初春──⑦

「え……な、なに。これ」

 唖然とその場に立ち尽くすエコの肩から二匹のヒグマバチが羽音を立てて飛び上がり、闇夜の庭へと姿を消していった。応援を呼びにいったのだろう。残りはエコの周辺で威嚇音を立てながら8の字を描いて主人の警護を始めた。ヒグマバチはその大きなサイズと凶悪な外見とは裏腹に、毒針に殺傷能力はほとんどない。〝ちくり〟ですむ程度の武器しか持たない従者であるが、そばに護衛がいることがエコにとってなによりも心強かった。

 エコは生唾を飲み込んで血に染まる扉を確認した。血液はまるで乾いておらず、たったいま付着されたものに間違いなさそうだ。

 葬儀人として死者の弔いをつかさどっているため、彼女は血を見慣れている。しかし教会の扉に血糊を塗られるような事態は初めてだ。先ほどから警戒しているヒグマバチたちはこれに気づいていたのだろう。いったいだれが……。

 玄関から門へと続くむき出しの土道のうえに人間の頭程度の太さの赤い線がまっすぐ、庭の奥へと続いていることに気がついた。間違いなく、これは血だろう。もしかしてケガをしたひとがいるのだろうか。しかしこれだけの出血となると、血の主は無事ですむとは思えない。

 と、飛び去っていったヒグマバチが数十匹のお供を引き連れて戻ってきた。互いの意思を確認するかのごとく触角をすり合わせたのち大多数がエコの周辺を飛び交い始め、さらに数匹が別行動をとって一散に庭の西側へと羽ばたいていった。ヒグマバチは嗅覚に優れており、特に動物の体臭を追跡する能力に秀でている。この血液を残したなにものかを見つけ出したのかもしれない。

 エコは星明りに照らされた庭を西へと歩みだした。

 春の夜庭は水気を含んだ草花と甘い土の臭いに満ちている。革靴の裏に感じる堅い感触は玄関から庭の入り口へと通じる飛び石だ。耳を澄ませば木立を吹き抜ける風の気配。輪郭のはっきりした月が銀色に輝き、マリアヴェルの庭を見下ろしていた。ホーリースター教会の庭は数多の植物が植わっている。多年草、一年草を問わず色とりどりの草花が花壇に彩りを添え、苔むしたレンガ造りの歩道には蔓で編まれたアーチが並んでいる。ランプの淡い光に照らされた春の庭からは若い生命が芽吹く気配で溢れていた。

 エコの顔の真ん中に位置する大きなひとつきりの瞳がふと細められた。

 だれかが、いる。ランプの光を向けると、ここからそう遠くない場所、夜の闇にまぎれて新緑の雑草の上に横たわる細く小さな人影を確認できた。徐々に生臭い血の香りが濃くなって、ヒグマバチの羽音が盛大に耳をかき乱す。目を凝らすと影の周辺には点々と小さな血痕が飛び散っているのが見てとれた。そして、小さなうめき声。

 エコは早足でうずくまる影へと近づいていった。正体不明の影にまるで恐怖を覚えなかったのは、そのうめき声があまりに弱々しかったためだ。エコの胸をかきむしる不安は、不審者への警戒とは逆のベクトルへ向き始めている。もしやこの影は、助けを求めて教会へ……?

 古めかしいランプがねっとりとした闇を白い光で裂き、横たわる人影の正体を暴き出したとき、エコは大きく息を飲んだ。

 人間の、少女がいた。

 年齢は十三歳くらいだろうか。背が低くて痩身で、恐ろしいほど肌の血色が悪い。あちこちが破れ、泥にまみれた不潔なシャツとズボンを履いていた。

 彼女の顔には殴打の痕跡があり、左側のほほが腫れあがっている。薄い胸元には太く長い爪あとが残されていた。えぐられた傷は内臓に達してはいないようだが、折れた肋骨の一部がむき出しになっていた。止血されていない暗い切り傷からはいまも絶え間なく鮮血が滲み出している。

 さらに左腕は強い力でひねられたのか、あってはならない方向へと関節が曲がっていた。視線を落とすと、右足は太ももから切り落とされていた。切断面は骨が見えて真っ赤に染まり、いまも血液が滴り落ちている。切り離された足はどこにあるのだろう、見当たらない。

 少女は短い間隔で荒い呼吸を繰り返していた。歯の根が合わないらしく、小刻みに震える口がカチカチと音を鳴らしていた。意識があるのは彼女にとって幸運なのか不運なのか。

 身の毛がよだつ感触をエコは覚えた。だれがこんなひどいことを。

「みんなーっ」

 神の眷属らしからぬ剣幕でエコが暗がりの畑へ招集の号令をかけた。鶴の一声によってヒグマバチのみならずホエホエミツバチと夜光蝶がそれぞれ数十匹も飛来してきた。夜光蝶の薄緑色のおぼろげな光が庭一帯を月光より明るく照らし出す。

「月光蝶はヒグマバチと一緒に庭と公園を見回って、不審者がいないかを確認してきてちょうだい。ホエホエミツバチは街まで飛んで、急いでお医者さんを……」

 エコの脳裏を黒い記憶がかすめる。

 ──人間を見つけたら。

 すぐに殺せ、と市長は命じていた。無論エコにそのつもりなど毛頭ない。しかしほかのケダモノたちまで無血主義であるとは限らないのである。医者を呼んだとしても瀕死の人間を満足に治療できるとは限らないし、そもそも市長の命令に従ってこの少女の命を奪いにかかる可能性さえあるのだ。

 エコはしばし押し黙ったあと、従者たちへの命令を中断して新たな言いつけをした。

「月光蝶は五匹残って私の足元を照らしてください。残りは不審者を探して。影に潜んで奇襲してくるかもしれないから注意してね」

 エコの命令をうけたまわった羽虫たちは一散に隊列を組んで扇状に夜空へ散らばった。蝶たちは暗がりの庭を飛び回りハチたちは救助を要請すべく夜の街へと羽ばたいていった。

 少女のそばへ座り込んだエコは一瞬だけためらい、しかし少女の耳元ではっきりといいきかせた。

「大丈夫ですか。すぐに手当てをしますからがんばってくださいね」

 その声が届いているのか否か、彼女は荒々しく呼吸を繰り返すばかりだった。

 地面に手を着くと、周辺の土は少女の鮮血で湿っていた。エコは高まる心臓の鼓動を沈めようと躍起になりながら血まみれの少女を背におぶった。シスター服に血痕がこびりつくこともいとわずにおんぶをした瞬間、少女の異様な軽さがエコの心臓がわしづかみにする。足を失っているため体重が軽くなっているのか、それだけの血液がすでに失われているのか……。

 夜光蝶の先導のおかげで躓くことなく玄関まで戻ったエコは半死半生の少女を背負ったままドアを開け、礼拝堂を小走りに抜けた。向かう先は自分の寝室だ。そこ以外にまともな寝台の用意がすぐにはできない。

 床に点々と血のしずくがこぼれ、木造の廊下に道しるべを作っていく。心配げに羽音を立てながらホエホエミツバチと夜光蝶が追従してきた。

 自室のベッドに少女を寝かしたとき、ようやくエコは少女の出血のひどさを知った。切り裂かれた胸元と、そして失われた右足の根元から断続的に噴出する鮮血がどんどんエコのベッドを真っ赤に染め上げていく。エコは真っ青になり、血まみれになった手で口元を押さえた。

 もちろん一介のシスターに医学の知識など皆無だ。どうすればいいのだ、こういうときはどうすれば。そうだ、まずは止血を……。

「痛いいいっ……」

 そのとき、少女が始めて言葉を発した。

 これだけの手傷を負ってなお痛覚が機能しているのだろう。少女は眉をしかめて歯を食いしばり、うめき声をあげる。顔を殴られ、胸をえぐられ、腕を折られて足を奪われた痛みが容赦なく少女を苛んでいるのだ。

 痛み……彼女の痛みを和らげなければ。

 緑髪のシスターは急いで窓を開け放ち、凛と透き通る声を星明りに照らされる庭に向けて発した。

「マヨイガ。すぐにここへ」

 女王の号令から時間にして十秒ほど経過して、やにわにいくつもの大きな羽音が窓の外を支配した。

 手のひらサイズの茶色い蛾が月光に染まる庭に浮かび上がった。平たい触角を持ち、折れ曲がった羽にはドクロを思わせる文様がある風変わりな昆虫。虹色の燐粉を粉雪のように地表にばら撒きつつ、醜くも美しいその虫が血に染まる寝室へと舞い込んできた。

 室内の衛生を損なうため本来してはならない行為だが四の五のいっていられない。エコはマヨイガに命じた。

「この女の子の傷口に燐粉を落としてください。私はこの子の止血をします」

 そういうとエコは部屋の隅の机の引き出しからソーイングセットを取り出し、はさみを用いてベッドのシーツを切り裂いた。大急ぎで部屋から出て清潔なタオルを調達してきたのち、シーツの切れ端を用いて切断された右足の付け根をきつく縛る。一時的な処置だが、おそらくこれで足は問題ないはずだ。

 続いて胸元の切傷にタオルをあてがって止血しているあいだに、マヨイガが燐粉を切断面および胸元の傷に撒き散らす。

 と、歯を食いしばって苦悶の表情を浮かべる少女に変化が訪れた。たゆまぬ激痛に鞭打たれていた身体を弛緩させて徐々に呼吸のペースを落ち着かせていく。

 ほうとエコは嘆息した。

 ケダモノシティに生息する固定種マヨイガの燐粉には生物の感覚を狂わせる成分が含まれており、血中に取り込むことで麻酔と同じ効果を期待できる。少女のむき出しの血管から入り込んだ燐粉が全身を駆け巡り、暫時的に痛覚を麻痺させているのだ。過多に摂取すると幻覚を引き起こす恐れがあるため多用は禁物であったが、いまはなによりもありがたい天然の医薬であった。

 しかしこれは一時しのぎにすぎない。痛覚を失ったとはいえ、少女の容態が好転したとはいえないのだ。血を流しすぎているし、これほど大きな傷口を縫う技術などエコは持っていない。

 医者が必要だった。ろくな医学知識を持たないケダモノではなく、人間の医者が。

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