初春──⑪
蒼い月が彩る庭の薄影のなかで、数時間前に命を落としたはずの小柄な少女がエコの顔をじっと見つめていた。夜の世界にたたずむ裸身の彼女は、さながら異国の怖い絵本から抜け出た亡霊のようである。
月明かりのおかげでようやく娘の姿を克明に観察できるようになった。
感情をうかがわせない、たれ目の茶色い瞳。こけて陰影の目立つほほ。肩でざんばらに揃えられた明るい赤毛。身長はおそらく百四十センチ前後だろうけれど、やや猫背ぎみなせいか、本来の身の丈より余計に低く見える。口元が固く結ばれているため、やや頑固そうな印象を与える少女だった。
そして顔と同様に痩せこけた肉体。胸は女性らしい膨らみを帯びているものの、腰周りに肉がほとんどついていない。お尻にはある程度の余肉が残されているらしいが、顔や輪郭の印象もあいまって、過度のダイエットに勤しんだような印象を受ける。これでは、身につけられる衣服も限られてくるのではないだろうか。腕や脚は、強く握れば折れてしまいそうなほどに細い。いったいこれまでどんな食事をとって、
はっとした。
彼女は、両脚で立っている。
いったいどういうことなのだ。エコが助けようとした彼女は何者かの手で半死半生の手傷を負わされていたはずだった。どんな奇跡が起きても人間の手足がこの短時間で元通りになるなどありえない。
それに、とエコは思う。
普通、人間は生きていく過程で多少なりとも肉体に歪みが生じるものだ。たとえば紫外線による肌の染みや、姿勢を悪くしていたことが原因の骨のずれなど。しかし少女の裸には、そういった痕跡がまるでなかった──不自然なほどに。
「あの……」
言いよどんだあと、ついに聞いた。
「どちらさまでしょうか」
なんとも間の抜けた質問であったが、少女はその言葉に奇妙な反応を示した。上目遣いでエコを見やり、
「……あたしのこと、知らないんだ」
「え?」
「……本当に、あたしがだれかまったく見当がつかない?」
「……ええ、まったく」
念入りに確認をした少女は「そっか」とつぶやくと、心なしかほっとした面持ちでぽつりとつぶやいた。
「メーチェ」
「メーチェ……それが、あなたのお名前ですか」
首が縦に振られる。
メーチェ。まったく聞き覚えのない名前だった。
「メーチェさんは……ああ、失礼。わたしの自己紹介がまだでしたね。わたしはエコ・ランチェスター。このホーリースター教会の主で、神に仕える職業に携わっています」
そういってエコは右手を広げて我が家を指し示した。夜光蝶たちが織り成す青緑色の光源に包まれた不思議な庭の真ん中に聳え立つ、木造の古びた教会。巨大すぎるほどの大樹に抱かれるように佇む建築物を眺めやり、メーチェと名乗った少女はさしたる感慨もなさそうに仏頂面で返答をする。
「そうなんだ」
背後の教会を振り仰ぐ際に、少女のこぶりな乳房が小さく揺れた。
エコは居心地の悪さを覚えた。同性とはいえ、全裸の相手と面と向かい会話をすることに抵抗を覚えたのである。
自慢の大きな単眼をメーチェの胸元からそらしつつ、
「あのですね、メーチェさん。その、裸ではなんですし……」
「? あ、ほんとだ。あたし、裸だ」
「一度、教会へ入りませんか? ここではだれかに見られてしまうかも」
そこまで口にしたとき、エコの胸を緊張が走り抜けた。そうだ。メーチェの姿をマリアヴェルの住人に目撃されたらポリスへ通報されてしまうかもしれない。
いまひとつ状況がつかめないものの、公園から一望できる教会の庭でおしゃべりをしていられる状況でないことは確かだった。
「……教会へ入るの?」
ホーリースター教会へ身を隠すことを提案されたとたん、メーチェが警戒の色を見せた。
「ええ。いつまでも裸で外にいるわけにはいかないでしょう?」
「あの教会には……」
メーチェはそこで言葉を切り、恐る恐る、上目遣いでたずねてきた。
「エコのほかに、だれかいる?」
「? いないけれど、どうしてですか」
「本当に? 本当に、エコ以外にいない?」
「ええ。虫と植物と、あとはわたしだけが暮らしています」
エコはやきもきしていた。
メーチェはなにが気がかりなのだろう。自分を血祭りにあげた、どこにいるとも知れない犯人の存在が怖くないのだろうか。エコでさえ不安で、心中穏やかではないというのに。
「いまはわたし以外に教会で暮らしているものはいません。信じてください。さあ、早く。あまり外にはいないほうがいいでしょうから」
信じて、という言葉にアクセントを置いてエコは語った。この宣言を信じてくれるかどうかはメーチェ次第なのだが……。
「…………」
メーチェは押し黙ったままなにも答えない。薄い唇をきゅっと結んだまま、こぶしを握り締めている。
公園の木々からフクロウの歌声が響いている。時刻はすでに十二時を回っていた。
焦りで頭が焼けそうな時間が刻まれていく。このまま反応をもらえないままでは埒が明かないため、エコはあえて一歩引くことにした。
「無理強いするつもりはありませんよ。ただ、裸のままでは寒いでしょうし、どこへもいけないでしょうか、わたしの服を貸して差し上げようと思っているだけです。たしか倉庫に子供のころに着ていた服を保管しておいたはずですから」
メーチェはうつむいたまま答えない。
どうして返事をしてくれないのかエコには理解ができない。もしかして、なにか気に障ることをいってしまったのだろうか。それともわたし以外のケダモノを恐怖しているのか。
彼女には、行くあてがあるのか。
「…………。うん。じゃあ、教会へいく」
長い時間をかけてようやく、見るからに気乗りしない様子でメーチェが小さく首を縦に振った。
エコはようやく胸をなでおろして、メーチェに手を差し伸べた。シスターの手をとる少女の肌は、やはり冷たかった。
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