初春──⑨

 エコは、見た目以上に軽い少女の亡骸を腕に抱えた。自分の使っているベッドがすっかり赤黒い液体に染まっている。血まみれの髪の毛が一房抜け落ちてエコのまくらに張り付いていた。

 開け放しだったドアを抜けて庭へと戻る。足を向ける先は腐れ穴だ。この娘を埋葬しなければなるまいと思う。たとえこの街の住人ではなくても、掟に乗っ取った葬儀をおこないねんごろに弔うつもりだった。よたよたと歩くエコの頭上を従者の羽虫たちが遠慮がちに飛び交っている。主人を刺激しないようにとする配慮だろうか。

 闇に支配された庭を夜光蝶の先導で進んでいくと、春先の庭に咲く花々がおぼろげな萌黄色の光で淡く照らし出された。赤や黄色や群青色のスミレやチューリップが涼やかなそよ風に揺れて頭をたれる。芽生えたばかりの植物たちのしっとりとした香りが血臭をかき消していった。

 エコは教会の裏手に回り、二メートル四方の大穴へとたどり着いた。腐れ穴。漆黒の闇が飲み込む縦洞の前にエコは立ち尽くしていたが、やがて背負われた少女の遺体を抱えなおし、なるべく死体を痛めないよう腐れ穴へとそっと落とした。月の光が届かないくぼみの底から肉が叩きつけられる音が聞こえた。

「みんなー」

 と、静かに手を叩くと、縦穴の端々から白い芋虫が這い出てきた。細長い胴体をくねらせて、鋭い口吻をひくつかせているミミズサイズの数百匹の子蟲。動物の死体を内部から食いつくし、栄養の豊富な黒土へと変える腐肉蟲たちだ。

 エコの命令を待つよりさきに腐肉蟲たちは少女の遺体へと群がった。腫れあがったほほの肉を食い破り、落ち窪んだ眼球に穴を開けて体内へと侵入していく。人間の生肉は彼らにとってよほどのごちそうなのか、みな我を忘れて亡骸を食い漁る。少女の肉体がときおり痙攣しているように見えるのは、関節の筋肉を虫たちが噛み切っているために起こる現象だ。骨の内部、骨髄までむさぼる下僕たちをエコは黙って見つめつつ、胸で十字を切って少女の冥福を祈った。

 静かな時が流れていく。見上げれば、まあるい銀月の位置がだいぶ西へと傾いていた。

 夜光蝶が腐れ穴のそばに咲くチューリップの花びらに止まり羽根を休めている。チューリップは腐れ穴へと続く歩道に沿って植えられているため、夜光蝶の薄緑色の朧光が一列に並んで地面を照らし出すさまは見るものを感動に誘うほど幻想的な光景だ。エコはふと肌寒さを覚えた。返り血にまみれたシスター服が彼女の身体から徐々に体温を奪っていっていた。春先とはいえまだまだ夜は冷えるようだ。

 腐れ穴を覗き込むと、白い芋虫たちが肉厚でみずみずしい白いボディを愛らしくうねらせてこちらを見ている。少女の肉塊を食んでご満悦な様子で口吻を開閉させて、天から落とされた極上のごちそうへの感謝の意を表していた。

 少女の亡骸は芋虫たちに食い尽くされ、触れれば崩れそうなほど柔らかく穴まみれになっていた。紫色に変色した肉片がこびりついた骨格からはたんぱく質が腐敗するすえた臭いが漂っている。もはや少女の顔は原型をとどめておらず、眼窩には暗い穴がぽっかりと開き、零れ落ちた眼球からはどろりとした透明な粘液が滴っていた。半開きの口内から腐肉蟲が何匹か這い出てきた。柔らかい粘膜ほど噛み切りやすいため、口や目、鼻などは彼らのお気に入りの場所だ。

 そろそろ食べごろだろう。

 エコは従順なる下僕たちに命じ腐れ穴から退出させた。

 やがて、教会を取り巻く巨木の根が重々しい音を立てて動いた。エコの分身たるその大樹は、やおら腐れ穴の内部にエコの腕よりも太い根っこを何本も突入させ、少女の死骸に絡みつかせた。死肉からの養分の吸収。少女の服も骨も一緒くたにして絡みつく根っこの内側から水っぽい音が響いた。

「いただきます」

 エコは両の手のひらを合わせて、少女と神へ冥福と感謝の祈りをささげた。

 大樹の食事が始まる。

 巨木の毛細根を通じて少女の腐った血液や脳髄、肉汁の味と栄養がエコに染み渡る。これまで味わったことのないほどまろやかな味わい。脂分が少なめな分、あとを引かないさわやかな味だった。香草を添えたラム肉のような感触。人間の肉は久しぶりに味わったが、相変わらず癖になりそうなほどのうまみだ。

 全身で人間の娘の肉体を味わいながらエコは思う。

 少女がホーリースター教会で最期を迎えられたのは、せめてもの幸運だったのではないかと。

 人間を毛嫌いする市長の命令があればこそ、たとえ亡骸であったとしても少女はマリアヴェルから追放されたはずだ。街下を国外まで流れる下水に捨てられていたか、よくてもマーメイディア海岸の沖に投げ捨てられていただろう。そうすれば彼女は骨すら残らず、弔われることすらなかった。

 エコの肌に赤みが差し、みるみる血色がよくなっていく。

 人間の肉体を存分に貪ったために、さらに数日分の栄養を取ることができた。これで当分はなにも口にしなくてよさそうだ。エコと魂を分かち合う大木の葉や根もみずみずしさを増し、幹の周辺を舞う夜光蝶の燐粉が緑色の雪となって教会の庭に降り注ぐ。もう少し季節が進んだら、マリアヴェルの住人たちが喜んでくれそうな観賞用の大輪の花を咲かせてもいいかと思う。エコの分身が織り成す白く透き通った花。花弁に栄養をとられるため存分に日光を浴びて死体を貪ったときにだけ咲かせる、ホーリースター教会の象徴ともいえる花である。

 茶色い太根がおもむろに腐れ穴から引き抜かれた。少女の死体から養分を吸い尽くしたためだ。骨髄や肉筋さえも漁りつくし、もはや残っているのは骨ばかりであろう。

 穴から骨を拾い上げ、墓穴へと埋葬しなければなるまい。エコはシスター服に泥がつくこともいとわず、穴の底へと降りるためのはしごを使うため、暗く開けた口のそばへとかがみこんだ。

 腐れ穴から細く青白い腕がぬっと伸ばされ、エコの手を掴んだのはその瞬間だった。

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