初春──⑩
骨ばった青白い腕はエコの二の腕を握り締めるなり、ぐいっと手前に引っ張ってきた。
母親の袖を引く子供と同程度の、拍子抜けするほど軽い力で。
「あっ」
それでも、はしごに手をかけようと前かがみになっていたエコのバランスを崩すには十分な力だった。
完全に虚をつかれたエコは、息を飲むまもなく腐れ穴に引っ張り込まれた。踏ん張ることさえできずに均衡を失い、前のめりになった身体が宙に投げ出された。視界が反転する。重力が消失して空を飛ぶような感覚がした。
二メートルという落下距離はゆうにケダモノの命を奪える──が、腐れ穴の底は黒土や腐肉が堆積しているため、落下時の衝撃は皆無に等しかった。羽毛に包まれるような柔らかな感触とともに、エコは背中から穴の底へ着地した。お尻にちくりと固い感触があったのは、おそらく腐肉蟲と大樹の根がしゃぶりつくした骨の一部が当たったのだろう。
仰向けに倒れたエコの視界に四角く切り取られた夜空が広がっている。呆然と星々の淡い光を凝然と見つめながら、
「いまの……な、なに、いまの腕は……」
エコはショックで茫然自失となっていた。胸を支配する恐怖によって、きめ細かな肌に青みがさす。
私を引きずり込んだあの青い腕はいったいなんだったのか。腐れ穴には死んだ少女の遺体しかなかったはずなのに。穴の底から出口までは成人女性が腕を伸ばしても手が届くか否かという深さである。いったいだれが……。
どうにか身体を起こし、暗闇のなかでエコが大きな一つ目を凝らすと、薄暗い穴の底にひとりの少女が立っているのが見えた。
あの少女だった。
星明りさえも届かない暗闇のなかにぼんやりと痩身の少女のシルエットが浮かび上がっている。非常に薄暗いせいではっきりと確認できるのは身体の輪郭と髪型くらいだけれど、エコが弔ったあの娘に間違いなさそうだ。死臭で鼻のもげそうな墓穴の底でふらりとたたずむ少女は、炯炯と光るうつろな視線をエコに投げかけている。
エコは完全に言葉を失った。
目の前の現実に思考が追いつかなかった。
たしかに、私が食べたのに。
蟲たちに肉を腐らせてもらい、大樹の養分にしたはずなのに。
根を通じて少女の骨を砕き肉を貪り血をすすった感触はたしかにあったのだ。なのに、どうして彼女がここに立っているのか。
「……びっくりした。はしごかと思って掴んだら、ひとの手だった」
永遠にも感じられる数秒が経過したのち、抑揚のない声で、少女がつぶやいた。ベッドの上で「痛い」「寒い」と訴えていたあのソプラノの声色。
しゃべった。あの少女が、普通に声を発した。
驚きのあまり返事すらできないエコからやがて少女は目を逸らし、地の底に視線を走らせ始めた。生気の抜け落ちた顔をやがて上へ向けると、彼女はひたいに手をかざして、上ずった声でつぶやいた。
「空だぁ」
つられてエコが上を見ると、天を覆うように広がった大樹の枝葉の隙間から銀色の星々の姿を確認できた。大地を吹き抜ける風や、街の喧騒はここまで届かない。黒土の甘い臭いと、鼻を痺れさせる腐敗臭が充満する腐れ穴は、もはや地上とは別の世界といえた。
静寂のうちに過ぎていく時間。正体不明の人物とひとつ穴の下にいるというのに、不思議とエコが警戒心を覚えなかったのはなぜだろう。
「空が、見える。普通に見える。なんで……」
そんな呆けたような少女のつぶやきでエコは我に返った。
おもむろに立ち上がり、慎重に言葉を選びつつ穏やかに言葉を投げかけた。
「あの、ちょっと」
か細いシスターの声が耳に届いたのか、四角く切り取られた星空から目を逸らして少女がエコを見つめた。
生唾を飲み込み、まずはもっとも懸念していることからたずねた。
「あなた、ケガは、大丈夫なのですか?」
「え? ケガ……」
きょとんとした様子を見せた彼女は、ふと自分の手足をぱたぱたと動かした。その身振りはとても致命傷を負った人間とは思えない機敏なものだった。
「……ん。平気、みたい」
とだけ答え、少しして、さらに言葉の穂を継いだ。
「もう、どこも痛くないし。動くし」
「…………」
エコは安堵のあまり、はしたないほど盛大に息をついた。胸中に堆積した暗雲がすべて晴れていくようだった。目元には小さな涙さえ浮かべていた。
「そうですか。よかった……」
素人目のうえに薄暗がりのなかでの確認ではあるが、少女はたしかに問題なさそうである。
正直、なにがなにやらわけがわからないが、少女が危機を脱したのは間違いないらしい。エコの治療が功を奏したのか、それとも神が奇跡を起こして少女を救ってくださったのだろうか。
では、私が食べたあの死体はなんだったのか。
ぶるんぶるんとエコは頭を振るって、鎌首をもたげる不安を追い払った。
ともかく、少女は生きてここにいるのだ。それで十分ではないか。
初対面に近い間柄である場合、まずは互いに自己紹介をするべきであろう。が、エコはあえて互いの身元に関する話題を逸らした。少女を不安がらせたくなかった。
「ここは、ホーリースター教会の、裏庭です。裏庭に掘られた穴のなかに、います。あのですね、まず、ここから出ませんか?」
「…………」
少女は返事もしない。エコの心中を推し量っているかのように、ただ口を閉ざしたまま眠たげな視線をエコに走らせ続ける。時折小首を傾げさせているように思えるのはなぜだろう。
「……。どうでしょう?」
エコが確認のために再度、語りかけた。
相変わらず少女は押し黙ったままだけれど、どうにか首をたてに振ってくれた。かまわないということらしい。
エコはほっとしつつ、土くれでできた壁にそっと手を添えた。ややして腐れ穴の縁から重い音とともにこげ茶色の太い根が下ろされた。エコの分身である大樹の根。ただでさえ薄暗い地中の空間に降り注ぐ光がさらに遮られ、ほとんどなにも見えなくなってしまう。
「はしごを使おうか迷ったけれど、また落ちちゃうのはこりごりですから。それに……」
それにあなたは腕も脚もひどいことになっていたし、といいかけてエコは口ごもった。いまは余計なことを口にする必要はないのだ。
エコが土まみれの根に両腕でしがみつく様子を、少女はぽかんと口を開けてみていた。信じられないものを目撃したような驚愕の色が爛々と瞳に宿っている。
もしかして、彼女は植物が動くところを見るのは初めてなのだろうか。
「あなたもこれにつかまってください。ここから引っ張り上げてもらいますから」
そういってエコが少女へと手を差し伸べた。無論、下心などない純粋な善意によるところである。
しかし少女は、がっしりとした太い根っこにぶら下がるエコと、その手を呆然と見つめるばかりで動こうとしない。ずいぶんと警戒心の強い性格らしかった。
「大丈夫ですよ。さあ、こちらへどうぞ」
ふたたび、細身の少女のほうへと手を伸ばす。
少女は黙したままじっとエコの手を睨みつけていたが、やがておずおずとその手を握った。小さな、ひどく冷たい手のひらの感触。
天然のゴンドラがゆっくりと上昇していく。触れているだけで心強さを感じる固くて太い根っこに揺さぶられるまま、ふたりは腐れ穴から引きずり上げられていった。ただでさえ返り血で湿っているエコのシスター服に、さらに腐肉と土とがこびりついてしまった。もう洗濯しても染みが落ちることはないだろう……黒い色をベースにした服だからほとんど目立たないけれど。
穴の上へ引っ張り上げられると、暗闇に慣れていたエコの大きな瞳に月の光が差し込んできた。従者の蟲たちが心配げに羽音を響かせて、腐れ穴の周辺を舞っている。エコの長い緑髪が柔らかな風にかきあげられ、夜のしっとりとした香りが全身を包んだ。
そのときにようやくエコは気づいた。
すぐ隣で根を掴んだままの痩せた少女は、衣服をなにひとつ身にまとっていなかった。下着すらも。
彼女はふとこちらを振り返り、エコに負けないほど大きく息をのんだ。
「あ。さっきの一つ目のシスター……」
「あなた、裸じゃないですかっ」
雑草が風にさざめく音に、ふたりの声が重なった。
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