晩春──①

 五月の柔らかな太陽が降り注ぐホーリースター教会の庭には、数えるのも面倒になるほどたくさんの蝶やハチが風とダンスをするように舞っていた。

 彼らは木々の隙間を縫うようにして中央公園と教会の庭とを往来し、えっさほいさと公園に咲くレンゲの蜜や花粉を集めては裏庭の養蜂小屋へ持ち運んでいる。日光を存分に浴びたレンゲからは甘ったるい芳香が立ち込めていた。

 教会公園ではすべての昆虫への干渉は禁止とされていた。虫を食べることはおろか、触れることもよしとされていない。

 公園の虫たちが街のケダモノに害を及ぼすことは決してない。そうエコに言い含められているからだ。

 その代わりにケダモノも虫たちにちょっかいを出すことが認められていない。教会公園はいわば、虫たちの聖域(サンクチュアリ)である。ケダモノと昆虫と植物──それぞれの存在を尊重しあうための架け橋として、ドライアドであるエコ・ランチェスターが抜擢されているのだった。

 教会を取り囲む公園の敷地内はエコ・ランチェスターの庇護を受けた昆虫と植物たちの楽園である。マリアヴェルにおいて、教会公園の植物の管理はエコに一任されており、季節ごとに植え替えられる様々な草花が遊びに訪れるケダモノを癒してくれる。秋にはミカンやリンゴなどの樹木が新鮮な果実を実らせて住民たちの食卓にのぼり、絞られたブドウはジュースとなってグラスに注がれるのだ。

 新調した修道服を身につけたエコ・ランチェスターが大きな緑色の瞳で教会の菜園を見渡した。今日は畑泥棒が姿を見せなかったらしく、垣根も荒らされていなければ土壌が掘り返されている気配もなかった。

「ふう……」

 出発の準備を整えたエコは、手にした手提げかばんから黒いベールを取り出して頭にかぶせた。修道服に身を包んだ彼女が頭上を見上げると、抜けるような蒼穹を背景に数百匹ものホエホエミツバチたちが円を描くように飛び交う影があった。このオレンジ色の羽虫たちが今日のエコのボディガードである。

 遠ざかる教会の窓から視線を感じて振り返ると、カーテンの陰からメーチェがこっそりとこちらをうかがう姿が見えた。エコが小さく首を横に振ると、彼女はおずおずとした様子で首を引っ込めてしまった。

 今朝もメーチェはごはんを食べなかった。

「ほんの少しだけでも口に入れておかないと、本当に倒れてしまう」というエコの助言に従って麦粥を一口、二口ほど食したメーチェはしばらく平然を装っていたものの、やがて真っ青な顔色で嘔吐してしまったのだ。泣きそうな面持ちで「ごめんなさい。ごめんなさい」と謝るばかりの少女に、エコは哀れみを覚えるばかりだった。

 いまは一刻も早く彼女の体調がよくなることを祈るばかりである。麦粥とミルク、ジャムパンをテーブルに用意しておいた。お腹が空いたらそれらを腹に入れるように伝えてあるので、夕方ごろまでに帰宅すれば夕食の支度には間に合うだろう。

 エコはマリアヴェルの街を東へと向かっていた。

 目的地はマリアヴェル図書館。ケダモノシティにいくつか点在している図書館のなかでもっとも大きな本館である。子供のころはよく利用していたけれど、父を亡くしたころを境にしてとんと足を遠のけてしまった懐かしい場所。メーチェの身体の異常について調べるのであれば、そこの豊富な知識を利用するのが最善だと判断したのである。メーチェが食べず、眠らず、トイレもしないのはなぜか。その原因を知らなければ、いよいよ彼女の命が危ういと思われた。

 東地区は、人間たちが暮らしていたころは住宅地区とも呼ばれていた。団地やマンションといった、人間たちが暮らしやすいように設計された施設が立ち並ぶ区画である。図書本館は東地区の中央に建っていた。

 人間たちが去った後、まるごと放棄された住宅街をどのように利用するか、だれが暮らすべきかでいささか揉め事が発生した。〝オレが一番いい家に住みたい〟とだれもが主張したため、細かい規定を定めることが苦手なケダモノたちは結局、早い者勝ちのルールに則って豪華な家から奪いあい、乗っ取りあった。結果、かつては高級住宅街であった東地区が、腕っ節の強いケダモノや威勢のいいケダモノばかりが暮らすスラムと化してしまったことは皮肉な話である。

 昼下がりの街道をゆったりとした足取りでエコは歩く。アスファルトの道路は風雨に晒されたまま舗装をするものもおらず、まっすぐに引かれた白線も塗装がはげかけていた。道路上にうっすらと堆積した砂上にケダモノや動物たちの足跡が点々と続いている。左右には勝手気ままに伸び放題の街路樹がストリートに沿って緑色の葉を茂らせていた。

 道中、何人ものケダモノたちとすれ違った。コンクリートや木造などの人工建築物を好まない種族も多く、東地区は主に犬型や猫型といった四足タイプのケダモノばかりが暮らしている。その獣人たちがみな一様に興味深げに不躾な視線をエコに送っていた。彼女が人間と同型のケダモノだから珍しいのか、あるいはいまだに神職という時代錯誤な格好をしていることに呆れているのか。そのうちの何割がエコの頭上を飛び交うホエホエミツバチの存在に気づいただろう。五感が鋭いか、勘のいいケダモノは迷わずエコから距離を置いたに違いない。

 やはり東地区は治安がいいとはいいがたい場所のようだった。下品な大声で会話をする男たちが幅を利かせ、住宅の何割かは窓ガラスが割れて内装が散らかっている。生ゴミは散乱し排泄物は放置され、ビルの陰には腐乱した猫の死体が転がっていた。エコはしばらく猫の死骸の前で足を止め、小さな命の冥福を祈ってから先を急いだ。

 メインストリートを闊歩するエコにとって、唯一の懸念は図書館の保存状態であった。数年前に訪れたときには人間たちの手によって外観も内装も磨かれ掃除され、数多にあるマリアヴェルのシンボルのひとつとして数えられていた。いまはどうなっているだろう。図書館や病院、学校、市民プールといった公共施設は個人の所有が許されておらず、ケダモノが勝手に住まうことは許可されていない。図書やプールの水などはマリアヴェルの市民全員で共用するきまりとなっていた。プールや貯水槽は、夏の干ばつの際にケダモノたちの命綱となる貴重な施設なのである。

 教会から歩いて一時間ほどの距離にあるその図書館は、エコの記憶と寸分違わない美しい景観を持つガラス張りの建物だった。

 蔵書数二十万冊以上の本館は三階建ての建築構造で円筒形の外観をしている。昼下がりの日光の照り返しによって、まるで図書館自体が発光しているかのように煌びやかに光っていた。数年ぶりに訪れた図書館を取り囲むのは、雑草だらけで手入れのされていない庭と狭い公園に打ち捨てられたベンチや遊具だった。かつては市民たちに愛用されていたであろう砂場やジャングルジムにはいまや閑古鳥が鳴くばかりである。

 円錐型の屋根には黒い金属製のタイルが何枚も貼り付けられていた。ソーラーパネルといっただろうか──日光を浴びるだけで電気を発生させる装置だときいたことがある。本当にそんな便利なものがあるのなら、ぜひうちの教会にも欲しいと思う。

 そんな折、エコはふと違和感を覚えた。

 記憶では、透明な積み木のような図書館の壁面はすべてガラス張りであり、外から中の様子が筒抜けになっている──はずなのだが、内側からブラインドが下ろされているらしく壁一面が白乳色に染まっていた。図書館内が覗けなくなっている。

 館内にだれかいるのだろうか。天気がいいのに図書館中の窓をシャットアウトするのはなぜだろう。

 小首を傾げながら図書館の敷地に足を踏み入れてレンガ造りの歩道を横切ると、正面入り口、ガラス張りの自動ドアの前にふたりの男が立ちふさがっている見えた。

 向かって右側に立つのはひょろりと背の高い、毛皮のコートを着て土気色の顔色をした、口から長い牙を生やす男だった。肌に青色のうろこが生えていることからして爬虫類との混血だろうか。

 左側のケダモノはエコよりも一回り背の低く、恰幅のいい禿頭の男性だった。異様に鼻が長く、前歯が突き出している。尻に細長いピンク色の尻尾が生えているところを見ると、ネズミタイプのケダモノらしい。

 エコには両者ともまるで見覚えがなかった。図書館の自動ドアの前で鋭い目線を周囲に走らせている。彼らはいったいなにをしているのか。彼らはすでに一つ目シスターの存在に気づいているらしく、矢じりのような視線をこちらに突き刺してくる。明らかにこちらを警戒しているようだった。とてもカタギのケダモノとは思えない、肌があわ立つような剣呑な気配。

 どうしよう。なにも自動ドアの脇に立つことはないのに。

「…………」

 エコは頭を左右に振って勇気を奮い起こした。

 この施設は公共の図書館。一般ケダモノが立ち入りを禁じられる道理など皆無なのだ。

 堂々といこう。

 小さく口を開き、ほんの少しだけ躊躇したあと、意を決して彼らに言葉をかけた。

「す、すみません。わたし、ホーリースター教会の教会主をしております、エコ・ランチェスターと申します。この図書館で調べたいことがあるのですけれど……中に入れます、よね?」

 背の高いうろこの男はエコを一瞥すると、ふんと小馬鹿にしたように鼻でせせら笑い、そっぽを向いた。

 左のネズミ男は粘っこい視線をエコの全身に走らせてから、やがて興味を失ったように、

「失せろ」

 と、低い声で吐き捨てた。

 そんな。失せろといわれても。

「えっと……そう申されましても、この図書館で調べなければならないことがあるんです。中へ入ってはいけない理由があるのですか」

 ふたりの男は互いに顔を見合わせたあと、うろこの長身男がつかつかとこちらへ歩み寄り、エコの肩を軽く小突いた。

 よろめくエコを爬虫類特有の乾いた眼差しで睥睨しながら、うろこ男が告げた。

「世間知らずのお嬢さんよ。もう一度だけいうぜ。失せろ。見てわからねぇのか、ここはカルマール家の所有物なんだよ。おまえ、東地区のケダモノじゃねえだろ。命が惜しければとっとと自分のねぐらへ帰りな」

「カルマール家……?」

「知らねぇのかよ。マジで世間知らずだな」

 呆れたように肩をすくめるうろこ男へとエコはあくまで腰を低くして、慇懃に食い下がった。

「どうかお願いします。カルマール家さんにはお手間はとらせませんし、ご迷惑もかけません。調べ物が終わったら早急に引き取りますから、どうか許可をいただけませんか」

 うろこ男がやれやれと肩をすくめる背後で、ネズミ男のこめかみに青筋が蠢いた。

 呆れを通り越して哀れみに近い口調でうろこ男がゆっくりとエコに語りかけた。

「あのな。おまえがなにをそんなに必死になっているのか知らんが」

 と、うろこ男が口にした瞬間である。

 つかつかと歩み寄ってきたネズミ男の右腕が風を切り、エコの顔をしたたかに打ち据えた。

 エコの視界が揺れ、ほほに熱い衝撃が走った。同時に、肉を叩くような湿った音。上半身が右へと傾き、バランスを崩して尻餅をついた。左ほほが痺れ、ひどく熱を持っている。

 手を当てると生ぬるい水の感触がした。かぎ爪でほほの肉を裂かれたらしく、ざっくりと横に走る傷口から鮮血が滴り落ちていた。

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