初春──⑬
「メーチェさん、これをどうぞ」
そういってエコはメーチェに聖歌隊の衣装を手渡した。子供用の肌着も、素足を保護する靴も見つからなかったが、いまはまず肌を隠すことを優先すべきだろう。
メーチェは押し黙ったまま首を縦に振り、もそもそと鈍い動作で制服を身につけた。純白のワンピースはメーチェの白い肌と相まって、一輪の百合を思わせる可憐な花をそこに咲かせた。
サイズは問題ない──のだが、エコは違和感を覚えた。
天使にも似た純白の衣服を着ているがゆえのギャップだろうか。子供のころから神に仕えてきたエコ・ランチェスターは、かつてここまで暗い顔をした人間を見たことがなかった。メーチェの相貌はどこまでも重苦しく、救いを感じさせない。
「子供用の下着が見つからなかったので、それで我慢してくださいね。着心地はいかがですか」
「……ん」
感想を述べるでもなく、ただ首肯する少女。首を縦に振っているのだから、気に入っていると嬉しいけれど。
エコはテーブルの椅子につくようにメーチェを促した。
キッチンの冷蔵庫──電気の通っていないいまはただの無骨な箱にすぎない──から黄金色の粘液がたっぷり詰まった大きなビンを取り出し、きれいに磨かれたふたり分のカップに注いでテーブルに置く。
「はい、どうぞ。この教会で働いてくれているミツバチたちが作った蜂蜜を薄めたお茶です」
ホーリースター教会自家製の蜂蜜茶である。ホエホエミツバチたちが春から夏にかけてせっせと巣の中で精製する濃厚な蜂蜜は舌が蕩けるほどに甘くて栄養価も高く、マリアヴェルでは極めて評判がいい。量産できないのがネックだが市場では比較的高値で取引されている。この季節にのみ採取できる食材のため、春先のホエホエミツバチたちは蜂蜜作りにてんてこ舞いだ。ホーリースター教会の庭にある養蜂施設は、エコの父親が残してくれた遺産のひとつでもある。
メーチェは両手でコップを掴んで、まず不躾に中身のにおいをかいだ。その後、入れ物の熱を確認してから舌先で転がすようにして黄金色のお茶を一口だけ飲んだ。
と、彼女の表情が大きく変化した。眦(まなじり)を吊り上げてぽかんと口を開け、驚きの声を発した。
「甘い。なにこの飲み物」
そのままくいくいと飲み干していく。甘い液体が細いのどを通過するたびに、彼女の瞳が生き生きと輝いているようだった。どうやらお気に召してもらえたようだ。
エコとメーチェはテーブルを挟んで座った。エコは努めて落ち着いた姿勢を維持しつつ、目の前の娘の処遇に関して考えをめぐらせ始める。
これから彼女をどうすればいいのか。
ポリスに報告するのは論外だろう。どんな事情があろうと、彼らは人間であれば容赦なくしょっぴいていくに違いない。そうなれば「見つけ次第殺せ」という市長の命令に盲従する可能性がある。そうでなくてもケダモノシティへ侵入した人間には懸賞金がかけられるのだ。メーチェの存在はマリアヴェルのだれにも知られてはならない。
最善の方針はこっそり街の外まで案内することだろう。だがどうやって。マリアヴェルの玄関口である関所には常に歩哨が立っているし、北区の丘陵地帯にも東西の平原にも市民の目が光っている。だとすればローブをかぶせて変装させるのはどうだろう。いや、ケダモノのなかには嗅覚の鋭い種族もいる。ローブ程度では隠れ蓑にすらならないかもしれない。どうすれば……。
「メーチェさん。少しお話をしませんか」
エコは小さくため息をついて、やや疲れた笑みを浮かべつつ告げた。
メーチェは飲み干した蜂蜜茶のカップをテーブルへと戻して、上目づかいで一つ目のシスターに視線を送ってくる。
エコはせき払いを一度。改めて自己紹介を披露することにした。
「こほん。ホーリースター教会へようこそ、メーチェさん。もう身体に痛いところや、苦しさを覚えるところはないのですね」
「ぜんぜん……っていうより、妙に身体が軽い……さっきも穴の中から出ようとしてジャンプしたら、すごい高さまで飛べたし」
飛んだとはどういう意味だろう。メーチェは深く語らずに、じっどエコの瞳を覗き込んでくるばかりだ。
「それはなによりです。先ほどはどうなるかと思いましたよ」
「……あたしもどうなるかと思った」
「いったい……」
と、エコは少し胸に息を溜めてから、
「どうやってあれほどのケガを治療したのですか」
「?」
意味がわからない、というふうにメーチェが上目遣いにエコの顔を覗き込む。
「どうやってって……エコが助けてくれたんじゃん」
「えっ。いえ、わたしは」
できることはやったつもりだが、結局よくわからないうちにメーチェが五体満足で復活したのだ。できたことといえば止血と痛み止め程度で、エコの功績などたかがしれている。
当の本人さえも無傷で生還できた理由を知らないとなるとお手上げだった。
「では……メーチェさんはどうして教会の庭で倒れていたのですか」
「…………」
答えない。メーチェはいじめられた子犬のような瞳でエコを見つめてくるのみだった。
「あなたを傷つけた相手はどんなひとでしたか」
「…………。わかんない。暗かったし、目がよく見えなかったから。ただ」
「ただ?」
「教会の庭のくだ……庭をぶらぶらしてたら、背後から〝人間だな〟って低い声をかけられたの。そしたら、いきなりすごい力で左手をつかまれてひねり上げられた。腕がへんな方向に曲がっちゃって、痛い痛いって泣いてたら、今度は右足がすごく痛くなった。あとはもう、よくわからない。気がついたらその野郎がいなくなってて。んで、そのあとエコがあたしを見つけたんだよ。ベッドに運んでからケガを治してくれたじゃん」
「えっと、違うんです。わたしはただ」
エコは言葉を区切る。このままでは押し問答だ。もっと大事なことをきかなければ。
「メーチェさん。このマリアヴェルには、人間が立ち入ってはいけないことをご存知ですか」
「……うん。この街へ入ろうとしたとき、門番をしていたケダモノに警告された。人間がこの街へ入ることはできないって」
「では、どうやってあなたはマリアヴェルへ入ってきたのです?」
メーチェは仏頂面のまま右手の指を下へ向けた。
「地下から」
「地下? マリアヴェルに地下なんて……」
「あるよ。下水道。真っ暗ですごく臭いけど、広くてだれにも見つからない場所だよ。街の外壁のそばにあるマンホールの蓋を開けて忍び込んだの。この街へ来てから、ずっとそこに隠れてた」
「げす……い……」
エコは言葉を失った。まさかという場所から彼女は侵入してきたという。
すべての人間が街を立ち去ってからというもの、マリアヴェルの下水は放置されたまま清掃も管理も行き届いていない。開け放しの下水へ身勝手に用便を垂れ流しているケダモノもいれば、家庭内で発生したゴミを捨てているケダモノもいる。下水管内は不衛生の掃き溜めと化していて、ネズミやゴキブリの温床となっているのだ。腐敗臭に耐性のあるエコでさえ近寄りがたい場所を人間の少女が通ってくるとは。
「ど、どうしてそこまでして、マリアヴェルへやってきたのですか。この街は人間にとって危ない場所なのは、門番からきいてご存知だったでしょうに」
「…………」
「遊びにいらした、わけではありませんよね。なにかを探しにきたのですか? あるいは誰かに会いにきたとか」
「…………」
メーチェは貝のように押し黙ってしまった。
どこまでもしゃべらない子供だった。
こちらからの質問には最低限に答えて、それが済めば自分からは語らずに押し黙る。会話のキャッチボールが成り立たないため、ふたりの間にはすぐに沈黙が訪れてしまうのだ。
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