初春──⑧
止血を終えたエコが倉庫から救急箱を探して戻ってきたときには、少女の容態がふたたび悪化していた。胡乱な瞳で天井を見つめたまま、がたがたと小刻みに震え始めた。少女がうめく。
「さ、寒い……」
失血が原因で体温が低下しているのだと、少女の肌に触ったエコはすぐに察した。生物とは思えないほど血の気がうせて冷えきった少女の肢体の感触が、いまさらながらエコにショックを与える。痛みから解放された彼女はいま、猛烈な悪寒に襲われているのだろう。
輸血が必要だった。
人間の血液などどこにもなかった。
逡巡したのは一瞬だった。
エコはマヨイガを窓から解き放ったあとにすぐさま自室の本棚へ向かう。宗教関連の本や辞書、絵本に料理の指南書まで並んでいる本棚の一番下の段に手を伸ばす。
そこにはたくさんのガラス瓶が並んでいた。
サイズもまちまちなそれらのガラス瓶の内部には、色も形も多種多様な植物の種子が分類されて保管されている。
エコはそのなかからアミガサユリとキキョウ、そしてシソの種子を取り出してから、ソーイングセットのはさみを開いて自らの二の腕に切り込みを入れた。鋭い切れ味の刃物がエコの肌をやすやすと切り裂き、すぐさま赤黒い血液が傷口からにじみ出る。その抉れたスリットに薬草の種子を埋め込むと、ドライアドの娘は種子に不可視の能力を注ぎ込み発芽を促した。
数秒もしないうちに、エコの左腕の肉を苗床にして数種類の薬草が芽吹く。細い根が肉を割ってエコの血液を吸い上げて養分にし、双葉が生えて数センチほど伸びたところで、エコはすべての薬草を摘み取った。根っこごと引っこ抜かれた傷口からは少なからぬ血があふれ出す。
エコは自分の血を小皿へと注ぎ、そこへ薬草の根と茎を入れて親指で丹念にすりつぶした。シソやユリが痛み止めや悪寒に効く薬草であることをエコは知っていた。人間が開発した人工薬ほどではないが、効き目は期待できるはずである。
「飲める? これを飲めば楽になるはずだから」
エコは自分の血液と薬草とを混入させた小皿を少女の口元へと運んだ。薬草を体内で育ませたドライアドの血中にはいくばくかの薬効が認められている。ハーブの香りで生臭さが中和されているためか、舌先で舐めるようにではあるがすべて飲み下してくれた。
ほどなくして少女の震えが治まった。肌にほんの少しだけ血色が戻り呼吸が安定する。最後はエコ自らの手で少女の全身を優しくさする。せめて、少しでも少女を寒さから守ってあげたかった。
──しかし。
どれほど手を尽くし心血を注いだところで、人間の少女が致命傷を受けたことに変わりはなく、素人の手当てが実を結ぶ奇跡など起こりえない。
それからどれくらいの時間が経過しただろう。肌をさすり続けるエコは少女の脈拍が徐々に弱まっていることを察していた。
「…………」
血に染まる少女の瞳は恐怖を訴えていた。もはや言葉を発する元気もないらしく、ゆるく歯をかみ締めて避けえない死への恐怖と戦っている。
少女は、まもなく死ぬ。そして彼女は、そのことを理解していた。
薬もない。医療器具も技術もない。
エコにはもはや手のうちようがなかった。
どうすればいいのかもわからないまま、エコは無残に切り刻まれた少女の身体へそっと覆いかぶさるようにして抱きしめた。漆黒のシスター服に、だれとも知らない少女の血潮がこびりつくことに微塵も嫌悪感を覚えなかった。
「なにも怖がらなくていいのですよ」
まもなく冷たく、固くなるであろう血まみれの少女の消えゆく生命を肌で感じて、一言一句をかみしめるようにして、エコがささやいた。
「私が一緒にいます。あなたはなにも悪くありません。私はあなたのそばにいますから、安心していいのですよ」
優しく諭すように語り掛けるエコ。その面持ちこそ少女を不安がらせぬため笑顔を絶やさずにいたが、その胸中は鋭い痛みを覚えていた。
なんだ、これは。
いったい、なんなのだ。
この少女がいったいなにをしたのか。
このようなひどい仕打ちを受けるほどのどんな罪を犯したというのか。
人間のひとりもいないケダモノの都市でなぶりものにされた挙句、孤独のうちに命を落としたのではあまりにこの少女が救われないではないか。
少女の心臓がひときわ大きく鼓動した。
わずかに腕に込められていた力が抜けると、名もなき少女は最期にくうっと息を吐き出した。それきり、微弱だった呼吸が完全に止まる。まぶたを半開きにしたまま、ブラウンの瞳から光が失せた。
少女は死んだ。
ヒグマバチの重い羽音が静寂に満ちた室内に響く。
少女の生命活動が停止してもしばらく、エコ・ランチェスターはその小さな身体を抱きしめ続けた。
少女の肉体から体温が喪失し始めるころにようやくエコはそっと両手を離した。
先ほどまでの断末魔がうそのような穏やかな死に顔だった。
物言わぬ亡骸と化した少女の驚くほど安らかな表情を見つめながら、エコは静かに肩を震わせていた。
怒りとも悲しみともつかぬ重い感情を胸に宿らせたまま、醜く顔の腫れた少女の髪をエコはそっと撫でる。枝毛だらけでまともに櫛の入っていない少女の茶髪は、いつから洗髪をしていないのかさえわからないほどにフケと垢にまみれていた。おそらく自分で散髪したのだろう、ざんばらな長さの髪が脱力した少女の肩にばさりとかかっている。
飛び散る血潮にばかり目を奪われていたが、少女の服装もひどく不潔なもので、茶色い泥や垢の痕跡が点々とズボンやシャツにこびりついていた。エコよりも頭ひとつほど背が低く、ひどくやせている。腫れている顔もよく見れば頬骨が浮き出ていた。彼女はここへくるまでろくなものを食べていなかったのだろうか。
「……ごめんなさい」
エコは、自分の無力さを少女に詫びた。
八方手を尽くし、できたことといえば死期を遅らせるだけ。
せめて自分に医学の知識があれば命だけでも救うことが叶ったかもしれない。だが、ケダモノの血をひく自分には人間の医療など理解できようはずもなかった。
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