初春──⑫

 教会内へ案内された裸の少女が落ち窪んだ眼差しで礼拝堂を見回している。長い年月を経てもなお聡明な輝きを見せるステンドグラスや木造の長いすの陰をうかがっているらしかった。整然と並んだ長いすのすみからは虫たちの這いずる音しか聞こえてこない。

「メーチェさん。どうぞこちらへ」

 エコはメーチェの細い手を引いて食堂へと案内した。礼拝堂の奥の扉を抜けると薄暗がりの細長い廊下が姿を現した。固い靴音と湿ったはだしの足音とが静寂の廊下に反響する。

 はだしの足音──しまったと思う。メーチェさんをはだしで歩かせてしまった。教会の庭は荘園となっているため尖った石を極力取り除いているが、茨のトゲや甲虫の死骸などで足の裏を切ってしまうかもしれないのに。うかつだった。

「はだしで痛くないですか。すぐに靴も用意しますからね」

「ん」

 うつむいたままメーチェが生返事を返してくる。

 しかし困った。子供の靴などどうやって工面すればいいのだろう。服ならエコが子供のときに身につけていたお古があったはずだが。あとで自室のクローゼットをひっくり返してみなければなるまい。

 ダイニングルームはホーリースター教会の東側に位置しており、家主の几帳面な性格の表れた整然とした広い一室だった。

 十人以上が座っても余裕のある大きなテーブルには洗濯されたばかりの藍染のテーブルクロスがかけられている。テーブルの上には液体燃料タイプのランプとマグライトが常備されていた。マグライトはマリアヴェルでは貴重な電池式バッテリーを消費しなければならないため、もっぱら使われるのはランプのほうだ。

 天井には円環タイプの蛍光灯が付けられているが、現在では使用されていないためにホコリをかぶっていた。台所のすみには大型の冷蔵庫が居座っているものの、電気が通っていないせいで生ぬるい水と野菜や果物、チーズや玉子を常温のまま保管しておくだけのスペースと化していた。人間がケダモノシティを去ってからというもの、機械や建築物といった人工物はひたすら寂れていく一方である。

 壁にかかったランプがひとつ油を切らしてしまっているらしく、灯っていた火が消えている。白色で統一された食堂に柔らかな影が差したようだった。

 メーチェと名乗った少女は惜しげもなく裸身を晒したまま、今度は食堂の隅々を流し目でチェックし始めた。珍しいものに目がいくのか、あるいは自分を嬲りものにした不審者がいないか警戒しているのだろうか。

 ふと、少女の視線が天井に止まった。

「ねえ、あれ……」

 不安げなメーチェの声にエコが上を振り仰ぐと、ひび割れた天井のすきまからヒグマバチの巣が覗いていた。

「彼らは悪さはしないので、心配はいりませんよ。さて……メーチェさん、ちょっとだけここで待っていてくださいね。あなたのサイズに合う服を取ってきますから。あなたたち、この子を見守っていてくださいね」

 エコは棚にしまってある予備の燃料を慣れた手つきでランプに注き、恐る恐るランプの底にあるコックをひねった。乾いた音とともにランプ内部で火花が発生し、燃料が優しく赤い光の揺らめきを放つ。この瞬間はどうしても緊張してしまう。火は苦手だ。

 煌々と光を投げかけるランプを手に、エコは自室へと向かった。

 室内は先ほどの死闘の痕跡が放置されたままだった。純白だったはずのエコのベッドは瑞々しい緋色に染まり、シーツの端々がよじれてマヨイガの黄色いリンプンが付着している。

 なによりもエコの感覚を刺激したのは血臭だった。錆びた鉄を思わせるつんとした香りが部屋に立ち込めてしまっている。メーチェを食堂へ放置してきたのは、この光景を見せたくなかったがためだ。

 換気をするため、エコは夜の窓を開け放った。そっとほほを撫でる春の風に乗ってかすかな羽音が届いてくる。周辺の警備に使わしたホエホエミツバチたちが帰還したらしい。

 彼らはエコが尋ねるよりも先にお尻の気孔からフェロモンを発して報告してくれた。

〝怪しい人物は見当たりませんでした〟

「……ありがとう。悪いけれど今夜は交代制で教会の警備をお願いします。それと少数でかまわないから、怪しい人物の捜索も引き続き頼みましたよ」

 大きく開け放たれた窓から更なる命令を部下たちへくだしたあと、エコは壁際のクローゼットに手をかけた。エコの身長を大きく上回るその四角い箱のなかには、彼女がこれまで身につけてきたあらゆる衣装が保管されていた。もちろん、子供のころにきていた服も。

 昔の服ほど奥のほうに収納されているため、結局エコは十八年間にエコの身体を包んできたほぼすべての服とご対面するハメになった。砂遊びをしていたころに世話になった運動服や、果てはベビー服まで。

 そのなかからエコは一着の子供服を引っ張り出した。純白のワンピース。聖歌隊の正装からフリルを取り除き機能美と通気性を追及したような、全身をすっぽりと覆うシンプルかつ清潔感溢れる服だ。これはエコのお気に入りだった思い出の服でもある。この衣装を着てよく父とともに賛美歌を歌ったものだ。

 さらにクローゼットを掘り起こしてみると、同じワンピースがなんと十着も見つかった。聖歌隊の服として使われていたものだから、たくさん常備していたのだろう。

 即決した。

「うん。似合う、と思う。きっと似合う。これにしよう」

 食堂へ戻るとメーチェがテーブルの下に隠れていた。唖然とするエコの顔を見るや、裸の少女は恐る恐るといった仕草でテーブルの下から這い出てきた。

「……な、なにをなさっていたのですか?」

「怖かったから、隠れてた」

 メーチェは無表情を崩さないままぼそりと答えた。

 隠れた──ひょっとして自分を襲った相手からだろうか、と考えるとエコの胸に冷たい疼きが宿った。

 この教会は安全だと、どうすればわかってもらえるのだろう。

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