仲春──①
ホーリースター教会の朝は早い。
リビングのソファーに腰をかけたままうとうとと船を漕いでいたエコ・ランチェスターは、カーテン越しに差し込んでくる朝日の気配を察して目を覚ました。
リビングの壁に設置してある衛星電波時計を見ると朝の六時ぴったりを指していた。父が遺したソーラーパネル製の時計はここ数年ほど指を触れていないのに壊れることもなく、正確な時刻を持ち主に教えてくれている。
先日は侵入者騒ぎと人間の少女への対応に追われて、とうとう寝付くことができなかった。ホエホエミツバチたちが巡回警備してくれているのに自分だけのうのうと熟睡することなど、そもそもエコには不可能であったが。
その後のミツバチからの報告によると、メーチェを襲ったと思しき怪しいケダモノはついにホーリースター教会の周辺には現れなかったそうだ。安堵すべきか、それとも犯人を特定できなかったことを悔やむべきかエコにはわからない。が、ひとまずの憂慮は去ったと判断できるだろう。
エコはリビングのカーテンを開け放ち、外気を取り入れた。湿った大地の香りに乗って春風がリビングへと舞い込んでくる。観賞用、および採蜜用として公園に咲かせてあるレンゲやアカシアの黄緑色の花粉で窓のサッシが黄ばんでいた。朝日が顔を出したばかりのメノウ色の空には綿菓子のような白雲が浮かんでいる。夜のあいだに気温がだいぶ下がったらしく、教会を見下ろす大樹の樹皮に朝露が放つたくさんの光沢がちらちらと輝いていた。
窓から見える庭の光景にはなんら変化は見られない。いつもの、平和な、ホーリースター教会の朝だ。
吹き込んでくる風に緑色の髪をさらしつつ、エコは血色のいいほほに手を当ててふうとため息をついた。
メーチェはちゃんと休めただろうか。
修道士用の部屋は数年のあいだ未使用であったが、定期的にエコが掃除をしていたためにさしてほこりが積もってはいなかった。
しんとした沈黙の降り立つ殺風景な修道士用の個室をメーチェは気に入ってくれたようだった。清潔なシーツを敷いて柔らかな毛布をかけたベッドは、自分にとっては御殿も同然だと彼女はエコに語った。ホエホエミツバチたちや軍隊アリを室内の警備につけようかと提案したものの、メーチェはそれをやんわりと断った。彼女はひとりで眠りたいらしかった。
リビングの扉を開けて生まれ育った教会の廊下へ顔を出すと、メーチェの部屋の前に数匹のホエホエミツバチが羽根を休めているのが見えた。万一の事態に備えてエコが警備を命じていたのである。
エコが小さな音でその部屋のドアを叩くと、すぐさま室内から「エコ?」と少女の声が響いた。
内側から鍵を開ける気配がして、強張った面持ちのメーチェが姿を現した。彼女の顔色は相変わらず蒼白で、血の気を感じさせない。
「おはようございます、メーチェさん。よく眠れましたか?」
「んー。なんか、ぜんぜん眠れなかった」
「え。大丈夫ですか。ベッドが合いませんでしたか」
「ううん。すっごくいいベッドだった」
「では、まだ身体の調子がよくないのでは。それとも生活習慣が夜型でしたか」
「そういうのじゃなくって。まったく疲れてないっていうか……とにかく、これっぽっちも眠くならなかった。なんでだろう……」
さも不思議そうにメーチェが小首を傾げた。
エコは人間とは若干体質が違うため人間の適切な睡眠時間がわからない。けれど、一睡もできないというのはさすがに健康を損ねてしまうような気がした。
それほどまでに侵入者の存在を恐れていたのだろうか。
「虫たちの報告によると、この教会へ近寄ろうとする不審者はいなかったそうです。あと数日ほど彼らに巡回を命じておきますので、メーチェさんは安心して休んでいてくださいね。そろそろ朝食にしようと思いますけれど、なにかリクエストはありますか」
「朝食……って、ごはん?」
メーチェが子犬のような瞳をぱちくりと瞬いた。
「ごはん、食べられるの?」
「もちろんです。たしかにこの教会はあまり裕福ではありませんが、朝、昼、晩の食事を用意するくらいの貯えはありますよ」
「……うん。食べ物があるのは知ってるけど……」
「ご心配なく。お野菜も果物も穀物も豊富にありますよ。もしかして好き嫌いがあったりしますか」
思いっきり首を横に振るメーチェ。なにか、微妙に会話がかみ合っていない気がするのはエコの勘違いだろうか。
ふたりはリビングへと移動し、早い朝食の調理にとりかかった。
まずは調理道具の準備から。戸棚からステンレス製の包丁とまな板を取り出して、汲み置きの水をなべに汲んだ。乾燥させた麦穂をくべた暖炉にジッポライターで火をつけて水を沸騰させているあいだに、戸棚に転がしてあったジャガイモとタマネギの皮を剥いて乱切りにし、チーズを薄切りにしてタマネギの隙間に詰めていく。なべが煮立ったら剥いておいたソラマメとジャガイモ、タマネギをぶち込んで塩コショウで味を調え、さらに少量のバターを入れてまろやかさを引き立てる。
野菜が熱で柔らかくなるまでのあいだ、エコは熱しておいたニンジンをいちょう切りにして蜂蜜をかけ、小皿に移してテーブルに置いた。
エコがてきぱきと食事の準備をしているあいだ、客人であるメーチェはなにもせずにぼんやりとリビングでエコが働く姿を眺めていた。サボっているというよりは、なにをすべきかわからないといった風体である。
調理開始から三十分後、いい感じに煮立ったおなべがテーブルに用意された。
柔らかな白い湯気をのぼらせる野菜とソラマメのチーズスープ。
テーブルの真ん中には、竹編みの籠に入った手のひらサイズのフランスパン。
添え物として、新鮮な甘いニンジンの薄切りに蜂蜜を和えたものと、新鮮なミルクをコップに一杯。
朝食に限ってではあるが、ホーリースター教会では肉類を摂取しない決まりとなっているため、あっさりした味付けの料理がメインとなる。先にテーブルに陣取っていたメーチェは、戸惑いにも似た目つきでそれらの料理を見つめていた。
「完成です。お口にあうといいのですが」
とかなんとかいいつつ、エコには少女の口を満足させられる自信があった。エコの味覚は人間のそれと変わらないため、エコのとって美味しいと感じられるものは人間にとっても美味しい。さきほど味見したところ、我ながら完成度の高い朝食になったと自画自賛できるクオリティだった。
食卓についたエコはまずテーブルに肘をついて両手を組み、神への祈りを捧げた。シスター服の胸元に光るロザリオを握りしめて神への感謝の言葉を述べる。
が。正直なところエコはほとんどお腹が空いてはいなかった。ケダモノや人間の亡骸を食してから数日間は身体の隅々まで豊富な栄養がいきわたるため、食欲が湧いてこないのである。自分は小皿に盛ったニンジンの和え物とフランスパンのみで済ませるつもりだった。
お祈りが終わり、刻まれたフランスパンにイチゴジャムを塗って口へ運ぼうとしたところで、メーチェの様子がおかしいことにようやくエコは気がついた。
彼女の視線は物欲しげにできたてほわほわのスープへと注がれているものの、スプーンに手をつけず微動だにしないのだ。
エコは不思議に感じるのを通り越して不安に駆られた。
「お口にあいませんか? それともアレルギーとか……」
メーチェが激しく首を横に振り、消え入りそうな声でこういった。
「食べて、いいの?」
「?? はい、どうぞ」
エコにはメーチェの言葉の真意がつかめない。人間とドライアドという生物種の差による意識の相違か、生まれ育った文化が異なるために相手の生活様式を推し量れないでいるのか。それとも遠慮しているだけなのだろうか──もしそうであれば、気遣いなどいらないのにと思う。
おずおずとした挙動でメーチェが、棒でも掴むような握り方でスプーンに手をつける。温もりいっぱいのスープに慣れない仕草でスプーンを突っ込むと、恐々とその中身を鼻へ近づけて臭いを嗅いだ。食事の作法としては眉をひそめるべきものであるが、エコは言及しなかった。
直後、メーチェはスプーンをテーブルに置いて小皿をむんずと掴んだ。エコが驚きの声をあげるより先に、彼女は小皿を口へと運んでスープを一息に飲み干そうとして飲みきれず、小さくえずいた。
さすがにこれにはエコも唖然とした。そんなにもお腹が空いていたのだろうか。道具を放り出して料理を貪る少女の姿は、ケダモノよりも動物に近かった。
ずずずずずずずと派手な音を立ててスープを口にしたメーチェは、ゆっくりと皿をテーブルに戻した。
「…………うえっ」
不意にメーチェがしゃくりあげた。
エコはとっさに洗面器を用意すべきかと判断した。あるいはトイレ──裏庭に掘られた土穴に過ぎない──へと連れていくか。勢い込んでのどへ流し込んだ豆のスープが胃から逆流したのかと思ったのである。
そうではなかった。
「ぐすっ。うえ……うええええええん」
メーチェは、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
息も絶え絶えにしゃくりあげ、大粒の涙がほほからこぼして、両手で顔を覆ってテーブルにひじをついた。
「おいしいよお。おいしいよおおお。えぐっ。うぐっ。スープおいしいよお。あったかいよおおお」
「…………」
身も世もなく涙を流す年端もいかない少女を、エコは口をつぐんで見守った。
たった一口スープを口にしただけで感涙するメーチェの姿に胸が詰まる。
たしかにスープの味には自信があった。が、メーチェの喜びようはおそらく美味しさに対してのみではないだろう。
どれほど長い間、まともな食事をとってこなかったのだろうか。
温かな料理でここまで感激できるなど、どれほど苛酷な環境にいたのか。
エコは、その大きな瞳をそっと細めて、心中の憐れみを顔に出さないようにして微笑んだ。
「おかわりもありますから、どうぞ召し上がってくださいね。それと、せっかくスプーンがありますからそれを使って食べましょう。ね」
エコはメーチェの背後へと回り、彼女にスプーンを持たせてあげた。
メーチェのひやりとした手に正しいスプーンの握り方を教える。
正しい食事のマナーをひとつひとつ、手取り足取り。メーチェは、しゃくりあげながらエコの指導を従順に聞き入れていった。
ホーリースター教会のダイニングを穏やかな時間が通り過ぎていく。
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