃ」
背の高い牙男が毛皮のコートを脱いでネズミ男を体を叩くが、それはミツバチたちを追い払うどころかますます興奮させる結果となってしまった。もはやネズミ男の顔面はジャガイモのごとく腫れ上がり、口も鼻穴も塞がってしまっており呼吸ができているのかさえ危うい。
ネズミに群がっていたホエホエミツバチたちが、一斉に、うろこ男を見た。殺意に沸いた千を超える複眼に凝視されたうろこの男は、ハチの攻撃による二次被害を防ぐべくネズミから飛びのき、庭の隅へと着地した。
うろこ男の敗因は、ネズミ男の惨状にばかり気を取られて周囲の確認を怠ったことだろう。
足の裏が地表を踏んだ瞬間、泥に乗ったかのような不安定な感触とともに地面がぬかるんだ。足の踏ん張りが効かず、うろこ男は無様に転倒した。
うろこ男が踏んだものは、ぐねぐねと蠢く雑草であった。
放置されて伸び放題の雑草たちが、うろこ男の足に巻きついていた。群生していたドクダミとカラスノエンドウである。赤茶色の蔓が強靭な触手となって、倒れたうろこ男の両脚に絡みついた。網目状と化してうろこ男の下半身を覆いつくしてくドクダミの触手は、さながら蔦の毛布だった。
「ふ、ふざけんな!」
這い蹲りひざを折り曲げることさえ不可能となったうろこ男は、自慢のカギ爪で巻きついたドクダミを片っ端からそぎ落としていくが、それを上回る速度でドクダミがうろこ男の全身に覆いかぶさっていく。ドクダミの生命力は雑草のなかでも群を抜いており、根を下ろせば一帯の土地を侵略してしまうほどである。茎ばかりでなく根や葉までがうろこ男をがんじがらめに縛り上げた。
ひじ、ひざ、手の甲から足首といった関節部を地面に固定されたうろこ男は、もはや声を張り上げることしかできない。
「敵襲だっ。おい!」
おそらく図書館内にいる仲間へ向けての警告であろうが、図書館の窓も自動ドアも防音加工を施されていることに気づいていないのだろうか。ガラス張りの壁がブラインドで覆われているために、図書館内から仲間が応援に駆けつけてくる気配は微塵もない。
と。座り込んだまま傷ついたほほを撫でていたエコが、ゆらりと立ち上がり、ふらふらとネズミ男へと歩み寄った。彼女が倒れていた地面には、目に痛いほど鮮やかな鮮血の跡が残っている。ほほの出血はすでに止まっているようだった。
エコとネズミとの距離が縮まると、小さな従者たちは獲物から一斉に離れ、中空で円軌道を描きながら待機を始めた。
彼女はネズミ男の傍らに正座した。神経毒のせいでもはや動くことさえできないネズミは、瞳の位置もわからないほど腫れあがった顔で、横たわったままエコを仰いだ。
「た……たひゅけ……て」
もはやまともに声を発せられないらしく、ネズミ男は聞き取りにくい濁声で一つ目のシスターに助けを求めた。
エコは、にっこりと、笑った。彼女の顔の中心に位置する大きな瞳が、三日月の形を描いてネズミ男を見下ろした。
「助けません」
ネズミ男の申し出をあっけなく否定する彼女の瞳は、完全に据わっていた。
へくへくとほほを痙攣させるネズミ男の顔にエコは右手を添えた。醜く膨らんだ彼のほほをその細長く白い指で慈しむようにそっと撫ぜる。
そして、エコは親指と人差し指で彼のほほの肉を掴み、ゆっくりと、むしり取った。ハチの毒素で柔らかくなった皮膚は容易に裂けて、腐ったマシュマロのような肉片がエコの手のひらの上で転がった。うっ血した皮膚から大量の血液が飛び散り、修道服のすそを汚していく。
「ひっ……い い い い い」
あまりの激痛に泣き叫びながら失禁するネズミ男の目の前で、エコは紫色に変色した肉を摘まんで、口元に笑みを浮かべたまま艶やかな唇を開き、それを頬張った。ゼリーでも食べるかのように、ごく自然な仕草で。
愕然とする彼に見せ付けるようにしてエコは生肉を噛み締める。ネズミ男は自分の肉を食らう単眼のシスターから視線を逸らすことすらできない。
しばらく生肉を舌の上で転がしていたエコは、咀嚼してどろどろになった頬肉をさもまずそうに地面へ吐き捨てた。ネズミ男の流血で、レンガ造りの歩道が赤黒く染まっていく。
エコが温度の低い微笑を浮かべたまま、ふたたびネズミ男の顔に手を添えた。
今度は反対側の頬の肉を人差し指で引っかくようにして捲っていく。もはや発泡スチロール程度の柔らかさと化した皮膚がぼろぼろと崩れ落ち、レンガ造りの歩道に点々と赤黒い染みを残していく。ネズミ男は痛みと恐怖に耐えかね、白目を剥いて泡を吹き始めた。削りすぎた頬肉に穴が開いてトンネルと化し、口内が丸見えになった。暗い穴の向こう側に細長い舌と乱杭歯が覗いている。空洞となったほほからひゅうひゅうと空気の漏れる気配。鼻も唇も塞がれてしまっているため、傷口からしか呼吸ができないのだ。
エコの血まみれの指がネズミ男の右目に伸びた。
「おい、いい加減にしやがれ、おいこのクソアマがッ」
そう声を張り上げたのは庭の地面に磔となっているうろこ男だった。トカゲに似た顔をエコのほうへ向けて、ドスの効いた声を張り上げる。彼の相貌には明確な殺意が漲っていた。
「テメェ、自分がなにしてるかわかってんのかっ。カルマール一家を敵に回して東地区から生きて出られると思ってんじゃねえぞ!」
ネズミ男の右目を無造作につついていたエコの手がぴたりと止まった。
「……」
うろこ男を振り返り、エコは小さく深呼吸をして軽く頭を振る。地べたに縫い付けられた男を見つめる緑色の瞳からは、狂気じみた陰りが失せていた。
「申し訳ありませんでした。このネズミをお仕置きするあいだはじっとしていていただきたかったので」
落ち着いた声音でそう告げてエコが地表に手を添えると、うろこ男を拘束していたドクダミとカラスノエンドウが一斉に動きを止め、ゆっくりと彼から触手じみた茎を離していった。
身体の自由を取り返すや、うろこ男は軽業師のように背筋のみで飛び上がり、レンガ造りの歩道へと跳躍した。エコから数メートルほどの距離を保ちつつ、失神寸前のネズミを一瞥してからエコにたずねた。
「……なんのまねだ。どうして俺の拘束を解いた」
「わたしが怒っているのはこのネズミに対してです。いきなり殴ってきたものですから、頭にきまして。すみません、あなたには無礼を働きました。草で動けなくしたことは謝罪します。本当に失礼しました」
真摯な眼差しをうろこ男へ向けながら、悪びれもせずにエコはそう言い放ち頭を下げた。彼女の言い分にはネズミ男に対する仕打ちへの後悔や反省の色は微塵もない。
「えっと、うやむやになってしまいましたが、お話の途中でしたね。わたし、この図書館で調べ物を」
「テメェ……死んだぞ」
警戒心をむき出しにしてうろこ男が呻いた。
彼は足を踏みしめると身軽な仕草で跳躍した。エコのほうへではなく、自動ドアのほうへ。
音もなく開く自動ドアの隙間へ滑り込むと、うろこ男は「敵襲だ!」と叫びつつ図書館の奥へと駆け込んでいった。
「あ、あのー……」
エコは途方にくれた心境で、来客を拒絶するように閉まりゆく自動ドアを見つめた。
なんだかおおごとになりつつあるような気がする。が、ここまでやらかしておいて手ぶらで帰るわけにはいかなかった。
かといってカルマール家なる組織がすんなりとエコの要望を受け入れてくれるとも思えない。
逃げるか、あくまで話し合うか。ぐずぐずしていると図書館から人相の悪い男たちが大挙して襲ってきそうな雰囲気があるため、ためらう余地はない。
エコは重いため息をついて、
「みんな~っ」
と、アルトの美声を天空に向けて放ち、拍手をひとつ打った。
図書館の周辺で羽音が爆発した。
草葉の陰から、建物の裏から、藪の内側から、樹上の巣から一斉にオレンジ色の大勢の羽虫たちが姿を現し、飛来してきた。大勢すぎる。隊列を組んで青空を滑空する彼らの姿は、風に煽られたカーテンかと錯覚するほどの数である。先ほどのネズミとの諍いの際、仲間の応援要請を聞きつけて大量のホエホエミツバチたちが陰ながら待機していたのだ。
一方、地面は黒いじゅうたんを敷き詰めたような有様になっていた。軍隊アリたちである。エコは東地区の地中に巣くうアリのなかでも屈指の力自慢である軍隊アリに召集をかけたのだ。子犬ほどのサイズのその巨蟻のアゴは、小枝くらいであれば楽にへし折る力がある。エコが育てた農作物を青空市場へ運搬するのも彼らの役目だ。
そして、図書館のガラス張りの外壁にはひも状に蠢く赤色の蟲が這いずっていた。数十を超える節足を持つ、小さなヘビほどのサイズのゾゾムカデ。彼らのアゴには強力な毒があり、ウサギ程度の動物であれば容易にエサとなってしまうほど獰猛な肉食蟲だ。が、ここマリアヴェルにおいてはドライアドの従順な僕であるため、いまは心強い戦力である。
ホエホエミツバチ五万匹。
軍隊アリ五百匹超。
ゾゾムカデ百匹以上。
みな指折りの戦力を持つ頼もしい面子である。突発的な徴兵でなければ、この十倍の数が図書館に集っていたであろう。昆虫を統べるエコの能力はマリアヴェルの隅々にまで及ぶ。
彼らに共通する気配は〝殺気〟であった。主の顔に傷をつけられたのだから当然であろう。
エコは申し訳なさそうに従者たちへ命じた。
「みんな、まずは落ち着いて。この傷なら一日もすればきれいに消えますからあまり興奮しないでくださいね。このネズミにはすでに罰を与えましたので、これ以上、彼への攻撃は許可できません」
そう前置きをしてから、ひとつ咳払い。
「これから……えっと、たぶんマフィアのひとたちだと思うのですが、彼らと話し合いをしますので、みなさんにはわたしのボディガードをお願いします。おそらく彼らも暴力にものを言わせてくると思いますので、それをなるべく避けるためにあえてこちらも強気に出ようと思います。正面からぶつかったらお互いに痛い目をみることを知らしめれば、彼らもおいそれとこちらを攻撃してはこないはずです。いいですね。なるべく我々からは仕掛けないようにお願いします。あくまで話し合いですからね」
承知しましたとばかりに、虫たちが軽やかに羽音を立てた。
そのとき、エコのシスター服のスカートのすそを掴むものがあった。ネズミ男である。ホエホエミツバチの毒素によってぶくぶくに火脹れした顔をエコへ向けて、彼は身も世もなくエコに救いを求めた。
「た……たしゅけ……て」
「お断りします」
左のほほに浅い切り傷を残したまま、氷のような笑顔を残してエコは自動ドアの前に立った。
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