仲春──②

 エコはスプーンも持ちかた、お皿の支えかた、正しいジャムの塗りかたやどの料理から最初に手をつけるべきかなどをレクチャーしていった。メーチェは従順に耳を傾けて教えを吸収していった。

 ゆるやかな時間が流れていく。料理をすべて食べ終わるころには、マリアヴェルの東にそびえる山脈から眠たげな朝日が顔を出し、世界を春の日差しで照らし始めていた。

 エコが丹精こめて作った野菜とソラマメのスープは冷め切る前にふたりの胃袋に収まった。膨らんだおなかを撫でつつ、エコが満足げに息を吐き出す。

 おいしかった。

 はじめこそあまり食欲はなかったが、メーチェの相手をしているうちに空腹感を覚えたエコは、結局スープの大半を平らげてしまった。

 その華奢な外見とは裏腹にドライアドの消化器官は強靭で滅多なことでは腹を壊さない。毒にも耐性があるため、程度にもよるが腐敗した肉類や玉子、野菜なども平然と口にできる──味覚は人間のそれと同様であるため、やはり味付けは欠かせないが。

 手前味噌ではあるが、エコは料理の腕にはそこそこ自信がある。一人暮らしの生活も四年を過ぎると、徐々に食事のレパートリーを増やす工夫が必要になってくる。マリアヴェルは人間の町との交易が盛んであるため塩や砂糖といった調味料には不足がなく、エコの農場でもハチミツやジャムを自前で作成することができるため、野菜やパン、玉子にミルクやチーズをふんだんに用いて調理に取り掛かれるのだった。

 ホーリースター教会の食器棚には各種調味料のほかにハーブや海鮮食品の干物、乾麺やカレールーに至るまでがそろっており、メーチェの口に合いそうな料理を選別するのに不都合はなかった。

「ごちそうさまでした」

 と一言告げて、エコは食後のお祈りに入る。胸元にぶら下がるロザリオを手のひらで握りしめ、地の恵みをお与えくださった天の父に感謝を捧げた。

 席を立ちながら、午後の過ごし方について思いをめぐらせるエコ。ひとまずメーチェが安全に暮らせる場所をケダモノシティの外に見つけなければならないだろう。人間の領域に顔のきくケダモノといえば、エコの農作物を卸している狐人の三日月か──彼に任せれば孤児の引き取り先さえも発見してくれそうな頼もしさがある。しかし人間をかくまっていることを打ち明けても問題ないだろうか。彼はあれで金にがめつい面があるから、メーチェの存在を知った矢先にポリスへ通報してしまうような気がしなくもない。しかし彼以外にあてがあるわけでもないし、第一エコはマリアヴェルの外へ一歩も出ることができないのだ。

 手詰まりになったエコは考えるのをやめて、洗い物をすべくテーブル上の皿に手を伸ばした。

 メーチェの様子がおかしいことに気がついたのはそのときだった。

 すでに食べ終えているにもかかわらず、メーチェはうつむいたままテーブルから立とうとしなかった。顔を下へ向けたまま、じっとテーブルの空っぽの皿を見つめて微動だにしない。心なしか身体を震わせているようだった。

「どうかしましたか」

 と、エコが聞こうとした矢先に、メーチェがテーブルに突っ伏した。

「えっ」

 エコが駆け寄るより先に、落ち窪んだ両目を見開いて涙目のまま右手で口元を押さえ、メーチェは盛大に嘔吐した。

 のど元から激しい水音が立ち、がぼがぼという不潔な気配とともに黄土色の粘液がテーブルのあちこちに撒き散らされた。未消化のニンジンやジャガイモが口を塞ぐ両手の隙間からだらしなく漏れ出て、半固形物と化した〝元〟スープがテーブルにぶちまけられる。生臭い汚液の刺激臭がダイニングに充満していく。メーチェは両手で口を押さえて食道からあふれ出る汚液をとめようとしているようだったが、それはかえって自分の服にまで飛沫を撒き散らす結果となってしまった。

 あまりの事態にエコは反応すらできず、ただ顔面蒼白になった。少女が目の前でだぼだぼと吐瀉物を撒き散らす様子を見つめることしかできない。さげそびれた皿や鍋は汚液にまみれ、テーブルクロスは茶色く染まって水浸し。メーチェにプレゼントした聖歌隊の衣装にまで、茶色い斑点があちこちにこびりついてしまった。

 胃の中身をすべて吐き終えたのか、メーチェが口元を拭いつつ小さく咳き込んだ。

「あ……あ」

 彼女はゆっくりとエコの顔を見上げた。その顔には、怯えの色がべっとりと張り付いていた。

「ごめっ……ごめんなさい。ごめんなさいいい」

 メーチェはもはや半泣きだった。口元も衣服も吐しゃ物まみれにしながら、メーチェは謝罪といいわけを重ねる。

「ちがっ違くて。スープはすごく美味しくて温かかったの、だけどあんまりお腹が空いてなくて、でもどうしても食べてみたくって……食べきったけど、胸が苦しくなって……。こんなつもりじゃなくって……ほんとに、ほんとに美味しかったの。でも……ごめんなさ……」

 最後のほうは、もはや言葉になっていなかった。汚液まみれの両手で顔を覆い、いまにも死にそうな相貌でエコの緑色の眼を覗き込んでくる。

 哀れを誘うほどの剣幕で許しを請う少女に対してエコは微塵も怒りを覚えなかった。それよりも胸中を占めるのは圧倒的な不安である。身を強張らせるメーチェの肩を掴むと、エコは怯えさせないよう注意しつつ彼女に顔を寄せた。

「大丈夫ですか! やっぱりまだ体調がよくなっていないんじゃ……とにかく今日は安静になさっていてください。濡れタオルを用意しますから、それで身体を拭いてくださいね。あ、換えの服も持ってきますから」

「違うのっ。違う、違う、違うんだってば。身体はすっごく元気で、どこも苦しくなくて、お腹も空いてないし……でも、急に気持ちが悪くなって……」

「気持ちが悪いって……やっぱりまだ具合が悪いんじゃないですかっ。メーチェさんは服を脱いでおいてください。わたしは換えの服を取ってきますから」

 てきぱきと指示を飛ばすエコ。メーチェが口のなかでもごもごと呟かれる侘びの言葉を聞き取っている余裕などなかった。

 完全に覇気を失ったメーチェは泥濘を歩くような足取りで自室へ向かい、身体を清めてからベッドに横たわった。彼女は毛布を頭から被るなり「ごめんなさい。ごめんなさい」と呪詛のごとく呟いたまま、なかなか寝付こうとはしない。

 エコはその日、メーチェの看病につききりとなった。

 メーチェは「どこも悪くない」とのたまうばかりで、昼も、そして夜も睡眠や食事を取ることはなかった。エコが用意した消化にいい麦粥さえも、「おいしそうだけれど、どうしても食べられそうにない」と申し訳なさそうに告げて、さめざめと涙を流すばかりだった。差し出された蜂蜜茶も、大さじいっぱいほど口に含んだあとで吐き出してしまった。いまの彼女は水さえ飲めないのだという──問いただしたところ、先日の夜に飲んだ蜂蜜茶は、我慢できずに夜中に吐き戻したのだそうだ。

 そのくせ、メーチェは肉体的に衰弱しているそぶりがまるで見られなかった。

 栄養失調の症状を起こすことなくエコの言葉にははっきりと返事を返してくるし、エコを追うメーチェの視線や首、関節の動きなどは健常者のそれだ。少なくともいまの彼女を見て異状を感じるものはいないだろう。

 押し黙ったままベッドに横たわるメーチェの隣に腰をかけて、エコは皿に乗せたイチゴに蜂蜜をまぶした。時刻はすでに夜の九時を回っていた。締め切ったカーテンの向こう側からフクロウの鳴き声が染みこんでくる。

「メーチェさん。枕元にイチゴを置いておきますので、お腹が空いたら召し上がってくださいね。わたしは今日はここで休みます」

「えっ」

 メーチェが相貌を強張らせた。

「ここで休むって、それって……」

「具合の悪いあなたを置き去りにして休むわけにはいきませんもの。わたしはあとでソファーを移動させてそこで仮眠をとります」

「ソファー……」

 きょとんとした顔をしたあと、

「あ、ああ……そうだよね。うん。でもあたし、本当にどこも悪くない……」

「ねえ、メーチェさん」

 エコはメーチェに顔を近づけて、そのブラウンの瞳を覗き込んだ。

「ものを食べられない、眠りにもつけない人間がどこも悪くないはずがありません。明日まで様子を見て、起き上がってもいいかどうかはそれからふたりで判断しましょう。それでいいですか」

「……」

 メーチェは泣きそうな顔でうなずいた。その様子を見てエコは少しだけ安堵した。

 思う。メーチェの身体によくないことが起きていることは間違いないだろう。しかし、その正体が判然としなかった。

 朝の事件でメーチェの吐瀉物をタオルで拭った際に、その黄土色の粘液が異様に冷たかったことを思い出す。

 ついさっき少女の胃袋から吐き出されたはずの液体が、どうしてこんなにも冷たいのか。湖底の泥のように冷え切った吐瀉物は、とても生物の口からもどされたものとは思えなかった。

 人間の身体に関する情報が欲しかった。

 人間のケガや病気について詳しいケダモノがいれば、あるいはメーチェの症状に関してたずねることも可能だろう。しかしマリアヴェルに医者はいない。だれにもメーチェの身体について尋ねることはできないのだ。

 ならば──とエコは思う。

 図書館へ行こう。

 人間たちが残していった医学書であれば、彼女の異状に関してなにか記載してあるかもしれない。

 ガラス製の蓋をかぶせてランプの灯りを消すと、ホーリースター教会を闇と沈黙が降り立った。今日も教会に来客はなし。ああ、そういえばメーチェという客人が訪れるまで、最後に人間がこの教会へ足を運んだのはどれくらい昔になるだろう。

 目が慣れるにつれて、カーテンの隙間から柔らかな星明りが降り注ぐ気配を感じた。五月の暖かな夜は、ソファーに横たわるエコを静かな睡眠へと誘おうとしていた。

「エコ」

「?」

 不意にメーチェが声をかけてきた。

「今日の朝は、ごめん。吐きたくなかった。あんなつもりじゃなかったの。すごくおいしかったの。本当だよ」

「メーチェさん……」

「だから、また料理を作って。エコの料理、おいしかったから」

「大丈夫……大丈夫ですよ……」

 眠気のせいでまともに返答もできないエコと異なり、メーチェはソプラノの声でいかに今日の料理がおいしかったかを説明しはじめた。

 そして最後に。

「イチゴもらうね。噛んで味わうしかできないけど、エコが作ったものならきっと美味しいから」

 という寂しげな声が聞こえた。

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